時間の外  ~since 2006~

気ままな雑記帳です。話題はあれこれ&あっちこっち、空を飛びます。別ブログ「時代屋小歌(音楽編)(旅編)」も、よろしく。

南総で里見家を想う(南総を旅する 2)

2015年11月20日 | 

私を乗せた「新宿さざなみ」という特急列車は、新宿から一気に館山に向かった。

東京の建物で溢れる風景は、千葉に入ってからもしばらく続く。

だがやがてビルは低くなりはじめ、少しづつ空は広くなっていく。

やがて、窓から海が見えてくるようになると、全体の風景はのどかになっていく。

山も見えてくる。

都心ではビルが多かった風景は、低い民家の風景になっていく。

やがて民家はあまり密集しなくなってくる。

 

千葉には高い山はない。

そんな中でも、鋸山はギザギザの連山で、地面からせりあがった壁のようでもあり、存在感がある。

鋸山・・・昔何度か行ったなあ・・・などと思って鋸山を見てると、ほどなく保田の海が見えてきた。

保田・・・学校の先生も、親も同行しない、友人たちだけで初めて旅した場所だなあ・・などと思うと、とても懐かしい。

 

そしてやがて岩井の駅。この時の私のプランでは、泊る宿は岩井にある。だが「行き」の電車では私は岩井駅では降りない。そのまま岩井駅をやりすごし、館山駅まで行った。

 

 

そして、あらかじめ手配しておいた観光タクシーで、まずは館山城に向かった。

 

 

天気は残念ながら雨。

雨だと、私の考えていたプランは十分にはクリアできないかもしれない・・・そんな予感が胸の中を去来した。

 

 

駅から館山城までは、タクシーだとすぐだ。

館山城のある山からの眺めは素晴らしい。雨で下界の姿は曇っており、遠くまでは見通せない。

それでも、もし晴れていたら、ここからの眺めが素晴らしいものであるだろうことはすぐに分かった。

つくづく、雨がうらめしい。

雨で満足に下界を見渡せないのが悔しいし、もったいない。

 

 

 

 

ひとしきり下界を眺めた後、私は傘を折りたたんで、館山城の中に入った。

城の中が、八犬伝博物館になっているのは下調べでわかっていた。

 

城の中には、八犬伝関連の展示物一色。特に原本らしきものは貫録十分。

フィクションの物語なので、架空の登場人物たちが着ていた服や、鎧や武具などは当然ない。まあ、当たり前ではある。

 

それでも、その架空の世界の中に思いを馳せることはできる。

 

 

 

そして階段を上って最上階へ。そこは回廊になっていた。

ここからの眺めも、晴れていたら絶景であろう。ここでも風景を霞ませる雨がうらめしくなった。

その雨を見ていると、この日のこの後の行程が思いやられた。

 

 

 

 ↑ この景色など、晴れてたら最高であろう。

 

 

↑ 旅先での雨は、無情である。 

 

ちなみに博物館はもう1館あった。それは山を降りたところにあった。

そのもう1館とは、館山市立博物館本館で、ここは八犬伝ではない、実在した里見氏を中心にした博物館。

中では、戦国武将の甲冑を試着させてもらうこともできる。

 

前述の通り、この地を訪れる人は、実在した里見氏と、架空の物語「里見八犬伝」をごっちゃに考えている場合が多い。なので、ここでは、館山城の中の八犬伝博物館と、こちらの館山市立博物館は両方見ておくことを強くお勧めしたい。

館山城の八犬伝博物館で「里見八犬伝」の虚構の世界に思いをめぐらせ、館山市立博物館ではリアルな里見家に思いを馳せる・・・というわけだ。

 

私にとっては戦国時代はお気に入りの時代だし、興味を持った大名のことは文献や映像などで読んだり観たりしてきていた。

だが、里見家に関しては、あまり知らないできた。

もちろん、「信長の野望」などの戦国ゲームのおかげで、里見氏が房総半島の先端部分を支配していたことは知っていた。

 

だが、ゲームの中では、里見氏は・・・こんなことを書いては失礼だが、けっこう弱小な大名ではあった。

実際、ゲームを、自分が何もせずに「なりゆきをコンピューターに任せる」モードでゲームの流れを見守っていると、里見氏はほどなくして滅ぼされたりしていた。

 

そのたびに、里見八犬伝はあくまでも架空であり、ゲームの中の里見氏は寂しいなあ・・などと思ったものだった。

ゲームだって架空の世界なのだし、もう少し強くてもいいのに・・ぐらいのことは思った。

だが、ゲームは当時の戦力や環境を再現して設定してある以上、仕方ないのかもしれないと思ったものだった。

 

つまりそれほど、当時の里見家をとりまく環境は厳しいものだったということだろう。

 

なんでも、里見氏は関ヶ原の合戦では東軍についたにも関わらず、やがて天下がおさまると、里見の理解者であった大久保忠隣の失脚の際に、その連座で南総の領地を没収され、鳥取の方の領地に配流されたらしい。

しかも、配流された地では、やがて知行も大幅に減らされ、結局里見家は滅亡したらしい。

 

考えてみれば、気の毒な運命としか言いようがない。

 

これは、南総で里見家が支配していた場所が、皮肉な結果を招いたのだろう。

考えてもみてほしい。南総で里見家が支配していた国は、東京湾の入り口である。

しかも、里見家は水軍を持っていたし、元々は北条家と東京湾の制海権争いをしていた大名だった。

 東京湾での戦いは、慣れていたに違いない。

 

里見がその気になれば、その立地からいって、東京湾を封鎖することもできたのではないか。

もちろん、天下を取った徳川家に対して、里見家がそんなことをしたとは思えない。

里見家は北条家とは争っていたが、徳川とは敵対していないはず。

だが、位置的には、それをやろうと思えばできた立地が領国だった。

元々制海権争いをしていた里見家にとっては、東京湾の入り口の海域は自分らの海だと思っていたことだろう。

江戸に入ってくるためには、どんな船も東京湾を入ってこなければいけない。

そして、その東京湾の入り口を、水軍を持つ里見家が支配していたわけである。

里見家は通行税みたいなものを徴収していたことだろう。

江戸に入ってくる船は、里見家に気を使わなければ、入ってこれなかった・・と考えるのは自然なことだろう。

 

こういうことを考えれば、江戸幕府にとっては、南総を支配する里見家は、なまじ里見家が外様大名だっただけに、領国の位置的に煙たい存在・・と捉えてていたとしてもおかしくない。

たとえ里見家が徳川に従っていたとしても。

徳川としては、東京湾(江戸湾)の入り口である南総は、できれば外様大名には任せたくなかったのだろう。

 

南総を支配することで、その立地で利益を得ていた里見家は、やがてその立地ゆえに、不遇な立場に追い込まれたことになるとは、皮肉な話だ。

鳥取に配流された里見家は、再興の志もあったという。だが、それはついにかなわなかった。

鳥取という場所がどうとかいう問題ではなく、当時の大名にとって、自分が統治していた国を追われるということは、相当な落胆につながったはず。

 

 

そんな不幸な運命をたどった里見家に、同情した人は多かったのではないか。

徳川家に敵対したわけではないのに。

関ヶ原の戦いでは徳川に味方したにも関わらず、里見家のそんな運命は、私とて気の毒に思う。

一説では、滝沢馬琴は、そんな里見家に同情して、南総里見八犬伝を書いたとも言われている。

また、里見忠義が病死した時、側近の8人が殉死し、その8人は「八賢士」と讃えられたという。そしてその「八賢士」をモデルにしたのが、「八犬伝」であるとも言われている。

 

このへんの里見家の事情は、私はこの地にくるまで知らなかった。

八犬伝の舞台となった場所・・ということで、この地に来た私。だが、この現地で私は、実際の里見家のそんな運命を知ることになった。

きっと、そんな人は私だけではないはず。

 

リアルな里見家は滅亡した。だが、その家名は、里見八犬伝が再興させ続けていると、私は思う。

そういう意味じゃ、八犬士は今も里見家のために働いているのだと思う。

 

この旅をするまで、私は里見家には、強い関心があったとは言い難い。

だが、ここにきて、俄然里見家に関して親近感が強まったし、同情心も持った。

もし今、「信長の野望」などのゲームを遊ぶとしたら、最初の君主選びで、私は里見家を選んで全国統一に向かうかもしれない。

 

 

↑ 一時、ハマりまくったゲームのひとつ。

 

 ちなみに、地元では、里見家を大河ドラマに・・という願いもあるらしい。

「里見八犬伝」ではなく、実際の里見家のドラマを。

NHKさん、いかがでしょうか。大河の題材としては、新鮮なのではありませんか?

信長や秀吉や家康なら、これまで何度も大河で描かれてきたけど、里見家はまだ見たことがありません。

 

 


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