せっかく山元さんが温かいお茶を淹れて勧めてくれたのに、お団子を口に運んでも何だか食べたくない。山元さんに悪いと思って頑張って一個口に入れてみたが、味がしない。ゴムを噛んでるみたい。一生懸命噛んでるうちに吐き気がこみ上げて来て、慌てて残りのお団子の串をお皿に戻して、お茶で口の中の団子を飲み下した。気持ち悪い。涙が滲む。何とか吐かないように深呼吸した。隣りを見ると、姉もまったく進んでいない。胡麻蜜もみたらしも大好物で、普段なら3本ずつ行けるのに。
“お腹の調子悪くて”と言い訳して、母屋に戻った。台所をのぞくとお手伝いの浜田さんが大根の下茹でをしていた。
「綺麗なブリのアラが手に入ったの。今夜はブリ大根よ」
ブリを思い浮かべただけで、また吐き気がこみ上げて来た。どうやら姉も同じらしい。浜田さんに体調が悪くてどうやら今日私と姉はご飯が食べられそうにない、と謝った。浜田さんはしばらく私と姉の顔を見ていたが、にこっと笑った。
「ムリしなくて大丈夫。人間、3日くらい食べなくても死なないから。食べなくちゃって思う方がしんどいからね。何か生臭くないもの、用意したげる。甘さを抑えたかるかんはどう? アンコなしで皮だけ。それと柚子のジャムをお湯で溶いたの、作ってあげる。どう? 食べられそう? グラノーラなんかもどうかな?」
適当に誤魔化してあげるから、食卓につかなくていいよ、と浜田さんが言ってくれて安心した。私と姉は、浜田さんが用意してくれたホット柚子とかるかんのお盆を持って、土蔵に行った。桂清水をあおった碧がピアノを弾いてくれた。翠はピアノが上手だった、と言ったら碧も頑張って練習してくれて、今ではなかなかの腕前なのだ。先生も上手だけど、どうやらズルをしているらしい。なぜなら先生のピアノは聴こえる人と聴こえない人がいるのだ。物理的に弾かずに、音楽のイメージを空間に送り込んでいるようなのだ。その証拠に、碧はごく簡単なフレーズを弾いてるだけなのに、並んで弾いてるわけでもないのに、連弾してる音がする。碧のメロディにどんどん音を重ねて、複雑なアンサンブルに展開してゆくのだ。
先生は父に相談したら、とアドバイスくれたけど、こんな生々しい話を父に持ち込むのは躊躇われる。時間が必要なんだろう。五葉たちが指摘したように、私たちはまだ、この問題に向き合うには小さ過ぎる。
浜田さんがいろいろ工夫してくれた食事で、何とか3日ほどやり過ごしたら、吐き気は治まった。でも母の話を聞いた時の嫌悪感は、なかなか消えなかった。テレビドラマや漫画の恋愛描写を観ても、母の話を思い出して吐き気がしたり、食べ物が砂のように味を感じなくなったりした。クラスの大半の女子は恋愛ごっこ真っ最中なので、逆に面白がられたり、ライバルにならないので聞き役として重宝がられたりして、以前より友人が増えたような気がする。急に色気づいた女子たちに戸惑っていた男子たちも、織居は話しやすいと言われた。何が幸いするかわからないものである。
私が図書委員の貸し出し当番をしている時だけ、図書館にやって来る生徒がいた。諸藤清香という、いつもムッツリ押し黙った女子で、クラスで口を聞いているのを見たことがない。そんな子が図書館に入って来て、いきなり食ってかかるような勢いで「あなた、ジャズ聴くの……?」と聞いて来たので驚いた。
「なんで?」
「さっき、あなたが鞄から教科書出す時、見えちゃったの! ブルーグリーンのチラシ、持ってたでしょ! それもたくさん!」
私はため息をついた。父に頼まれて、帰り道にピアノ図書館に寄って司書さんにジャズライブのチラシを置いてもらうよう、渡してくるのだ。
「父がライブでサックス吹くのよ。今度、チャーリー・ヘイデンの命日にライブやるから、特集するとか言って……」
諸藤さんの目が、文字通り輝いた。
「あなた、チャーリー・ヘイデン知ってるの? すごい……! ウンザリしてたの! クラスの連中、ポール・ブレイも知らない奴らばっかりで!」
「そんな古い人ばっかり言うからよ。有名どころのビル・エヴァンスとかの名前出せば、知ってる人もいると思うよ?」
「ふん。あんな連中、話す価値もないわ……! 十把一絡げの、音程も取れない下手くそが集団で歌ってるようなの、音楽とも呼べないような曲ばっかり聴いて! 音痴でズレててユニゾンになってないのを、ハモってるって錯覚してるんでしょ、バカじゃないの」
確かにそれは一理ある。なかなか毒舌だ。でも歌謡曲だって、上手な人はたくさんいる。
「ね、そのライブ、私も行っていい? 友達の保護者が出てるなら、うちの親も許してくれるかも……!」
へ? 面倒なことになって来た。その日の放課後、清香は強引にうちについて来て、父にライブに行きたいと頼み込んだ。父はお酒を出す店だから、中学生を連れて行くわけにいかないけど、うちの土蔵でやってる練習で良ければ見に来ていいよ、と許可を出した。それ以来、清香は頻繁にうちに出入りするようになった。ベース担当の、うちの禰宜の山元さんのファンになり、手作りのクッキーなぞ差し入れに来たり、野外で行われるライブを観に来たりして、私はそれほど音楽に興味無かったのに、付き合わされる羽目になった。その頃、父と山元さんは決まったバンドに入っているわけでもなく、要請されていろんなトリオやカルテットにゲストで混ざっていた。おかげでいろんなミュージシャンが見られて楽しかったが、本当はピアノとドラムのメンバーをずっと探しているのだ。母付きのホタルの“先生”は、ピアノ図書館の前館長の姿を借りている。その前館長は、ピアニストとして父や山元さんと組んでいたのだが、若くして亡くなられたのだ。父にはどうも先生が見えていないらしい。山元さんには、先生がどんな姿に見えているのか、聞いてみたことはない。どっちにしろホタルをメンバーにするわけにはいかず、ずっとピアニスト募集中なのだ。
九州に行った姉は、眠り姫のいる山寺に寄宿しながら高校に通っていた。人気のない山道を歩かないといけないので、痴漢が出そうで怖いと言っていたのだが、最近どこからともなく白い毛の綺麗な犬が現れて、朝夕ボディガードをしてくれるのだそうだ。犬にブランカと名付けて可愛がっているらしいが、だんだん手紙の内容がブランカのことばかりになって来て、こちらが心配になった。姉はまるでブランカに恋をしているようだった。
“前は平気でペロペロ顔舐めてもらって私もわしわし頭を撫でてたんだけど、何だかこの頃、照れてしまうというか、ドキドキしちゃうようになったの。2人きりで長い時間過ごしてると、何だかデートしてるような気持ちになるし。私、ヘンかな?”
うーん。とりあえず実家を離れて、知り合いのほとんどいない生活をしている姉が、孤独に落ち込んだりしていないのは安心すべきだ。でも犬と恋愛ごっこというのは健全だろうか。住職さん公認で、毎朝寺まで迎えに来てくれるらしい。修行中の若いお坊さん達にも可愛がられていて、休憩用の小屋を作ってもらったそうだ。町中ではリードをしてないと通報されるので、姉はいつもカバンにカフとリードを入れておいて、山を出て高校に着くまでリードをつけているらしい。リードをつけても無理に引っ張ったりせず、見事なお行儀で、絶対以前人に飼われていたにちがいない、どこかから逃げて来たのではないか、いつかその飼い主の元に戻ってしまうのではないか、と姉は心配していた。
“いつかブランカと離れ離れになるかも、と考えただけで、本当に涙が出て来て、自分でもびっくりしてしまったの”
うーん。深刻だ。横暴な母への反発で、私みたいに恋愛ノー・サンキューな青春になるのも問題かもしれないけど、姉みたいにわんこと恋愛もぶっ飛び過ぎてる。姉は普通に人混みを歩いていても、人目を挽いてスカウトに声をかけられるレベルの美人だ。でもブランカが唸るせいで、そういう煩い男に煩わされず、実家にいた頃より通学が快適らしい。うーむ。ゆかちゃん、それでいいの? というか、ゆかちゃん、その子、妖魔じゃないの? 魅せられて騙されてない? 姉に会いに行くべきだろうか。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます