以下に下克上に直接関連した歴史上の人物の書を臨書する。
不思議に、この時代の人々の書を眺めても、荒れ狂った当時の世相を感じない。
皆、其々が文識者であり、よんごと無く戦に明け暮れていたのであろう。
それにしても名書の臨書のつもりが、
いつの間にか古今の歴史上の人物の書に興味が移ってしまった。
細川晴元(1514-1563)
くれ申候に御使給候
今川義元(1519-1560)
老臣雲斎の助けを得て、駿河、遠江、三河を勢力下に置き、
甲斐武田、相模北条と和を結び尾張への進出を図るが、
信長に破れ田楽狭間にて敗死、42歳。
母から貴族的素養を受け継ぎ、
この書状もいかにも貴族的である。
読み:
天下弥静謐に申付け候竒特
狩野元信(1476-1559)
狩野派の祖である父正信の跡を継ぎ将軍家の誤用絵師おなる。
大和絵の土佐光信の娘と結婚したと伝えられるが、
大和絵の装飾技法と漢画の技法を折衷させ狩野派の画風を大成させた。
平明、率直な画風は朝廷、幕府、社寺はもとより町衆などの一般にも受け入れられ、狩野派の地位を不動のものにした。
読み:
御懇之預御礼候殊二依御寺
山崎宗鑑(1465-1553)
室町時代後期の連歌師。
室町幕府第9代将軍足利義尚に仕えたが、
義尚没後武門を離れ、専ら、文事に没頭した。
連歌の発句を独立させ俳諧の基礎を築いた。
読み:
雪継浮橋断烟影山舎蔵
大内義隆(1507-1551)
父義與の跡を継いだ義隆は周防、長門・石見・安芸・備後・豊前・筑前を領し、
名実共に西国随一の戦国大名となり大内家は全盛期を迎えた。
明との交易を独占し莫大な財を成し、学問・芸術の高揚に尽くし、
キリスト教布教も許し、独特の大内文化が生まれ、文化的にも全盛期を迎えた。
しかし、義隆の晩年に家臣団対立が起こり、重臣の陶晴賢の謀反により自害する。
以後、大内氏は衰退の一途を辿る。
読み:
冬日同詠松久友 和歌
北条早雲(1432-1519)
戦国時代の代表的武将。
其の出生については京都伊勢氏の流れを引くと言われるが明らかではない。
駿河の守護今川氏の内紛をおさめ、駿河の興国寺城主となり、さらに、
伊豆堀越公方の内乱に乗じ伊豆の実権を握ると伊豆韮山に拠点を置き、
小田原城を乗っ取りなど関東に進出し関東一円に勢力を広げた。
早雲は戦術に長けているだけでなく民政にも優れ、
学問や和歌にも秀でていた。
読み:
雖未申入候以次令啓候仍關右馬