橘逸勢(?-842)
空海・嵯峨天皇と共に三筆と称されている。
804年、最澄・空海らと共に遣唐使として唐に渡る。
唐の文人達から「橘秀才」と賞賛される程、書画に優れた偉才と伝えられる。
晩年に皇位継承問題と藤原氏との権力闘争(承和の変)
に関わり流罪となり配流の途上、遠江にて没する。
最澄・空海に比して、歴史上の知名度は低い。
才気に走りすぎ、常道を脱した行動が多かったのではないだろうか。
この書は桓武天皇の皇女である伊都内親王の寄進に添えた願文である。
縦横無尽な筆の動きの随所に、
創造性に富んだ筆遣いが見られる。
橘逸勢の書と伝えられているもののその確証が無いのが残念だ。
かくて、空海から始まり嵯峨天皇、橘逸勢の三筆により、
単なる中国書法の模倣から脱皮し日本独自の書風が形成されたのである。
側聞惟父惟母慈之悲之者
空海・嵯峨天皇と共に三筆と称されている。
804年、最澄・空海らと共に遣唐使として唐に渡る。
唐の文人達から「橘秀才」と賞賛される程、書画に優れた偉才と伝えられる。
晩年に皇位継承問題と藤原氏との権力闘争(承和の変)
に関わり流罪となり配流の途上、遠江にて没する。
最澄・空海に比して、歴史上の知名度は低い。
才気に走りすぎ、常道を脱した行動が多かったのではないだろうか。
この書は桓武天皇の皇女である伊都内親王の寄進に添えた願文である。
縦横無尽な筆の動きの随所に、
創造性に富んだ筆遣いが見られる。
橘逸勢の書と伝えられているもののその確証が無いのが残念だ。
かくて、空海から始まり嵯峨天皇、橘逸勢の三筆により、
単なる中国書法の模倣から脱皮し日本独自の書風が形成されたのである。
側聞惟父惟母慈之悲之者
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