母の日を前に、ふたつもの大惨事がその後、都会の夜に哀しい雨を降らせ、朝に強い風を吹き込んだ。ひとつは夜11時過ぎの火災発生の末に二つの幼い命が奪われた事故で、5月9日水曜日の事だった。もうひとつは夕方、一方通行の道で母親の目前で車に小さな命が奪われた事故で、翌日10日木曜日の事だった。共に、人災である。子供の日を無事に楽しく過ごし、この年の母の日を白いカーネーションでおくるとは誰が想像しただろう。5歳、7歳、そして5歳と言えば、可愛い盛りで何にでも興味を持ち、何でもお手伝いしたくなる年頃だ。可愛い一方、興味深々の年齢で一番注意が必要な年齢である。10日の現場は私の住居がある高輪、11日の事故は、車椅子に頼らずに二本の足で歩いていた頃によく訪ねた目黒川沿いの五反田での出来事である。我が家のすぐ側で目の当たりにした火災の惨事は、恐らく私が中々簡単に忘れる事は出来ないだろう。幼い女の子達と交わした言葉は少ないが、笑顔は時折会う度に交わした記憶が蘇る。二つの惨事は日本社会での家族のあり方を私に色々考えさせる事になった。
戦後、日本の経済は自然を省みずに猛突進してきた。人間社会も追いつけ追い越せとばかり、欧米化に急いだ節があるような気がしてならない。日本は、直径家族の他に傍系家族までも含む多人数の家族が一般的だった。祖父母は今ほど寿命が長くはなかった。現に、私が生まれ育った家庭も、祖父母が早くに他界して自ずから核家族だった。だが、母親は恰も大家族の裏方を忠実に守ってるが如く振舞っていた。大家族の名残が潜在的に存在していた。母という女の存在は母親の何物でもなかった。私の家庭でも私が幼稚園に行くようになって、行く時はいつも門まで母が見送ってくれた。帰宅すればいつも母が出迎えてくれた。おやつも母親と一緒に待っていてくれた。お買物は母と一緒に近所を回り、商店は自然とあの子は何処の子って知るようになっていったものである。小学校に行くようになっても、例え日中出かける用事があっても帰宅時には母親は家で私を出迎えてくれた。今、私達日本人は家族という問題も踏まえて社会というものを考えてみる必要があるだろう、と思うのは私だけだろうか。
人間は生まれた瞬間から、読んで字の如しで互いに寄りかかりながら生きる人になって、社会に身を置く訳である。社会には必ず長がいる。ここからは私らしい考え方が私の中には浸透していく事になる。
私が若い頃身を置いた英国系の家族という社会では面白い事を教わった。この世の中には男と女がいる。これは、私の日本の家族社会でも、豪州の英国系家族社会でも同じである。呼び方を豪州人のグエンママが面白可笑しく教えてくれた。女の子は生まれた時からレディだけど、男の子は9歳まではマスターで、10歳からはミスターって言うのだという説明だった。成る程、だからヤングレディはいてもヤングジェントルマンなんて言い方はしない。そして、男女共に10でちょっと立ち止まって11、12と数えて13から19迄は語尾にteenがついていく。20twentyは10tenと同じ様に節目で21からは30、40、50、60と規則的に進んでいけばいいのである。
高輪の惨事は四人の子供を巻き込んだ。長女はあと一歩でティーンエージャーの仲間入りで、長男はやっと10、即ちテンの節目に辿り着いたばかりである。二女、三女は生まれてきただけで未だ一度も節目にさえ立った事がない訳である。そう考えると、この家族という社会では、母親という長が席を立っただけで舵取りがいなかったという現実を現代の日本の社会で捉えるのは難しいのだろうか。
私は英語を指導する時、私なりに数字を年齢に重ねてみる事にしている。ワン、トゥーと来てスリーには日本人が不得手とするTHの発音がある。Threeの次のフォーのFも難しい。ファイブの中のFもVも日本人には苦手のようだ。私らしい考え方は、三つ子の魂百までという事で無事スリーまで来たら、four、five それにsevenでfとvに注意しながらtenまでふらつきながらでも歩いて来れるだろうという訳である。テンからは正に数字でも二桁になって立っているのが安定してくるという訳で、11、12では再びVの練習に磨きをかけるという事である。確かに日本語で説明されると、しち面倒臭いものだが、英語のレッスンとなると結構、みんな理解するものである。
四人きょうだいは12歳を頭に、10歳、7歳、5歳という話である。こんなまどろっこしい話をゆっくり時間をかけて、あの賢い12歳の長女にもっと始終会っていれば、話して聞かせてあげたかったのに・・・ 母親は長女が賢いから、長男は頼り甲斐があるから、食事を済ませた後に、のっぴきならぬ事情で外出したのだろう。それも緊急事態にすぐに戻れるような場所にいたようだ。あり得る、これはあり得る事である。まだ、本当の原因は分かっていないらしい。とにかく現時点では、私はふたりの少女が無事に昇天する事を祈る。
この時期には珍しく強い風は一日中吹いた。あたかも幼い姉妹の死を悼むと言うより恨んでいるかのように風神の怒りをかった強風があっという間に二人を連れ去ったような気がしてならない。
戦後、日本の経済は自然を省みずに猛突進してきた。人間社会も追いつけ追い越せとばかり、欧米化に急いだ節があるような気がしてならない。日本は、直径家族の他に傍系家族までも含む多人数の家族が一般的だった。祖父母は今ほど寿命が長くはなかった。現に、私が生まれ育った家庭も、祖父母が早くに他界して自ずから核家族だった。だが、母親は恰も大家族の裏方を忠実に守ってるが如く振舞っていた。大家族の名残が潜在的に存在していた。母という女の存在は母親の何物でもなかった。私の家庭でも私が幼稚園に行くようになって、行く時はいつも門まで母が見送ってくれた。帰宅すればいつも母が出迎えてくれた。おやつも母親と一緒に待っていてくれた。お買物は母と一緒に近所を回り、商店は自然とあの子は何処の子って知るようになっていったものである。小学校に行くようになっても、例え日中出かける用事があっても帰宅時には母親は家で私を出迎えてくれた。今、私達日本人は家族という問題も踏まえて社会というものを考えてみる必要があるだろう、と思うのは私だけだろうか。
人間は生まれた瞬間から、読んで字の如しで互いに寄りかかりながら生きる人になって、社会に身を置く訳である。社会には必ず長がいる。ここからは私らしい考え方が私の中には浸透していく事になる。
私が若い頃身を置いた英国系の家族という社会では面白い事を教わった。この世の中には男と女がいる。これは、私の日本の家族社会でも、豪州の英国系家族社会でも同じである。呼び方を豪州人のグエンママが面白可笑しく教えてくれた。女の子は生まれた時からレディだけど、男の子は9歳まではマスターで、10歳からはミスターって言うのだという説明だった。成る程、だからヤングレディはいてもヤングジェントルマンなんて言い方はしない。そして、男女共に10でちょっと立ち止まって11、12と数えて13から19迄は語尾にteenがついていく。20twentyは10tenと同じ様に節目で21からは30、40、50、60と規則的に進んでいけばいいのである。
高輪の惨事は四人の子供を巻き込んだ。長女はあと一歩でティーンエージャーの仲間入りで、長男はやっと10、即ちテンの節目に辿り着いたばかりである。二女、三女は生まれてきただけで未だ一度も節目にさえ立った事がない訳である。そう考えると、この家族という社会では、母親という長が席を立っただけで舵取りがいなかったという現実を現代の日本の社会で捉えるのは難しいのだろうか。
私は英語を指導する時、私なりに数字を年齢に重ねてみる事にしている。ワン、トゥーと来てスリーには日本人が不得手とするTHの発音がある。Threeの次のフォーのFも難しい。ファイブの中のFもVも日本人には苦手のようだ。私らしい考え方は、三つ子の魂百までという事で無事スリーまで来たら、four、five それにsevenでfとvに注意しながらtenまでふらつきながらでも歩いて来れるだろうという訳である。テンからは正に数字でも二桁になって立っているのが安定してくるという訳で、11、12では再びVの練習に磨きをかけるという事である。確かに日本語で説明されると、しち面倒臭いものだが、英語のレッスンとなると結構、みんな理解するものである。
四人きょうだいは12歳を頭に、10歳、7歳、5歳という話である。こんなまどろっこしい話をゆっくり時間をかけて、あの賢い12歳の長女にもっと始終会っていれば、話して聞かせてあげたかったのに・・・ 母親は長女が賢いから、長男は頼り甲斐があるから、食事を済ませた後に、のっぴきならぬ事情で外出したのだろう。それも緊急事態にすぐに戻れるような場所にいたようだ。あり得る、これはあり得る事である。まだ、本当の原因は分かっていないらしい。とにかく現時点では、私はふたりの少女が無事に昇天する事を祈る。
この時期には珍しく強い風は一日中吹いた。あたかも幼い姉妹の死を悼むと言うより恨んでいるかのように風神の怒りをかった強風があっという間に二人を連れ去ったような気がしてならない。