日本語には厳格な時制の観念がありません。
過去と現在完了の違いが無いので、多くの高校生があんまり
現在完了をうまく使えません。理屈でわかっていても、英語をはなしていても、
自由に現在完了を使えないのです。頭じゃわかってるけど実践では何の役にもたたない
恋愛のマニュアルみたいなものが学校の英語文法でしょうね。
外人と話していて、自然に現在完了が出てくればおそらくその人はかなりな
英語の使い手でしょうね。英語に現在完了が使えないのは日本語が原因です。
そもそも日本語に現在完了の発想がないのです。
何かが終わったとき、 「もう終わったの?のびたくん。」「もう終わったよ。」 と言いますが、
これを発する、二人の発想の中に 終わって今どうしている という考えは内包していません。
終わったから終わった。 今どうしているかは、わかるでしょう。 いちいちいわなっても、という
感じです。終わってるから、ドラえもんと一緒にどら焼き食べながらテレビ見てるのさ。
日本語は状況を察して、相手の様子を慮る言語なのです。
上の、二人の会話を英語に直すと、'Have you finished studying?' 'Yes, I have.'
当然目的語がなくては、文法が壊れるので、studying を入れます。
日本語は時制が曖昧なので、上の文を
「もう終わってるの?のびたくん。」「もう終ってるよ。」のほうが
現在完了に近いかもしれません。さらに
「もう終っちゃってるの?のびたくん。」「もう終っちゃってるよ。」
のほうが、さらに現在完了に近いかもしれません。
これが、日本語のあいまいさです。 この曖昧さを楽しむことも大切でしょう。
物語の実際の例をあげてみます。「はてしない物語」の一節です。
「その上、閂までかけ、やっと安心してため息をついた。事実、こうしておけば大丈夫、
だれかがここまでさがしにくることは考えられなかった。ここには滅多に人が来ないことを
バスチアンは知っていた。万一偶然のいたずらで、よりによって今日か明日、
だれかがここに用があってきたとしても、ドアは固く閉まっているし、鍵もなくなっている。
どうにかしてこじあけても、バスチアンにはがらくたの間に身を隠すだけの時間は十分にある。
目が少しずつうす暗がりに慣れてきた。」引用 p23より
「はてしない物語」 ミヒャエルエンデ 上田真而子、佐藤真理子 訳
このような過去と現在の混在も日本語の小説には当たり前のように出てきます。
淡々とした過去の文のあとにこの現在の文を読むと、実際に自分がその部屋にいて
よそのものがドアから入ってこないでくれと、登場人物になりきって
想いをよせってしまう、そういう効果をもっています。
書いている自分も自然に書いていますが、映画のズームインの手法のように意識して
書いているものではなく、自然に出てくるものです。しかし、この自然というのが
よくないのであって、今回の物語からそれを意識して書いてみようかと思います。
一定のリズム? いや、それはわからないけれども、自分の書いた物を読み返しながら
このあたりっはこだわってみたいと思っています。
過去と現在完了の違いが無いので、多くの高校生があんまり
現在完了をうまく使えません。理屈でわかっていても、英語をはなしていても、
自由に現在完了を使えないのです。頭じゃわかってるけど実践では何の役にもたたない
恋愛のマニュアルみたいなものが学校の英語文法でしょうね。
外人と話していて、自然に現在完了が出てくればおそらくその人はかなりな
英語の使い手でしょうね。英語に現在完了が使えないのは日本語が原因です。
そもそも日本語に現在完了の発想がないのです。
何かが終わったとき、 「もう終わったの?のびたくん。」「もう終わったよ。」 と言いますが、
これを発する、二人の発想の中に 終わって今どうしている という考えは内包していません。
終わったから終わった。 今どうしているかは、わかるでしょう。 いちいちいわなっても、という
感じです。終わってるから、ドラえもんと一緒にどら焼き食べながらテレビ見てるのさ。
日本語は状況を察して、相手の様子を慮る言語なのです。
上の、二人の会話を英語に直すと、'Have you finished studying?' 'Yes, I have.'
当然目的語がなくては、文法が壊れるので、studying を入れます。
日本語は時制が曖昧なので、上の文を
「もう終わってるの?のびたくん。」「もう終ってるよ。」のほうが
現在完了に近いかもしれません。さらに
「もう終っちゃってるの?のびたくん。」「もう終っちゃってるよ。」
のほうが、さらに現在完了に近いかもしれません。
これが、日本語のあいまいさです。 この曖昧さを楽しむことも大切でしょう。
物語の実際の例をあげてみます。「はてしない物語」の一節です。
「その上、閂までかけ、やっと安心してため息をついた。事実、こうしておけば大丈夫、
だれかがここまでさがしにくることは考えられなかった。ここには滅多に人が来ないことを
バスチアンは知っていた。万一偶然のいたずらで、よりによって今日か明日、
だれかがここに用があってきたとしても、ドアは固く閉まっているし、鍵もなくなっている。
どうにかしてこじあけても、バスチアンにはがらくたの間に身を隠すだけの時間は十分にある。
目が少しずつうす暗がりに慣れてきた。」引用 p23より
「はてしない物語」 ミヒャエルエンデ 上田真而子、佐藤真理子 訳
このような過去と現在の混在も日本語の小説には当たり前のように出てきます。
淡々とした過去の文のあとにこの現在の文を読むと、実際に自分がその部屋にいて
よそのものがドアから入ってこないでくれと、登場人物になりきって
想いをよせってしまう、そういう効果をもっています。
書いている自分も自然に書いていますが、映画のズームインの手法のように意識して
書いているものではなく、自然に出てくるものです。しかし、この自然というのが
よくないのであって、今回の物語からそれを意識して書いてみようかと思います。
一定のリズム? いや、それはわからないけれども、自分の書いた物を読み返しながら
このあたりっはこだわってみたいと思っています。
特に好きな作家はアルチュールランボーです。今も暗記した詩の冒頭は口に出てきます。
フランス語を教えていただいたベルギーの教授が絶大なサンテクジュペリのファンだったので、飛行機野郎としてのサンテクジュペリにすこしばかり影響を受けました。
教授の情熱にほだされて、原書ではないですが、サンテクジュペリの本は一通り読みました。
サンテクジュペリの著作は著作権が切れたようですね。
それほど昔の作品には思えない普遍的なエッセンスを内包しています。
もちろん、星の王子様も 普遍的な価値をもっています。
彼の手書きのイラストもかわいいし、不朽の名作として永遠に読み継がれていく名著ですね。
フランス語の読み物としてもフランス語の導入本としてすばらしいテクストです。
日本語には日本の良さがあり、フランス語にはフランスの良さがあって、その文化構造の礎になっています。西洋を知ってこそ本当の日本の良さがわかると思っています。
あまりいろんなことを並行してやっているので、何かに傾くと別のことが頭から失せているということが多いので、バランスをとるのが難しいです。
焦らずいいものを作ろうと思っています。