その夜はそれ以上、葵さんから鷹史さんのことを聞き出せなかった。
葵さんは”ごめんね。こんなこと、瑠那ちゃんに言うつもりじゃなかったのに。こんな頼りない母親でごめんなさい”と涙ぐむばかりなので、私は追求をあきらめた。気分転換に一緒にいろんな街の写真やスライドを見た。どの街にもそれぞれ魅力があって憧れをかきたてられる。いつか行けるだろうか。行けるような大人になれるんだろうか。夢のように遠い希望の気がする。葵さんは自分で行った場所だけでなく、様々な国の写真集や地図などをコレクションしていて、いつでも見ていいと言ってくれた。
「葵さん、この資料は研究で使うんですか?」と聞いてみた。
「そうね。研究でも使うけれど」
何だかまた寂しそうな笑顔。私は少し待ってみたけど、それ以上の言葉は出てこなかった。葵さんには秘密が多い。
葵さんの書斎から出てみると、廊下にのん太が立っていた。口に指を当てている。葵さんには内緒の話がしたい、ということらしい。あんた何やってんの。こっちこそ話があるわよ。
離れの図書室に入ると、のん太がこぶ茶とゴマせんべいを出してくれた。ふう。葵さんと2人でいる間、けっこう自分が緊張していたと気づいた。だってあんなに傷ついて怯えた人に不用意なことなんか言えない。
「のん太、あんた、何やってんの」
「うん? うん。いや、瑠那の方こそ、葵さんのこと気にしてただろ」
「だってなかなか話せなかったんだもの」
「うん」
「もっと話したかったのに」
「うん」
2人でしんみりこぶ茶をズズズとすする。ふう。私、ホント何やってんだろ。自分のことばっかり一生懸命で、この家のこと、いまだに何もわからない。
「ねえ。のん太、あんた、鷹史さんが葵さんに何言ったか、聞いてるの?」
「うん? うん。だいたい」
「どういうことなのか、わかる?」
「うん、まあ、だいたい。俺も6歳からここの連中と付き合ってるけど、わからないことの方が多いな。はっきりわかってるのは、10年前によくわからない理由で新さんが消えた、ということだけだ」
「やっぱりわからないの?」
「うん」
人がひとり消えるって。突然に、何の準備も無く、今まで隣にいた人が消えるって。どんな気持ちがするのか想像できない。納得なんかできないだろう。
「鷹史さん、どうしてあんな事言ったと思う?」
「葵さんにあきらめさせるためだって、言ってた。新さんが消えて、葵さん、半狂乱で探してたから」
「ああ」
「新さんが消えた時、この神社のご神宝の宝珠が盗まれたんだ。桜さんはそのせいでここの結界が歪んだ、と言ったものだから、葵さんは宝珠さえ取り戻せば新さんが帰って来ると信じてた。それこそ世界中駆け回って、宝珠と新さんを探してた」
「あああ」
あの資料。あれは新さんを探すためだったのか。
「鷹史に言わせると、帰って来る可能性はほとんど無いんだそうだ。俺にはわからないけど」
鷹史さんが連れて行ってくれた、星空のような海の底。新さんはあそこにいるのだと言ってた。私と同じように、鷹史さんが葵さんをあそこに連れて行ってあげれば、2人は再会できるってもんじゃないの?
「瑠那、お前、このうちのこと、どのぐらいわかってる?」
私は疑問に思ってることを、全部のん太に聞いてみた。そういえば、このうちの不思議なことを客観的に話せるのはのん太だけなのだ。
私の話を聞いたのん太はにいっと笑った。
「なるほどね。お前、なかなか勘がいいよ。それにすごく公平に見てる。瑠那、研究者に向いてるかもな。こんなややこしい状況に巻き込まれて、混乱もせず冷静に分析してるよ。大したもんだ」
褒められて少なからずうれしかったけど、でも誤魔化されない。私は疑問の答えが欲しい。
「うん、わかってる。でも俺にもよくわからないんだ。だからお前はお前の目で見てお前自身で判断してくれ」
「でも」
「もちろん、俺のわかったことは情報共有するけど。お前も何かわかったり、感じたことを俺に教えてくれ。俺は仲間が必要なんだ」
「仲間?」
「俺と鷹史は血の繋がらない従兄弟なんだ。血は繋がってないけど、ここんちのメンバーのことは、謎な部分も含めて気に入ってる。だから助けたい。瑠那なら味方になってくれると勝手に期待してるんだけど?」
「味方、ね」
私は釈然としないまま、今一番気になってることを聞いてみることにした。
「のん太、あんた、マザコン?」
「え? ああ、そう言われれば俺、マザコンかもな」
あっさり認めるところをみると、マザコンじゃないらしい。つまり、葵さんのことも母親代わりに慕っているわけじゃないわけだ。
「俺さ、俺の母親、2歳で亡くしてるんだ。ガンでね。だから実をいうとあんまり母のことは覚えていない。母が具合悪くなってから、俺と兄貴の面倒見てくれたのが近所に住んでた、今のおふくろだ。つまり俺もまあ、もらわれっ子みたいなもんで、だから勝手に瑠那のことを仲間だって思ってた」
そっか。だから、よく私にかまってくれてたのか。
「おふくろの姉さんが、鷹史やキー坊の母さんってわけ」
だから血の繋がらない従兄弟なのか。
「俺の母親、小さな図書館の司書だったんだけど、そこ、フリースクールというか、登校拒否児童の駆け込み寺みたいになってたんだって。で、俺のおふくろは中学、高校のほとんど、その図書館で過ごしてたらしい」
「どうして」
「ほら、咲(えみ)さんてすっごい巫女パワーの人なんだろ。桜さんに匹敵するぐらいの。そういう家系らしんだ。で、おふくろもそういう能力があるんだけど、使いこなせなくて、人が集まるところにいてもイヤなものが見えるばかりで」
「あああ」
「俺の母親に会って救われた、ってよく話してくれた。病床で、俺たちのことを頼むって言われたらしい。でも、俺の父親と再婚したのは想定外だったんだってさ」
「へえ」
「オヤジが今でも時々ボヤくもん。おふくろは俺と兄貴が気に入って結婚しただけで、自分はオマケだって」
「へええ」
「俺の兄貴、おふくろに懐いてたくせに、オヤジと再婚した途端に反発するようになっちゃって、おふくろ、けっこう気苦労したんだ。それで俺、あの年頃の女の人のこと、守らなきゃって思っちゃうのかもしれないな」
今のお母さんの希(のぞみ)さんと、葵さんが同い年らしい。
「俺の母親は、もちろん霊力なんか何も無くて、おふくろの家の事情なんか何も知らなかった。でもただ毎日、図書館で笑顔で迎えることでおふくろを支えたんだ。俺も、ここの人間にとってそういう存在になれたらって思ってる」
のん太、あんた何やってんの。そんなの、こじつけ。理屈の後付けでしょ。私知ってんのよ。あんたが徹夜でレポート書くの、あれ、悪い成績取ったりして他の人に葵さんのこと『身内ひいき』だとか言わせないためなんでしょ。”頭の中で混ざる~”とかぼやきながらフランス語だのイタリア語だのラテン語だの勉強してんの、あれ、葵さんの探索を手伝うためなんでしょ。
あんた、葵さんが好きなんじゃないの。そんな優しい顔で、深い声で、葵さんの話、してんじゃないわよ。
そして、私は何やってんの。自覚もないまま、初恋で失恋なんて。
その晩はいろいろ考えてしまってなかなか寝付けなかった。布団で横になっていても、葵さんやのん太のセリフを思い出すばかり。あきらめて台所に下りてむぎ茶を飲んだ。甘い味にほっとする。土間に面した黒光りする木の廊下は裸足に気持ちいい。よく風が通って虫の声が聞こえてくる。ビーッとやかましいのはオケラの声だと、サクヤさんが教えてくれたっけ。ジャッジャッジャと大きな声はタンボコオロギ。裏庭から聞こえるリッリッリーという声はシバスズ。遠出できないサクヤさんは、この神社から半径5キロぐらいの小さな世界で豊かに生きている。でも私は、もっと遠くを見てみたい。
虫の声に混じって、ポロポロ音がする。ピアノ? 耳を澄ますと、ひと繋がりで何かの曲のように聴こえる。でも虫か水の音のような気もする。どこから聴こえるの? 私は土間の草履をつっかけて、十七夜の月の光が降る庭に出た。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
住吉神社には土蔵が2つある。
一の蔵は別名、勉強部屋。一階は薄暗いひんやりした空間に本棚や書類を入れた箱がところ狭しと並んでいるが、二階は現代風に改装して居心地いい部屋が3つと小さなキッチン、ちょっとしたお茶会ができる木のテーブルと椅子のセットがある。二階の東側はのん太、西側はきーちゃん、南側は週の半分ぐらい禰宜の山本さんが泊まっていく。母屋と離れは中庭をぐるりと囲んで屋根とガラス戸がちゃんとついた回廊でつながっている。回廊は離れでちょっと曲がって、階段を5段ほど上がって一の蔵につながる。つまりいっぺんも外に出ず、蔵から母屋に行けるのだ。回廊のガラス戸の傍には、桜さんが丹精しているランや観葉植物、熱帯の花なんかの鉢がズラリと並んでいてまるでジャングルだ。北側の回廊は、つまりガラス戸が南に向いていてお月見用の籐の長椅子とテーブルがある。私はこのコーナーが気に入っていて、時々ほうじ茶かココアのマグカップを持ってここで本を読む。その一角は回廊がちょっと広くなっていて、北向きの壁には私が泳げそうなぐらい大きな水槽が置いてある。こちらは山本さんが世話をしているらしい。いろんな種類の水草がコポコポ絶え間なく出て来る銀色の泡に揺れている。こんなに大きい水槽なのに、中には小さな魚とエビしかいない。完全に調和の取れた静かな世界。横に置かれた木の椅子に座って、時間を忘れて水槽の中に魅入っていたものだ。離れの一階の一番大きな部屋には、サクヤさんと鷹史さんの新婚夫婦、間にトイレや洗面台、シャワーなんかを挟んで階段を上がると、二階に私と葵さんの部屋がある。葵さんの部屋は一番、一の蔵に近い。蔵の書庫からわんさか資料の束とか大きな本を抱えてよたよた自分の部屋に上がろうとするので、慌ててのん太やきーちゃんが走って来て手伝っている。
ニの蔵は、この間きーちゃんが案内してくれるまで、私は入ったことが無かった。真っ白い分厚い壁に黒い木の扉。それは開かずの扉だと思っていたのに。
考えてみたら、この蔵は境内の一番隅、桂月庵とは対角線上の反対側になっている。蔵の横手に車で入れるので、外部の人に取ってはこっちが玄関のようなものなのだ。ライブの練習をしたり、業者さんが出入りしたり、最近めっきり賑やかになったが、それでも夜の二の蔵には人気がない。
草履で白砂を踏むといつもならシャリシャリ音がする。でも今は賑やかな初夏の虫たちの声に紛れて足音がしない。月の光で、空っぽの境内は白砂にくっきり私の影が映るほど明るかった。手のしわまではっきり見える。私は耳をこらした。虫の音と重なって、ポロポロと違う音が聴こえる。聴こえるような気もするし、錯覚のような気もする。
この感覚には覚えがある。桜さんと初めて会った、あの土手だ。桜の花びらは降りしきる、妙に明るい、妙に静かなあの空間で、桜さんの輪郭がぼけて消えそうになった。手を握っている私まで引き込まれそうになって、必死で踏みとどまった。桜さんの身体の重さ、それを支える自分の膝や爪先の痛み、川向こうの道路を走るバスの排気音、そんなものに集中して実感を取り戻そうとしている時、あの不思議な男の人が駆け寄って来たのだ。
今度は逆だ。ほら、時々あるでしょ。ごく近くのものを、わざと焦点合わせずにじっと見つめること。意識的に実感を手放せばいいのだ。虫の声を素通りさせて、ポロポロという音色にだけ集中すればいい。
二の蔵に近づくにつれて、ポロポロという音がちゃんと曲に聴こえて来た。この曲は知っている。ライブで歌うために今必死で練習している曲だ。”星に願いを”。
いつもは軋む蔵の重い戸が、今夜はなぜか音もなくスムーズに開いた。漆喰の床に天窓から月の光が差し込んでいる。黒光りする木の階段が続く地下蔵。真っ暗なはずのその空間が青白く光っている。練習の時につけていた、スポットライトのオレンジがかった色と違う。井戸の底に月光が射し込んだような、そんな青い光が地下からこぼれている。妙な言い方だけれど、私は我に返らないように注意しながら、意識的に夢遊状態で地下への急な階段を下りた。
予感していた通り、青い光の中で誰かがピアノを弾いていた。泣きたいようなからかうような、懐かしいような浮き立つような、次々に表情を変えるアレンジ。でも時々、私にも知ってるフレーズが現れて、この曲が”星に願いを”だとわかる。ピアノを弾いているのは男の人だ。ほっそりと背が高くて、妙にさらさらまっすぐな髪。伏せたような黒目がちの瞳。ええと、こういう人、知ってるぞ。誰だっけ。のん太ぐらいの年かな。すごく楽しそう。階段の下でそっと立っている私に気づかず、音楽に浸り切って弾いている。ピアノの精か何かみたい。
私は突然気がついた。あ、そうだ、この人の感じ。ちょうどサクヤさんを男にしたみたいなんだ。腰までの髪をバッサリ切って、前髪を長めのおかっぱのように揃えて、蝶ネクタイにベスト、細身のズボンに爪先の尖った革靴を履けば、まさにこんな感じ。
私がそう気がついた途端、男の人も私に気がついた。
「おまえ、こんな夜にどっから入った? ひとりで来たんか?」
怒っているというより、心配している感じだ。
「近くの子おなんか?」
ピアノの椅子を降りて、こちらに近づいてくる。傍で見るとますますサクヤさんそっくりだ。
「あ、そうです。すぐそこ。ここからちょっとあっちの方」
私は母屋の方を指さした。
「でもこんな時間にひとりじゃ危ないやろ。上着取ってくるから待ってろ。送ってくから」
「いやいや、ほんと、近くなので」
「そんなわけに行かんやろ」
ピアノの男の人が私の腕を掴みそうになったところで、ステージの方から声がした。
「大丈夫。僕が送っていくから」
「タカ坊が連れて来たんか! それでもこんな夜中に子供2人で。咲(えみ)ちゃんには言ってあんのか?」
「うん、大丈夫。母さんもよく知ってる子だし。ね?」
鷹史さんが私の方を見るので、私もうなづく。
「はい。咲さんに和裁習ってるんです」
ステージは階段から一番遠い。鷹史さんがどこから現れたのか、今更考えないことにした。第一、鷹史さんが普通にしゃべっているんだもの。ここが通常空間のはずがない。
「それより、この子に歌を教えてあげてよ。今度、この子、”星に願いを”、歌うから。今、英語の歌詞、練習してるんだよね?」
「あ、はい、そうなんです。英語ちゃんと思い出そうとすると歌がわやになるし、ちゃんと歌おうとすると英語出て来ないし」
「いっぺん、お手本に歌ったげてよ。この子、今度サクヤのピアノに合わせて歌うんだよ」
「へえ、サクヤと」
ピアノの人の警戒レベルが急に下がったのを感じた。初めて私に微笑みかけてくれた。
「そうか。サクヤは人見知りなのに。仲良くしてくれとおんだ。ありがとな」
「あ、はい。サクヤさんにはお世話になっております」
「へ?」
ピアノの人は一瞬ポカンとして、それから笑いだした。無愛想に見えたけど、笑うと可愛い人なのだ。
「面白い子やな。名前、なんての?」
「あ、瑠那です」
「そっか。ぴったりや。月夜のルナちゃんか。ええな、それ」
男の人は人懐こくケラケラ笑いながらピアノに戻ると、ポロポロ弾き始めた。どんな曲にも続けられそうな、まだ気持ちが固まらないけど、歌いたくてたまらないような、そんなフレーズ。
「ほな、観客2人、月夜のリサイタルやったろか。後でサクヤが聞いたら怒るやろな」
「うん、内緒。葵さんにも内緒」
「ほやな。いーちゃんにも内緒や。俺が夜にサクヤ連れ出すといつも怒られるからな」
ケラケラくすくす笑いながら、ポロポロ弾いている。
「ええか。この一曲弾いたら、送ってくからな。そしたら大人しう寝るんやぞ」
「うん、約束」
男の人は、ポロポロ弾いていた手を止めて、一瞬、天井を仰いだ。そこに月や星が見えるかのように。そして、小さな子供に子守唄を聴かせるように、静かに歌い出した。
輝く星に心の夢を
祈ればいつか叶うでしょう
きらきら星は不思議な力
あなたの夢を満たすでしょう
ひと呼吸置いて、静かにピアノが鳴り出した。この人の声、ピアノによく合う。プロの歌手って感じじゃないけど、優しい声だ。
人は誰もひとり
哀しい夜を過ごしてる
星に祈れば淋しい日々を
光り照らしてくれるでしょう
ポロポロ密やかに間奏が入って、そしていきなり弾けた。わおわお。もう何の曲かわからない。どんどん違うメロディーが混ざって来る。これ、なんだっけ。眠れる森の美女。あ、白雪姫。え、荒城の月? えええ、十五夜お月さん? 私が何の曲かわかった、という顔をする度に、うれしそうに笑う。いたずらっぽく、ウインクしながら。あ、星に願いを、に戻った!
When you wish upon a star
Make no difference who you are
Anything your heart desires
Will come to you
If your heart is in your dream
No request is too extreme
When you wish upon a star
As dreamers do
わおわお。こういうのって何て言うの? ソウルフル? 黒人の人が教会で歌ってるみたい。そうかと思うと、急に少年合唱団みたいな歌い方になるし。何て言うの? すっごくチャーミング。私は夢中で手拍子した。この家に来て初めて、自分がどんな表情してるか、とかどう見られてるか、とか忘れた気がする。ここに来て初めて、寂しい気持ち、不安な気持ちがふっ飛んだ。もう、何でもいいや、今こんなに楽しいんだもの。もう何年も、こんな風に笑ったことなんてなかった。自分がこれからどうなるか、なんて心配を忘れて、こんなにわくわくできるなんて。音楽ってすごい。人ってすごい。ピアノってすごい。
Fate is kind
She brings to those who love
The sweet fulfillment of
Their secret longing
Like a bolt out of the blue
Fate steps in and sees you through
When you wish upon a star
Your dream comes true
地下に下りる時感じていたように、今度も予感があった。曲が終わって、まだピアノの残響が残っていつまでも耳の中にメロディが続いているのに、いつの間にか、ピアノの椅子は空っぽになっていた。青い光が消えて、階段から差し込む月の光だけが残った。
祈ればいつか叶うでしょう。
本当に叶うの? 私は涙が止まらなかった。新さん、こんなとこで、私なんかにピアノ弾いてないで、葵さんに会ってあげてよ。サクヤさんに歌、歌ってあげてよ。鷹史さん、どうして? 会わせてあげたらいいじゃない。どうしてよ。
新さんは、ちゃんと約束通り、私を送り届けてくれた。いつもの二の蔵に帰って来た。サクヤさんにも葵さんにも内緒。走って2人を連れてきてあげたら良かった。
「会えない」
鷹史さんは、土蔵の床にへたり込んで泣いている私の後ろでポツンと言った。
「どうしてよ」
「あの2人と会ったら、新さんの願いが無駄になる」
「どうしてよ」
「新さんは、あの2人を守るために行ったんだから」
行ったってどこに。あの竜宮の底の、その向こうに?
「新さんは知ってた。俺は聞いたんだ。どっちがいい?って」
「どっちって?」
「あの2人と二度と会えないけど、2人を守れるのと、ずっと傍にいられるけど何もできないのと、どっちがいい?って」
「そんなの、おかしいわよ!」
そこで、はた、と気がついた。桜さんと会った時駆けつけて来た男の人。桜さんを心配して、薬を届けてくれた。でも桜さんの身体を支えることも、毛布をかけてあげることもしなかった。できなかったんだ。
「そう。身体を失って、ずっと傍にいることもできる。家族が死んでもずっと、何百年もここにいる。身体ごと、向こう側にいくこともできる。そうしたらこちら側のことを何もかも忘れる。忘れるけど、向こうから引っ張ってこの場所を守ることができる」
「そんなの、訳わかんない!」
「新さんは、聴こえる人だった。音の歪みがわかって、引っ張れる人間があっち側にも必要だった。でないと、ここが弾け飛んでしまう。結び目のサクヤは死んでしまう」
「わかんない! そんなの、おかしい! どうしてよ。お父さんもお母さんもいるのに! どうして一緒にいられないのよ! あの人、サクヤさんの話する時、あんなに嬉しそうだったのに!」
”ありがとな”
今夜の新さんが知ってるサクヤさんは何歳なんだろう。新さんの膝に抱っこされてピアノを弾いてるちっちゃなサクヤさんの写真、見せてもらったことがある。新さんが亡くなって、何年も閉ざされていた地下蔵。今、ピアノが解放されて、でもやっぱり新さんは葵さんと会えないの? 葵さん、今でもあんなに探してるのに。あんなに泣いてるのに。
「じゃあ、今、新さんはどこにいるの? さっきの新さんはどういうことなの?」
「さっきのは、蔵が見た夢、みたいなものだ。今どこにいるかは、俺もわからないな。あっちに行ってみないと」
「あっちに?」
「竜宮の向こう側に」
「それって、地球の向こう側って意味じゃないのよね? 桜さんみたいに、すごく近いとこに出ることもあるんでしょ?」
「桜さんのこないだのは、竜宮に引っ張られて吐き出されただけだ。底を抜けた向こう側に何があるのか、いつのどこに出るのか、俺にもわからない。新さんと同じとこに出るとも思えないし」
「いつのどこ? 今じゃないってこと?」
「一万年前かもしれないし、三万年未来かもしれないし。地球じゃないかもしれない。人間じゃなくて鳥とか魚になってるのかも」
ちょっと待って。さっき、鷹史さんは何て言った? 俺もあっちに行ってみないと?
鷹史さんはいつもの五歳児みたいな顔でにぱあっと笑って、人差し指を口に当てた。
「サクヤに内緒」
私、わかった。葵さんが鷹史さんを怖がる理由。鷹史さん自身が怖かったんじゃないんだ。鷹史さんの未来が怖かったんだ。
いつか。新さんみたいに。みんなを残して消えてしまう? みんなを守るために?
そんなの、訳わかんない! わかりたくない!
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