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気取りも なんのてらいもなく  あるがままの自分を 感性の赴くままに そんな独りよがりの書き捨て日記です。

故桜井研次さんを偲びながら往時の思い出に浸ってみました。【その①】

2024-02-29 17:54:43 | 日記

このブログでも何度か打ち明けさせていただいておりますが

私は青年海外協力隊昭和56年度3次隊

船舶機関隊員として南太平洋の小国”トンガ王国”に派遣されておりました。

(昭和57年1月~昭和61年8月)

その期間の当初の約9ヵ月間、先輩隊員として知り合い

現地よりも帰国してからもずっと交流を保ち

お世話になりっぱなしだった

桜井研次さんが昨年末に逝去していたとの訃報が届き

身の置き所もないほどの悲しみに耽っておりましたが

 

これを機会に桜井さんと知り合ったトンガ時代のこと

その後の桜井さんとの交流を記録しておこうと

記事とさせていただくことといたしました。

 

彼についての記述は、後半で書き記してゆく所存ですが

とりあえず、知り合うこととなったキッカケの青年海外協力隊時代から

振り返ってみたいと思います。

 

 

昭和57年 

1月27日、広尾にあった青年海外協力隊事務局を出発し成田から出国

 

JALのFiji経由NZオークランド行のできたばかりのビジネスクラス席は

我々協力隊員3人のみ

後部座席はハネムーンの新婚客でほぼ満席

 

翌28日にFIJIのNadiに到着、小型機に乗り換えて首都Suvaへ

Suva空港に出迎えにきてくれていた書記官に付き添われ

ホテルにチェックインしてから夕食をご馳走になり

翌日は日本大使館を表敬訪問してSuvaの街を散策

 

翌々日はまた小型機でNadiに戻る予定が荒天で欠航してしまったため

書記官に見送られ窓ガラスのないバスに乗り込み

大嵐の中びしょ濡れになりながら数時間揺られてNadiへ移動

大荒れで人気のないリゾートホテルに泊まり

翌早朝の31日、協力隊の駐在員事務所のある西サモアのApiaに飛び

日付変更線が異なるため1月30日にApia に到着

Apia に2泊してサモア時間2月1日(トンガは2月2日)

日本を出発してから6日後

ようやくトンガ王国の首都Nuku’alofaに到着となりました。

首都Nuku’alofaのあるTongatapu島のFa’amotu airportの

掘っ立て小屋のターミナルから出ると

出迎えてくれたのが先輩隊員である桜井さんと倉松さん

 

当時は外観がジープそのもののTOYOTAランドクルーザーの後部座席に乗り込み

宿舎へと直行し

(日本の無償援助によって水産局のハコモノとこの住居が建てられそこが着任当初の宿舎でした)

 

その夜は着任パーティーが開かれ

告げられたのが

たしか3日後に

着任する2月ほど前に日本政府からの無償援助によって供与された

鮪延縄練習船に乗り込んでくれとの事

一応名目は着任時の現地訓練と言われていましたが

 

実は、建造時から日本で研修していた機関長が帰国した途端逃げ出し

機関長が不在で処女航海(操業)に出られず

漁船の供与に関わっていたJICA専門家(川上晋氏)が

引き渡しを花道に17年滞在したトンガ王国での任期を修了して帰国するつもりだったのが叶わず

 

困り果てて私の着任を待っていたらしく

なんと日本から送ったアナカン(別送荷物)も届いておらず

着の身着のままで乗船しろ!と言う始末

 

成田からトンガまでの移動中の着替えしか持っていなかったため

私とは身長差ー15cmほどの桜井さんが(同じ機械系隊員だったので)

自身の持ってたツナギを貸してくれたのですが

 

あまりに理不尽な応対に愕然とするやら呆れ果てながら生まれて初めて漁船に乗船

初操業だったので専門家の川上氏と漁労の専門家の松本し

そして冷凍機隊員だった桜井さんと

同期で漁具漁法隊員も数日の予定で一緒に乗り込んだのですが

 

私は機関室で乗組員に当直の指導をしていたところ

岸壁を離れ操業の準備をしようとしたいた漁労担当の専門家から

延縄用のベルトコンベアが動かないから直してくれと告げられ

二の句が継げず訳もわからずスターターの電気回路で電磁弁が壊れていることがわかり

陸に戻って倉庫に保管されていた予備品と交換してようやく再出港したのですが・・・

 

2月も係留したままで、操業の準備や点検もせずにいたのかと呆れるばかり

暗雲の中を突き進んでゆく気分でした。

 

↓ 髭の伸び方からたぶん出航して1週間くらいに、半ば呆然自失しながら甲板で自撮りした写真

数日後、初操業を終えて同乗していた日本人は下船するとのことで

私も下船して別送した荷物を受け取り、生活の準備ができるかと期待していたところ

機関長としてそのまま乗船してくれと言われ

 

商船の船乗りとしての心構えはあったものの

商船は貨客を目的地まで運ぶもので

船速の遅い船で太平洋横断でもせいぜい2週間程度

 

それが鮪延縄漁船の場合は

積み込んだ食料か飲料水が尽きるか

捕った魚で魚倉がいっぱいになるまで港には戻らないとのことで

 

最短で1月、運が悪ければ一月半船の上で過ごさなければならず

冷房無しの10人部屋の船室に

風呂無し、タロ芋漬け、タバコも酒もない

野郎だらけの船上生活

山ほど苦労もしましたが、そのぶんトンガ語も上達できたし

なによりも同じ釜の飯を食った仲間として

トンガ人から心底受け入れられるようになれたのは

この経験があったから


鮪延縄漁船は

全速力で船を走らせ、船尾から餌のサンマをつけた延縄(長さにして150キロ)を

油圧の投げ込み器を使って3時間ほどかけて投げ込み

船を停止して1時間ほど待ってから

投げ込んだ縄を油圧の巻き取り機で20時間弱かけて引き揚げながら

鮪やカジキ、鮫などの大型魚を獲る漁法で

 

まさしく24時間操業の休みなしのタコ部屋のような生活

 

いまでは”災い転じて福となす”とも思えるようになりましたが

当時はまだ若干24歳になったばかり

異性もおらず週末のディスコにも行けないのは正直辛かった~(笑)

 

最初の一月の操業を終えて首都に戻り

任期を延長して3年間滞在していた漁業隊員の空港への見送りに同行し

(私、右端がその隣が桜井さん、川上さん一家と他の協力隊員との記念撮影)

 

この時は給水と食料の積み込みで寄港したものの

数日後にまた操業に出ることとなって船に乗り込んだのですが・・・

 

出港からわずか数日して突然の大嵐

無線で届いた情報では、大型台風が発生してトンガを直撃しそうとの事

(小さな船でしたが、遠洋漁業のため通信士が乗り込んでました)

まともな気象情報もない洋上で

トンガ史上最大級の台風に巻き込まれたら沈没間違いなしと判断し

 

サンゴ礁のリーフに囲まれた首都のあるTongatapu島に戻り

錨を2本海底に食い込ませ風に向かってエンジンを全速力にして数時間

気の遠くなるような時間が過ぎ

無事やり過ごしたのですが


機関部のエンジニアに

「こんな大型台風が襲来するの?」と尋ねると

「うん。毎年こんなだよ。」との答えに顔面蒼白


やがてリーフに囲まれてるのに

高波が港の岸壁の倉庫を超えるほどになり

海岸線沿いは越水して水浸し

 

同じように避航していたタグボートや小型船が


強風に負けて走錨し

次々とリーフに乗り上げたり沈没するのを目の当たりにして

(座礁した元鮪延縄漁船で離島間の貨客船として使われてた船)


これは大変なところに来てしまった‼️と

行く末を案じたものでした


【続く】


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