書の歴史を臨書する

古今の名磧を臨書、最近は米フツ。
時折、気の向くままに漢詩や詩、俳句などを勝手気侭に書いております。

臨書  趙之謙「隷書張衡霊憲四屏」

2012-05-22 08:37:30 | Weblog

可為色

沌不分

道徳之者

永渾成

先天地生

其気体也

道而形

其遅速固未可得而未天体

又永久焉

 

趙之謙紹介(2)

号にもちいられた冷・悲・悶は、そのまま趙の生涯を表しています。
青年の「冷」は、妻子を抱えて生計のために印書画を作るという不本意な売芸生活を厭世的に表現しています。
中年の「悲」は、洪秀全(こうしゅうぜん)が起こした太平天国の乱(たいへいてんごくのらん)の騒乱のうちに妻と娘が病没し、三十四歳にして天涯孤独の身の上を文字に託しました。
二年後の三六歳には「无悶(悶无し)」となって、趙の心に平安が訪れます。
この転機となったのが三十四歳十二月の北京行きでした。
この北京への旅は、科挙試験のためのものでしたが、ここで出会った沈樹鏞(しんじゅよう)・胡澍(こじゅ)・魏錫曽(ぎせきそう)と試験準備もそこそこに昼夜を問わず金石談議に没頭することになります。
同治(どうち)四年の会試にはじめての受験しましたが失敗して、この年の末に北京を離れて帰郷するまでの三年間ほどが趙にとってもっとも充実した期間で、ついには无悶の境地に到りました。
これより四六歳(同治一三年)までに四度受験し、年号が光緒にかわって四九歳(光緒三年)五度目の受験に失敗して、ついに進士への道を断念しました。
趙は一度目の会試で得ていた国史館謄録(こくしかんとうろく)という資格で、鄱陽県(はようけん 江西省・こうせいしょう)の知県として五〇歳にしてはじめて任官したあとは奉新県(ほうしんけん 江西省)の知県をへて、光緒一〇年(1884)五六歳で城南県(じょうなんけん 江西省)の知県として官舎で亡くなりました。

# 趙之謙紹介は 遠藤昌弘著作選 臨書探訪82 を引用させていただいて居ります。

 

臨書のすすめ
手島 右卿
日貿出版社

 

 

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿