時間の外  ~since 2006~

気ままな雑記帳です。話題はあれこれ&あっちこっち、空を飛びます。別ブログ「時代屋小歌(音楽編)(旅編)」も、よろしく。

平野の中の駅で、佇む

2012年07月17日 | 

この駅には子供の時に来たきりだった。

その後何度かこの地域を訪れる機会はあったのだが、どれも車での来訪であった。

車で来た時は、駅には近づかなくて、もっぱら目的地に直接行っていた。

駅を経由しないで。

まあ、車だからこそのルートだった。

なので、この駅のその後の風景は、見れずじまいであった。

なので、この駅に関する記憶は、子供の時に見た風景のままであった。

ところが、何十年かぶりにこの駅に来てみたら、記憶とだいぶ風景が違っていたので驚いたものだった。

記憶の中のこの駅の風景は、駅の裏側のすぐ後ろまで里山が迫っており、小さな里山がいくつも連なっている風景だった。

だが、実際には、里山はあるにはあるにせよ、思ったよりも駅からずっと遠くの方にあった。

この写真で言えば、向かって右側のほうに里山が迫っているはずだったのだが・・・。

山そのものが移動したとは思えないので(笑)、もしかしたら別の地域の駅での風景と、この駅の周りの風景がごちゃまぜになっていたのかもしれない。

現実にはこの駅は、平野の中にあった。

辺り一帯は、のどかな田園風景が続き、それはそれで和める風景ではあった。

 

駅舎も、子供の時は、木造の、やや粗末な駅舎だったと思う。

でも今のこの駅舎は、すっかり現代風になっており、駅舎だけならそれこそ都心にあっても違和感は全くない駅舎になっていた。

木造の駅舎というのは、周りの自然風景と実によく調和していたのだが、都会の駅舎のような駅舎だと、どうも味気ない気がした。

 

思うに・・街並みも、駅舎も、近代的になってしまうと、没個性になってしまい、ありきたりのものになってしまい、他の場所との違いがなくなっていくと思う。

まあ、その地ならではの個性を活かしたまま、強度や耐震性などを近代的なものにした場合、その分余計に費用がかさんでしまうのかもしれないが、旅人としては寂しいものがある・・・。

 

 

 


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