脳のミステリー

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75.意到りて筆随う

2006-09-05 09:02:08 | Weblog
 右片麻痺を受容して以来、筆もペンも持つ事は可能から遠ざかったが、思いのままに筆ならぬ左手を動かして優れた詩文に挑戦する愉しみを持つ今、私なりに確かな第二の青春時代を感じる。
 先日、いつものように脳のミステリーに没頭していると、つい先頃梅雨時に始終私の海馬を刺激していた英語脳のウェブサイトを一寸、覗き込みたくなった。現代の優れ物であるパソコンはいつも私に嬉しい予感を運んでくれる。無論、切捨て御免!も中にはたくさんあるが・・・
 この日は嬉しい予感があたった。幼稚園児を抱える素敵なママに出会ったのだ。子育てが専業か、はたまた、英語指導が専業か、ご本人にマイクを向けない限り分らないが、私が思うには専門業は人間業であって後は全部が副業の筈だ。人間であるからには、特権ともいうべき『言葉』を大切にして欲しい。
 この未だ見ぬ若いママは母語であろう日本語も正しい使い方を心得ているようだし、実に頼もしい。最近、日本という国や日本人という人種に少し嫌気がさしてきているところにこの女性は私に少しでも安堵感を与えてくれた。大いに期待して、心からエールを送りたいものである。
 ところで、聴く耳を持つという事はとても大切な事である。人間の耳が先ず発達して、その大きさは生まれた時から然程大きくならない、と記憶に残っている。耳には福耳という素敵な名称もある。しかし、漢書には「百聞は一見に如かず」といって繰り返し他人の話を聞くよりも実際に自分の目で確かめた方がよく分るという訳だが、聴き間違えより見間違えに気をつけた方がいいような気もする。耳できくという行為に聞という字と聴という字を使い分けた私の狡さ、気が付いたかな?
 パソコンの良さは五感の内の視覚と聴覚をフルに使い、更に思考力や記憶力をくすぐって様々な事を学んだ後、投稿という形で自分の考え方を表現してみる事ができるという事だと思う。投稿すると、可笑しな批評も貰えるかも知れないが、再度、考えるような評価を得る事もできるという訳だ。四捨五入ではないけれど、自分なりの悪捨良入を絶えず試みては如何かな? 
 とにかく、片麻痺の私は今、『意到りて筆随う』という言葉が我が友といったところである。