ジンは毎日、双子岩の祠に通ってイリスに会った。イリスが春祭りの生け贄役の”乙女”を演じるため、メドゥーラの元で修行をしながら潔斎を強いられているだからだ。
メドゥーラは以前から、その役をイリスに引き受けて欲しいと頼んでいたらしい。でもイリスはずっとためらっていた。それがあの日、何も言わずに家を出て、それ以来泉の祠で寝起きしている。なぜ急に引き受ける気になったのだろう。なぜあれから一言も話さないのだろう。
メドゥーラの制限は2つだけ。面会時間は日没後から月が昇るまでの間。日没前から月が出ている期間は、月が沈むまでの間。それから、屋根の下に2人で入らないこと。
「空が見える場所で月が上る前なら、何をしててもかまわんよ」メドゥーラが意味ありげに笑った。
イリスが全然話そうとしないので、ジンはバスト語とイドリアンをごっちゃにしながら必死でしゃべった。毎日、アクアリウムで何の卵が孵ったとか、グレンがゲンゴロウを集めるのに苦労してるとか。そのうちネタが尽きて、子供時代の思い出話までひっぱり出すことになった。12の時、サクヤとエクルーに出会って一緒に川辺でキャンプした話をしていて、どうしてもバスト語の”川”という単語が出てこなかった。
「ほら‥‥‥か‥‥‥いや、こ‥‥‥?」
「川?」
イリスが助け舟を出した。
「そう!川だ!」
ジンが声を上げた。単語を思い出したのと、イリスがしゃべってくれたのがうれしくて、ジンは何を話していたのか忘れてしまった。そしてまっすぐに向き直ると、いちばん聞きたかったことが口をついて出た。
「祭りが終わったら、帰ってくるんだろう?」
「‥‥‥わからない」
「あのうちがイヤになったのか?」
「いいや」
「俺ともう一緒に暮らしたくないのか?」
「‥‥‥いいや」
「じゃあ、どうして‥‥‥!」
「ここにいれば俺はもう保護してもらっている避難民じゃない。必要とされてる。役に立てる」
「俺だってイリスを必要としてるぞ!」
「そうなのか?どういう風に?」
ジンはすぐには言葉が出てこなかった。
「ジンはなぜ俺に帰って来て欲しいんだ?」
しばらく考え込んでいたが、ジンはやっとでぽつんと言った。
「‥‥‥イリスがいないと寂しい。家が空っぽになった気がする」
「ヨメでももらえばいい。俺である必要ないだろう?」
ジンがカッとして、大声を出した。
「俺はイリスがいい!帰って来て欲しい」
イリスは冷めた態度を崩さなかった。
「へえ、そうだったのか。知らなかった」
「俺はイリスがいい。帰って来て欲しい」
ジンは繰り返した。イリスはちょっと目を伏せた。
「いずれにしろ春祭りまでは帰れない。潔斎中は、男と2人で屋根の下で過ごすのはタブーだ」
「テントならいいのか?」
イリスはちょっと驚いた顔をして、それから笑った。
「あんたにテントで生活できるのか?冬に?ムリするな」
ジンが勢い込んで叫んだ。
「イドリアンにできるなら、俺にもできる!」
イリスがまた微笑んだ。ややからかうような表情だったが、久しぶりに見た笑顔だったので、ジンはバカみたいにうれしくなった。
「ムリするな。今は大事な時だ。あんたにはあんたの仕事がある。俺も引き受けたからにはちゃんとやる。今年は特に重要な祭りらしい。大崩壊を生き延びるために」
そう、つぶやくように言ったイリスの横顔が、思いつめたように固かったので、ジンは不安になった。 思わずイリスの手を握って、「イリスこそムリするな。星が降る時はどうしたって降るんだ。一人でしょい込むことない」と言った。
イリスがまた微笑んだ。今度はまっすぐな笑顔だ。
「ありがと。でも、できる限りのことはやっておきたい。それでダメならあきらめがつく」
ダメというのはどういう事態だろう。ジンは皮ふが粟立つのを感じた。
イリスは、自分の手を握るジンの手の上に、もう片方の手を重ねた。
「心配するな。俺ひとりじゃない。祭りの時は、イドリアン全員が力を集める。俺はただのまとめ役だ。ミヅチもスオミも力を貸してくれる」
ジンはうなだれた。
「俺は何の役に立たないな‥‥‥」
「何言ってる。ジンのお陰で俺はこうしていられるんだ。感謝してる」
「そんな、もう今生の別れみたいなこと、言うな」
イリスがにこっと笑った。
「お別れじゃない。明日も来てくれるんだろう?」
祠の方へ駆け出したイリスを、ジンは思わず呼び出した。
「イリス!」
「何だ?」
振り返った顔の周りに流れる髪が、沈みかけた月の光を受けて輝いていた。
「いや‥‥‥お休み。明日も来る」
「お休み。また明日」
それからしばらくしたある日、ジンが双子岩に行ってみると、祠へと上る道のちょっとした広場のように拓けたところに、見慣れぬテントが立っていた。イリスがテントの垂れ幕を開いて、ひょいと顔をのぞかせた。今日は青い意匠と青い石で飾られた装束で、白い肌によく映えている。
「今日はここで話そう。多少、寒さがしのげる」
「どうしたんだ。このテント」
「参拝客があまりに多いので、祠ではさばききれないから、今日作ったんだ」
ジンをテントに招きいれてベンチを勧めると、イリスはお茶を淹れ出した。
「参拝客?」
ジンがけげんな顔をした。
「”春の乙女”の参拝客だ。お供えして参詣してゆく」
ジンはおそるおそる聞いた。
「その中に‥‥‥求婚者もいるのか?」
「今ではほとんど男しか来ないな。普通の参拝客は初めの3日で済んだ」
ジンは憤慨した。
「それじゃあ見世物じゃあないか。着飾って顔をさらして‥‥‥まるでお茶屋の客引きだ!」
「お茶屋?」
ジンが銀河標準語でどなったので、意味がわからなかった。聞き返されて、ジンはしまった、という顔をした。それで初めて、イリスにも意味がわかったのだ。
「そうだな。俺は毎日、一日中、俺を買いたい男を釣っている。そして一番高値をつけた男に買われてゆくんだ。まったく、俺にぴったりの役だよ。お布施の集まること」
あざけるような声が痛々しくて、ジンは思わずイリスを抱き寄せてキスしてしまった。一瞬くちびるが触れ合っただけの軽いキスだったが、イリスの目はまん丸になった。
「すまん。驚かせたか?つい‥‥‥」
「俺が汚れてるから、手を出したくないのかと思ってた‥‥‥」
「汚れてる?何言ってんだ。イリスはきれいじゃないか!俺はもうずっとまともに君の顔が見られないんだ」
ジンが赤くなってしどろもどろに話した。
「ドームにいた時も、ずっとキスしたかった。髪に触れたかった。手首をつかまえて、その細い腰を抱き寄せたかった。でも俺と2人暮らしで、君には他に頼れる人がいないから‥‥‥そんなことをして怖がらせたら、君は居場所を失うだろう?だから‥‥‥ずっと我慢してた」
「じゃあ何で今頃‥‥‥」
「だって今のままいる方が君を追い詰めるんだろう?だから黙って家を出たんだろう?」
イリスがうつむいた。
「バカな夢をひとりで見た。恥ずかしかった。ずっと忘れていた。俺には夢を見る資格がない。俺は汚いから‥‥‥」
「汚いって、そんなことあるもんか。イリスはきれいだ。俺が今まで会った誰よりも‥‥‥」
ジンが肩をつかんでゆすっても、イリスは目を合わせようとしない。
「俺は汚れてるんだ。避難船が漂流を始めてすぐ、保安員がすべて殺されて、数人の男が食料と水を独占した。母も妹も弱っていた。俺は3人分の水をもらうために、毎日男達に‥‥‥」
「イリス!」
「毎日、毎日、何人も‥‥‥」
あの痛み、あの恐怖。あのおぞましさ‥‥‥。なのに守れなかった。母親も妹も‥‥‥。
「イリス!もう言わなくてもいい!汚いのはその男どもじゃないか。イリスはきれいだ!」
ジンがイリスをぎゅっと抱きしめた。ジンの胸の中でイリスがうわごとのように「俺は汚い」とつぶやく度に、「イリスはきれいだ」とくり返した。
「イリスが自分を捨てるつもりなら、俺が拾う。だから祭りが終わるまで、誰にも自分を売るな。いいか?」
見開いた目にみるみる涙があふれて、イリスは泣き出した。子供のように声を上げて泣いた。その間ずっとジンがあやすように背中をぽんぽんと叩いていた。
「イリスはきれいだ。俺がもらう」
ジンは泣き疲れて眠ったイリスを抱き上げて、祠に運んだ。メドゥーラがお茶を淹れてくれた。
「実をいうと、乙女の潔斎はそんなに厳格なもんじゃない。部屋を分ければ、ドームから通ってもらっても構わないくらいだ。だが、この子にはあんたから離れて、泉の側で自分の経験に向き合う時間が必要だと思ったんだ」
メドゥーラがキセルをくゆらせながら静かに言った。
「初めて会った時、私がそのつらい記憶を封じたんだ。あの子がこの星で居場所を見つけて、立ち向かえるようになるまで。思い出したってことは、つまりこの子は今、幸せなんだよ」
ジンは深く息をついた。
「うん。そうなんだろうな。イリスはみんなに愛されてる。俺よりこの星になじんでる」
「それにあんたが横にいる」
メドゥーラが付け加えた。長く煙を吐いて、何気ないふうに聞いた。
「春祭りの意味を知っているか?」
ジンはとまどった。
「生け贄の乙女が捧げられて、春が復活するということしか‥‥‥あと集団お見合いをするって‥‥‥」
「そう。だが本当はその前に省略された儀式がある。冬の黒い男が乙女をはずかしめて殺すんだ。殺してしまってから冬の男は乙女を愛していたことに気づいて嘆く。すると男の腹を破って、乙女が復活する。そして腹が破られて死んだ男のために、乙女が嘆く。かくして季節が巡る」
ジンの顔が青くなった。
「その筋書き、イリスは知ってるのか?」
「話していないが、泉を通してわかっただろうな」
「ひどいじゃないか!」
いきり立って、思わず大きな声が出た。すぐ我に返ってイリスの寝息を確かめる。起きる気配がないので、安心して息をついた。
メドゥーラが盆の角でキセルを叩いて、灰を捨てた。乾いた音が祠に響く。
「でも、あの子には必要だったんだよ。この子はいっぺん殺された。再生するには男と向き合って殺されなくちゃいけない。いくらイリスの力が厄災を防ぐのに必要だろうと、あんたが側にいなければこの役を頼んだりしなかった」
ジンは大きく息をつくと、まっすぐに老婆を見返した。
「うん。ありがとう。イリスを頼む。また明日も来るから」
「ああ、お休み」
毎日、夕方テントを訪れる度に、イリスが見間違えるように美しくなっていて、ジンは眩暈がした。昨日より今日。今日より明日。花びらが一枚ずつほころぶように、光り輝くように。参拝者が殺到して、お布施のお酒や米があふれたので、メドゥーラは制限することにした。
「もう祭りの時にみんなで飲む分は十分にある。米も置くところに困るくらいだ。後は祭り当日に持ってきておくれ。これ以後は、人差し指の肉球より大きなものは持ってこないこと」
それで、みんな青豆1粒とか、干しコケモモ1粒とかをお供えして、イリスを拝んでいった。祭壇が出来て、通しで儀式の練習が始まると、ますます人が殺到した。メドゥ
ーラが置き場所に困った酒や食べ物を供出すると、夕方はいつも酒盛りになった。
「こんなんで気が散らないか?」
ジンはわいわい騒いでる参拝者を見渡して聞いた。
「こう見えて、こいつらはみんなちゃんと祈ってるんだ。一人で通すより泉の声がクリアーだし、時々地面が揺れるほど強く共鳴する」
そう説明するイリスの顔が、上って来た月の光を受けてまぶしい。ジンはのどがカラカラになった。
「ちょっとブラブラしててくれ。道具を片付けてくる。今夜は明け方まで月が沈まないから、のんびりできるぞ」
祠に歩いていく後姿を見ながら、ジンは頭がガンガンした。明け方まで?イリスと2人で?ちょっと前まで2人で暮らしていたなんて信じられない。俺はどうやって正気でいたんだろう?
酒盛りをしている連中と話していたメドゥーラをつかまえて、人がいないところまで引っ張っていった。
「どうしよう。どうしたらいい?」
メドゥーラは面食らった。
「何だって?何がどうしようなんだ?」
「そうだ。あんた、一緒にいてくれ。イリスと話したいが、2人きりはやばい」
「何がやばいって?」
ジンは必死の形相で叫んだ。
「2人きりで手を出さない自信がない!」
メドゥーラはあっさり言った。
「出せばいいじゃないか」
「メドゥーラ!」ほとんど絶望的である。
「言ったろう?乙女の潔斎は厳しいもんじゃない。もともと集団お見合いのために集まっているんだから、たいがいの若い連中は練習期間中にできてしまう。親は自分の経験上、タブーは有名無実だって知っているから、形だけ注意するんだ。つまり、あんたを阻むものは何も無い。ただ、屋根の下には入らないでくれ。春の乙女は冬の黒い男と2人きりで祠に入って殺されるんだ。その儀式だけは本番まで取っておいてくれ」
ジンは絶体絶命に追い詰められた。メドゥーラはポンと肩を叩いて笑った。
「まあ、ちょっと落ち着け。それじゃ、できるものもできんぞ?ちょっと酒でも飲め。ほーい、アグア爺さん、この男がイリスを拾ったんだ。さっき話しただろう?」
青い目にうす茶色の毛のイドリアンが杯を上げた。
爺さん?大してグレンと違わないように見えるが。イドリアンの年齢は、まったく読めない。
「あんたがジンか?私は北の集落地のまとめ役なんだ。まあ、飲んで。感謝しとるよ。イリスのことも、あんたのしてくれてる仕事も。さあ、飲んでくれ」
アグアが通りがかる人ごとにジンを紹介して、その度に杯の供応があるので、もともと酒に強くないジンは目が回ってきた。月が高く上るにつれて、ますますたくさんのイ
ドリアンが丘に集まってきた。酒を飲みながら、歌を歌ったり、楽器の練習をしたりしている。
「毎年こんな風なのかい?」
ジンはとなりに座っていたイオの父親に聞いた。
「まあ、毎年こんなもんだ。でも今年はとりわけ、みんな熱心だよ。何といっても乙女がきれいだし、第一、みんなペトリが気になってる」
「信じてるのか?ペトリが壊れるって?」
「ミヅチがそう言った。だから、そうなる」
男は簡単に言った。
「どうして信じられるんだ?そんな途方もないこと」
「見えたから。ほら」
男が自分の手を、ジンの手に無造作に重ねた。
いきなり視界が暗転して、足元がなくなった。真っ逆様に落ちる。
スパーク。鳴動。凄まじいエネルギー。爆発。
天も地もない。上も下も‥‥‥光も影も‥‥‥混沌に返る。世界が‥‥‥ひとつ‥‥‥終わる。
「父さん!ジンは慣れてないんだから、いきなりまともに見せるなよ!」
イオが止めた時には、酒の酔いも手伝ってジンはのびていた。
ジンが気がつくと、1人でテントで寝ていた。ほどなく入り口の垂れ幕をくぐってイリスが入って来た。
「おや、起きたか。気分はどうだ?泉の水を汲んで来た。まず水を飲め」
イリスに差し出されたカップから冷たい水を飲み干して、すぐお替りをもらった。
「俺。どのくらい寝てた?」
「2時間くらいかな?まだ月は中天にもかかっていない。酒盛りも続いているぞ」
「俺が見たのは‥‥‥」
「忘れろ。考えても不安になるだけだ」
イリスが隣に座って、お替りの水を差し出した。
「だが‥‥‥」
「忘れろ。俺はあんたの鈍感なところに救われてるんだ。あんたに触れれば不安な夢を忘れられる。ジンまで一緒になって泉の夢を見ないでくれ。俺のために鈍感でいてくれ」
ジンは身体の向きを変えて、とっくりとイリスの顔をみた。
「君もあんな夢を見るのか」
「見てる。いつも。目をそらすことができるのは、ジンの横にいる時だけだ。ジンに触れると‥‥‥夢を忘れることができる」
「今も見てるのか?」
「いつも見てる。それが役目だ。でも今だけ‥‥‥忘れたい。忘れていいだろう? 月が沈むまで」
ジンがイリスの手を取った。
「これで見ないですむのか?」
イリスが目を閉じて大きく息をついた。
「うん。楽になった。でもまだ目がチカチカして‥‥‥耳がわんわん言ってる。残像が‥‥‥」
ジンが長い腕ですっぽりイリスの身体を包んだ。そして片手でそっとイリスのまぶたを覆った。
「今だけ休んでいい。忘れろ‥‥‥月が沈むまで」
いつも強い光を放って挑んでくる深緑の瞳を隠すと、イリスは驚くほど壊れやすく小さく見えて、胸が痛むほどだった。ジンの腕の中で軽くくちびるを開いて、静かに呼吸している。
「忘れさせてくれ‥‥‥月が沈むまで」
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