1月5日の礼拝の内容です。讃美歌は、18.194.368.451.27です。
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礼拝説教 使徒13:26~32「イエス様の証人となる」 2025.1.5
2025年になりまして、最初の日曜日を迎えました。1週間の初めの日曜日に、このように神を礼拝することができますことを心から感謝したいと思います。示された神のみ言葉を受けて、それぞれが豊かな1週間の歩みをすることができますように祈ります。
私たちはキリスト教の信仰を持ち、教会生活をしています。一番大切にすることは何かといえば、それはイエス・キリストの十字架です。十字架の死と復活です。いつも私たちは、イエス・キリストの十字架を見上げつつ、信仰生活を送っています。このキリスト教の信仰生活は、私たちのいろいろな場面で生かされていると思いますが、一番発揮されるのは、人の死と向き合った時だと思います。私たちの日常生活では、死を意識することは少ないと思いますが、死を意識する場面に突然に出会うこともあります。私はいつかくる死とどう向き合うのかを、日常生活の中で意識することが大切だと考えます。死を意識することによって、イエス・キリストの十字架とより向き合うことができるのです。イエス・キリストの十字架の死と復活は、私たち自身の死とその後の復活、永遠の命を受け止めることになります。人の死の先に未来と希望があることを知るだけで大きな勇気を持って生きることができるのです。
私が青年時に、マザーテレサの働きに大きな影響を受けました。インドのカルカッタ、今は違う呼び方になっています。ここで紛争が起りました。その紛争で多くの難民が生まれ、難民がカルカッタの町に逃れて来たのです。多くの難民が町にあふれました。そうすると、高齢者や子どもなど弱い立場の人たちが倒れて、そのまま死を迎える人々が多くいたのです。死者の数があまりに多いので、人々は人の死に無関心になってしまったというのです。そこで、マザーテレサの活動が始まるのです。普通なら、死にそうな人ではなく、生き延びる可能性がある人を助けると思うのですが、マザーテレサはそうでなくて、今にも死にそうな人を見つけて、助け出し、死を待つ人の家に連れて行くのです。その意味は、今にも死にそうな人に「あなたは愛されるために生まれて来たことを感じて欲しい」という願いがあっての行動でした。家で、その人に一杯のあたたかいスープを飲ませます。あなたは大切な人ですという願いを持って、そのような行動になっているといいます。
今にも死にそうな人が自分だったらどうでしょうか。紛争で逃げて来て、道端で倒れて、今にも死のうとしている。その時に、誰かから抱き起されて、どこかの家に運ばれて、汚れた体をきれいに洗ってもらい、最後の一杯のあたたかいスープを飲ませてもらえる、うれしいことだと思います。私たち1人1人が、人生の最後を迎える時に、誰かが側にいてくれる、これだけでうれしいと思います。何もできなくても、ただ側にいてくれる、それだけでいいのです。あなたは神に愛され、人に愛されて、ここまで生きることができた。幸いな人生だと感じて、死を迎えることができることは本当に幸いなことです。
使徒言行録を読んでいきましょう。今日の聖書の箇所は、パウロの第1回伝道旅行のピシディア州のアンティオキア、安息日でユダヤ人の会堂で行われたパウロの説教の部分です。パウロの伝道旅行は、異邦人に向けての伝道と考えられがちですが、新しい町に行った時には、最初にはユダヤ人の所に行って伝道しているのです。その伝道方法は最後まで変わることはありません。初めに、パウロはユダヤ人に向けて、神は私たち、イスラエルの民を選んでくださった。そして、エジプトの時代、荒れ野の40年の時代、士師の時代、サウルとダビデの時代、ずっとイスラエルを導いてくださったっことをいいます。ダビデの子孫から救い主イエスを送ってくださること、洗礼者ヨハネもイエス様のことを指し示してくださったことを語っていくのです。
そして改めて、ユダヤ人に向けて、兄弟たちと呼びかけます。アブラハムの子孫の方々、神を畏れる人たちと。この救いの言葉はわたしたちに送られましたといいます。パウロがいう救いの言葉とは何を意味するのでしょうか。使徒言行録が書いていることは、ユダヤ人が神の民とされたにも関わらず、神の子、救い主にイエス・キリストを認めなかったことです。エルサレムに住む人々やその指導者たちは、イエス様を認めず、また、安息日ごとに読まれる預言者の言葉を理解せず、イエス様を罪人とされたのです。イエス様に死に当る理由は何も見い出せなかったのに、イエス様を死刑にするようにピラトに求めたというのです。ピラトのもとで、イエス・キリストは十字架にかけて殺してしまったのです。十字架の死後、ユダヤ人はイエス様を十字架から下ろして、墓に葬りました。
ユダヤ人は、神から特別に選ばれた民でした。それは、ユダヤ人を通して、すべての人々の救いにつなげるということでした。旧約聖書を読んでいると、神に選ばれたユダヤ人が、神から与えられた神の教え、幕屋や祭司制度などを守ることが求められています。もし、神の教えを破った時に、神の罰が与えられるというものだと思います。しかし、旧約聖書の狙いは、そこにはなくて、神に選ばれたユダヤ人が、神の教えなどを守ることができない。その場合として、いかにユダヤ人の犯した罪を赦すのかの方法が書かれているのです。旧約聖書のレビ記の中に、ユダヤ人が罪を犯した場合、どのように神の前で罪を贖うことができるのかの具体的な方法が書かれてあるのです。それは、人間の犯した罪を、人間自身が負うのではなく、人間の飼っている家畜に、人間の罪を負わせて、神の前にささげるということでした。家畜が、人間に代って罪の贖いとしてくださるのです。
ルカは、この聖書の箇所で、「イエスを罪に定めることによって、その言葉を実現させたのです。」(27節)「イエスについて書かれてあることがすべて実現した後」(29節)と書いて、ユダヤ人がイエス様を十字架につけて殺すことは、神のご計画であったことを書いています。ここまで読んできて、驚くべきことは、神に選ばれたユダヤ人の役割は、神の子イエス・キリストを十字架につけて殺すことでした。そのまま考えれば、ユダヤ人の大きな罪であると思うのですが、その大きな罪を、神の赦しのために用いられるということです。
神は、イエス様を死者の中から復活させてくださったのです。イエス様は、御自分と一緒にガリラヤからエルサレムに上った人々に、幾日もわたって復活の姿を現してくださったのです。その人たちは、今、ユダヤ人に対して、イエス様の証人となっています。私たちも、先祖に与えられた約束について、あなたがたに福音を告げ知らせていますといいます。
この救いの言葉は私たちにおくられましたとパウロは、ここでいっています。もちろん、パウロの言葉を聞いているユダヤ人に対してですが、この言葉は、今、ここにいる私たち1人1人に語られている神の言葉です。私たちは旧約聖書、ユダヤ人の歩みから、人間の罪について、罪の赦しについて知ることができます。そして、新約聖書の4つの福音書から、イエス・キリストの働き、特に十字架の死と復活について知ることができるのです。使徒言行録では、使徒たちによって、このイエス・キリストの福音がエルサレムからローマにまで伝わっていくのです。ユダヤ人からすべての異邦人へ宣べ伝えられていきます。パウロが、ここでいっている、この救いの言葉というのは、イエス・キリストの十字架の死と復活によって、私たちの罪が贖われて、罪が赦されて、復活の命に預かることができるということです。
私たちはいつの日か、死を迎えることになります。しかし、そこでは終わりではありません。新しい命の始まりが起ります。神によって造られた私たちは、罪を犯し、神から離れ、滅びを待つしかありませんでした。人間の力では、罪の現実に立ち向かうことができなかったのです。そのために、神は人間の救いのために、御子イエス・キリストを送ってくださいました。そのイエス・キリストを人間は、十字架につけて殺してしまったのです。神の目からすれば、決して赦されることのない罪を犯したかのようです。でも、それは神のご計画でした。神は、人間の罪を利用して、人間の罪の救いを成し遂げてくださったのです。それが、イエス・キリストの十字架です。この十字架を通して、私たちの本当の救いがあります。救いの言葉は、私たちの死後にある希望です。神と共にある永遠の命です。やがて、私たちの住む世界は、神よって終りの時を迎えます。そして、神よって新しい世界が造られます。神の国です。そこに、罪赦された私たちは、そこに入る恵みを与えてくださっているのです。これは神からの一方的な恵みです。まさしく福音です。新しい年が始まっています。私たちは、このイエス・キリストにある希望を持って歩もうではありませんか。イエス様の証人として歩み、復活の命のことを知らない人々に、伝えていきましょう。
祈り 神よ、新しい年の最初の日曜日に、このように神を礼拝することができましたことを心から感謝します。私たち1人1人が、イエス様の証人として歩むことができますように、十字架の死と復活の意味を知り、死の先にある復活の命の希望があることを、周りの人々に伝えていくことができますように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。
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