シベリウス作曲ヴァイオリン協奏曲二短調。
私は何回聴いてもこの曲の1主題を覚えることができない。
なぜ覚えられないのか?それはテーマが長いからである。この曲は規格外れに長いテーマを持っている。 ・・・と、ここまでは前回のテキストでおわかりいただけたと思う。
大きなものを小さな枠に押し込もうとした当然の結果として、
シベコンはちょっと耳慣れない音楽になっている。
( 前回のテキストは こちら )
そのせいかどうかわからないが、シベコンは、はじめはほとんど理解されなかった。
この曲は1904年に初演されたが、作者自身もその出来栄えに満足せず、さらに1年を費やして曲を大幅に書き直した。しかしその決定稿でさえ聴衆には受けなかった。決定稿はチェコの名ヴァイオリニストをソリストに迎えて演奏され、会場にはソリストの師匠も足を運んだ。師匠はヨーゼフ・ヨアヒムだった。当時最も卓越した音楽家のひとりだったヨアヒムですらこの曲を酷評した。シベリウスがこの曲で提案した音楽は、それまで誰も聴いたことのないものだったから、聴衆はそれに対してどんな反応をすればいいかわからなかったのだ。しかし不評にもかかわらず、シベリウスの音楽はその後もシベコンの路線を推し進めていった。シベコンは彼にとって重要な意味を持つ作品となった。
シベリウスは1890年代の終わりに「フィンランディア」でブレイクし、当時のフィンランドで最もポピュラーな作曲家だった。とはいえ、「フィンランディア」の成功は、作曲家よりも指揮者であるロベルト・カヤヌスの力によるところが大きかったようだ。カヤヌスはドラマティックなスタイルで聴衆を煽る指揮者であり、時流を読む能力に長けた音楽プロデューサーだった。彼はシベリウスの音楽が持つフィンランド的な部分をクローズアップして演奏し、民族独立の気運の高まる国内のマーケットに向けて発信した。彼の狙いは的中し、「フィンランディア」は愛国心を呼び覚ます音楽として聴衆の圧倒的な支持を受けた。その結果シベリウスは独立闘争を象徴する音楽的アイコンに祭り上げられた。しかし当のベリウスのほうは、作曲家として成熟するにつれて、政治的な意図よりも、もっと純粋な内的動機のために音楽を作るようになっていた。
シベコンの中で、彼はその新しい音楽性をより明確に打ち出している。そしてこの曲を境にして、彼の作風はそれまでの国民的音楽スタイルから遠ざかっていった。
シベコンを書くにあたり、彼は常識よりも一段高いハードルを自らに課し、それを乗り越えるために新しい音楽語法を作り出さなければならなかった ・・・というのは前回のテキストのとおりだが、おそらくその作業の過程で彼に何かしら変化が起こったのだろう。
( 前回のテキストは こちら )
転向後、シベリウスの創作のエネルギーはもっぱら交響曲に向けられた。
1907年に完成した交響曲第3番において、彼はシベコンで展開した独自の音楽語法をさらに深化させている。しかし評判は芳しくなく、続く交響曲第4番に至っては、スカンジナヴィアに加えてイギリスやアメリカなど、より多くの聴衆の前で演奏されたにもかかわらず、全く受け入れられなかった。その後の交響曲も作曲作業に困難を極め、完成までに長い時間と多くの労力を要した。
彼が選んだ道はきわめて厳しい道だった。
そして彼の音楽の変化はファンをあまり喜ばせなかった。
でも彼は過去のスタイルには二度と戻らなかった。
いったい、彼にどんな変化が起こったのだろう。何が彼を孤独な探究へと
駆り立てたのだろう。
シベリウスの晩年の言葉にそのヒントがある。
交響曲の本質は形式にあると、よく考えられている。
しかし、それは誤りだ。
主たる要素は内容なのであり、形式は二義的なものだ。
音楽自体がその外的形式を定めるのであり、
ソナタ形式がなんらかの永続性をもつためには、それが内部から出てこなければならない。
音楽形式がどのようにつくり上げられるかを考えるときには、
よく雪の結晶のことを考える。
雪は永遠の法則に従って、もっとも美しい模様をつくり上げるのだ。
シベリウスはここでソナタ形式について語っている。しかし同時に、彼は明らかに楽式のレベルを超えたものについて語っている。ルールとかサイズとか、そんなものとは別の、もっと大きな、もっと普遍的なものについて、彼は語っているのだ。
自然の摂理と同じくらいの普遍性を
彼はソナタ形式の中に見出したのではないだろうか。
あるいは、自然の摂理と同じくらいの普遍性を
彼はソナタ形式に与えようとしたのではないだろうか。
この言葉はシベリウスの決意表明である、と私は思う。自分の資質が厳格なソナタ形式と相容れないという事実に思い至った時、彼は頭を抱えたに違いない。シベコンのテーマは誰がどう見ても無茶に長い。でも彼は決意した。
テーマはこれしかない。そしてサイズは問題じゃない。
音楽それ自体が摂理にかなっていれば、そこにおのずと形式が現れるはずだ。
彼はそう信じたのだ。
その信念があればこそ、これほど長いテーマを与えながらも、シベコンを最後まで書き切ることができたし、その後もテンションを下げることなく、交響曲を生み出し続けることができたのだ。
固有の資質と一般的な形式との妥協のない共生。シベコンはそれを目標に掲げて書かれている、と私は思う。もともとソリの合わない者同士が同居しているから、シベコンにおけるソナタ形式はかなり不格好で不安定である。シベリウスの持ち味である長いテーマ、その自由な拡がりを抑圧しないように、形式はできる限り相対化されている。だからチャイコンみたいに整然とした音楽にはならないし、私は何回聴いても第1主題を覚えられない。ひょっとしたらソナタ形式として不完全なのかもしれない。
でもこの曲には、間違いなく彼の独自のスタイルがある。
シベコンのCDの楽曲解説を見ると、第1楽章は「自由に拡大されたソナタ形式」とか、「きわめて独創的なソナタ形式」とか、「かなり変形されたソナタ形式」といった言葉で説明されている。その言い回しは解説者ごとにまちまちである。楽曲解説には、ほかにも「交響的性格を持つ」とか、「動機的に発展する」とか、国語辞典に載ってない形容詞が満載で、最初のうちは読んでもさっぱり意味がわからなかった。この曲を理解するために解説を読んでいるのに、そこに登場する珍妙な日本語のためにかえって混乱してしまうのだ。
でもそれは解説者のせいではない。それはシベリウス独特の音楽語法のせいである。
シベコンはとても解説者泣かせだ。あまりにもスタイルが異質すぎて、みんなそれをうまく言葉で伝えられないのだ。 ( 第10回へ続く )
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私は何回聴いてもこの曲の1主題を覚えることができない。
なぜ覚えられないのか?それはテーマが長いからである。この曲は規格外れに長いテーマを持っている。 ・・・と、ここまでは前回のテキストでおわかりいただけたと思う。
大きなものを小さな枠に押し込もうとした当然の結果として、
シベコンはちょっと耳慣れない音楽になっている。
( 前回のテキストは こちら )
そのせいかどうかわからないが、シベコンは、はじめはほとんど理解されなかった。
この曲は1904年に初演されたが、作者自身もその出来栄えに満足せず、さらに1年を費やして曲を大幅に書き直した。しかしその決定稿でさえ聴衆には受けなかった。決定稿はチェコの名ヴァイオリニストをソリストに迎えて演奏され、会場にはソリストの師匠も足を運んだ。師匠はヨーゼフ・ヨアヒムだった。当時最も卓越した音楽家のひとりだったヨアヒムですらこの曲を酷評した。シベリウスがこの曲で提案した音楽は、それまで誰も聴いたことのないものだったから、聴衆はそれに対してどんな反応をすればいいかわからなかったのだ。しかし不評にもかかわらず、シベリウスの音楽はその後もシベコンの路線を推し進めていった。シベコンは彼にとって重要な意味を持つ作品となった。
シベリウスは1890年代の終わりに「フィンランディア」でブレイクし、当時のフィンランドで最もポピュラーな作曲家だった。とはいえ、「フィンランディア」の成功は、作曲家よりも指揮者であるロベルト・カヤヌスの力によるところが大きかったようだ。カヤヌスはドラマティックなスタイルで聴衆を煽る指揮者であり、時流を読む能力に長けた音楽プロデューサーだった。彼はシベリウスの音楽が持つフィンランド的な部分をクローズアップして演奏し、民族独立の気運の高まる国内のマーケットに向けて発信した。彼の狙いは的中し、「フィンランディア」は愛国心を呼び覚ます音楽として聴衆の圧倒的な支持を受けた。その結果シベリウスは独立闘争を象徴する音楽的アイコンに祭り上げられた。しかし当のベリウスのほうは、作曲家として成熟するにつれて、政治的な意図よりも、もっと純粋な内的動機のために音楽を作るようになっていた。
シベコンの中で、彼はその新しい音楽性をより明確に打ち出している。そしてこの曲を境にして、彼の作風はそれまでの国民的音楽スタイルから遠ざかっていった。
シベコンを書くにあたり、彼は常識よりも一段高いハードルを自らに課し、それを乗り越えるために新しい音楽語法を作り出さなければならなかった ・・・というのは前回のテキストのとおりだが、おそらくその作業の過程で彼に何かしら変化が起こったのだろう。
( 前回のテキストは こちら )
転向後、シベリウスの創作のエネルギーはもっぱら交響曲に向けられた。
1907年に完成した交響曲第3番において、彼はシベコンで展開した独自の音楽語法をさらに深化させている。しかし評判は芳しくなく、続く交響曲第4番に至っては、スカンジナヴィアに加えてイギリスやアメリカなど、より多くの聴衆の前で演奏されたにもかかわらず、全く受け入れられなかった。その後の交響曲も作曲作業に困難を極め、完成までに長い時間と多くの労力を要した。
彼が選んだ道はきわめて厳しい道だった。
そして彼の音楽の変化はファンをあまり喜ばせなかった。
でも彼は過去のスタイルには二度と戻らなかった。
いったい、彼にどんな変化が起こったのだろう。何が彼を孤独な探究へと
駆り立てたのだろう。
シベリウスの晩年の言葉にそのヒントがある。
交響曲の本質は形式にあると、よく考えられている。
しかし、それは誤りだ。
主たる要素は内容なのであり、形式は二義的なものだ。
音楽自体がその外的形式を定めるのであり、
ソナタ形式がなんらかの永続性をもつためには、それが内部から出てこなければならない。
音楽形式がどのようにつくり上げられるかを考えるときには、
よく雪の結晶のことを考える。
雪は永遠の法則に従って、もっとも美しい模様をつくり上げるのだ。
シベリウスはここでソナタ形式について語っている。しかし同時に、彼は明らかに楽式のレベルを超えたものについて語っている。ルールとかサイズとか、そんなものとは別の、もっと大きな、もっと普遍的なものについて、彼は語っているのだ。
自然の摂理と同じくらいの普遍性を
彼はソナタ形式の中に見出したのではないだろうか。
あるいは、自然の摂理と同じくらいの普遍性を
彼はソナタ形式に与えようとしたのではないだろうか。
この言葉はシベリウスの決意表明である、と私は思う。自分の資質が厳格なソナタ形式と相容れないという事実に思い至った時、彼は頭を抱えたに違いない。シベコンのテーマは誰がどう見ても無茶に長い。でも彼は決意した。
テーマはこれしかない。そしてサイズは問題じゃない。
音楽それ自体が摂理にかなっていれば、そこにおのずと形式が現れるはずだ。
彼はそう信じたのだ。
その信念があればこそ、これほど長いテーマを与えながらも、シベコンを最後まで書き切ることができたし、その後もテンションを下げることなく、交響曲を生み出し続けることができたのだ。
固有の資質と一般的な形式との妥協のない共生。シベコンはそれを目標に掲げて書かれている、と私は思う。もともとソリの合わない者同士が同居しているから、シベコンにおけるソナタ形式はかなり不格好で不安定である。シベリウスの持ち味である長いテーマ、その自由な拡がりを抑圧しないように、形式はできる限り相対化されている。だからチャイコンみたいに整然とした音楽にはならないし、私は何回聴いても第1主題を覚えられない。ひょっとしたらソナタ形式として不完全なのかもしれない。
でもこの曲には、間違いなく彼の独自のスタイルがある。
シベコンのCDの楽曲解説を見ると、第1楽章は「自由に拡大されたソナタ形式」とか、「きわめて独創的なソナタ形式」とか、「かなり変形されたソナタ形式」といった言葉で説明されている。その言い回しは解説者ごとにまちまちである。楽曲解説には、ほかにも「交響的性格を持つ」とか、「動機的に発展する」とか、国語辞典に載ってない形容詞が満載で、最初のうちは読んでもさっぱり意味がわからなかった。この曲を理解するために解説を読んでいるのに、そこに登場する珍妙な日本語のためにかえって混乱してしまうのだ。
でもそれは解説者のせいではない。それはシベリウス独特の音楽語法のせいである。
シベコンはとても解説者泣かせだ。あまりにもスタイルが異質すぎて、みんなそれをうまく言葉で伝えられないのだ。 ( 第10回へ続く )
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