蓬摘む
草摘みの負へる子石になりにけり 川端茅舎
もっこすの肥後守なり蓬摘む 拙
蕗の薹に少し遅れて薄い緑色の蓬が陽だまりに芽を出す。この芽を茹でて餅つきの時に一緒に臼に入れて餅を搗けば草餅になる。野菜の少なかったころの野草の緑を取り入れた先人の知恵だったのだろう。中学生のころ滅多に手に入らない肥後守(折りたたみ式小刀)を自慢して、近所の遊び仲間と摘み歩いたことを思い出した。
もっこす 頑固者とかつむじ曲がりと熊本地方の方言だが、熊本の人にそんな人が多かったのかふざけてか熊本県人を「肥後もっこす」と言うこともある。ここでのもっこすは俳味としての使用。、
草摘みの負へる子石になりにけり 川端茅舎
もっこすの肥後守なり蓬摘む 拙
蕗の薹に少し遅れて薄い緑色の蓬が陽だまりに芽を出す。この芽を茹でて餅つきの時に一緒に臼に入れて餅を搗けば草餅になる。野菜の少なかったころの野草の緑を取り入れた先人の知恵だったのだろう。中学生のころ滅多に手に入らない肥後守(折りたたみ式小刀)を自慢して、近所の遊び仲間と摘み歩いたことを思い出した。
もっこす 頑固者とかつむじ曲がりと熊本地方の方言だが、熊本の人にそんな人が多かったのかふざけてか熊本県人を「肥後もっこす」と言うこともある。ここでのもっこすは俳味としての使用。、
「草摘み」は春の野に出て蓬や土筆など食用になる野草を摘むことであり、阿部句の「蓬摘む」と同じ春の季語である。ホトトギス同人であった茅舎には「ぜんまいののの字ばかりの寂光土」とか「約束の寒の土筆を煮て下さい」のような句もある。今日の俳句では、草摘みの負へる子が石になったという比喩的表現によって、子守りをしながら土筆などを摘んだ昭和初期の牧歌的風景を回想させてくれる。
もっこすの肥後守なり蓬摘む 阿部
阿部句も春の野に蓬を摘む景を詠っている。「もっこすの肥後守なり」の措辞から、子どもには憧れの品であった肥後守で蓬を摘むことの快感というか優越感というか、あの時代の子どもの心理が出ていると思う。 作者が、『中学生のころ滅多に手に入らない肥後守(折りたたみ式小刀)を自慢して、近所の遊び仲間と摘み歩いたことを思い出した』と述べているのを見てもその状況は明らかであろう。肥後もっこすは、津軽じょっぱり、土佐いごっそと共に日本三大頑固の県民性といわれ、人々から一目置かれている。 肥後守を手にしている少年の自負を表しているようにも感じられる。
阿部さんの今日の俳句を読ませていただき、肥後守という懐かしい小刀を思い出すことが出来ました。ぼくが中学生のころは昭和10年代の始めで、名前は知っていましたが、実際に使ったことは思い出せません。
何でも思い出になるものがあることは人生を豊かにさせてくれますね。 願船
片づけ・探し物の時に肥後守を今でも目にすることがあります。古い友人に会った気分になり、探し物の手を休めてしまいます。
使わなくても良かった蓬摘みやバッケ(蕗の薹)採りに使ったことが恥ずかしいですね。