初めて知ったときは読めませんでしたね。
「きやたけみさき?」「きやぶみさき?」ってな感じです。
ということで、
沖縄本島南端の喜屋武岬でございます。
1990年代後半までは上記の画像だったはずです。
ここはレンタカーや徒歩やMTBで何度も訪れています。
で、いつのまにかピカピカに塗り替えられていました。
確か2000年代初頭だと思います。
この時はホントに塗りたてホヤホヤでしたね。
喜屋武岬からは東シナ海を一望できますから、
絶景の一言でございます。
晴れた日は勿論のこと、
曇天の荒れた海と波しぶきも迫力があり、
自分はむしろ時化たときの荒ぶる波うち際とか、
そっちのほうがインパクトに残っております。
で、画像を見ればわかると思いますが、
この当時は柵がありません。
だから簡単に岬の下を覗き込むことができました。
落ちたら確実にあの世行きなのに、
バカだから行くたびに断崖のヘリまで進んでは、
下を恐る恐る眺めていました。
現在はちゃんとした鉄柵が設置されてますけど、
危険ですから柵を乗り越えようなんて思わないでくださいね。
また、慰霊塔には「平和の塔」という文字が刻んでありますゆえ、
この場所も非常に悲しい歴史がございます。
興味がある方はググってくださいな。
観光スポットとしてお薦めするような喜屋武岬ですけど、
自分が一番印象に残っているのは喜屋武岬そのものではなく、
喜屋武岬の手前での出来事です。
岬へは喜屋武の集落を通っていくのですけど、
その中心部にあたる喜屋武郵便局の、
隣の商店で休憩していた時のことです。
その時はレンタカーで一気に喜屋武岬まで行ってから、
喜屋武周辺を徒歩で巡っていました。
その途中で休憩しようと自販機で飲み物を買ったのですけど、
備え付けのベンチに40代ぐらいのおっちゃんが座っていました。
タクシーが一台停まっていましたから、その運転手さんですね。
買うだけでその場を立ち去ろうとしたら、
アイスを食べながら話かけてくれました。
自分は戦跡巡りをしているというようなことをしゃべったら、
どうやらその運転手さんは地元の人らしく、
親切に色々なことを教えてくれました。
地元の人の話って、ものすごく貴重なのです。
そこに住んでいる人しかわからない情報が得られますし、
戦跡巡りをしていた時は、
自分からは特に話しかけようとはしませんが、
むこうから話しかけれれた時は必ず聞いていましたね。
まぁ…必ずしも有益な情報ではありませんが、
それはそれで聞いていて飽きなかったのも事実です。
その運転手さんからは、
喜屋武やその周辺の「一家全滅」になった場所や、
「佐藤中尉の壕」がどこどこにあるから行ってみなとか、
そのようなことをいろいろ教えてくれましたね。
いつの間にか自分もベンチに座って聞いていましたよ。
中でも一番印象に残っているは、
ひめゆりの資料館についてです。
「あそこの人はみんな女優さんだからな」と言ったとき、
自分は「えっ?」っていう感じで、
どういうことかサッパリわかりませんでした。
その当時は何度も何度もひめゆりの塔や、
隣接する資料館に足を運んでいましたけど、
いきなり「女優さんだね」なんて言われても、
ホントに理解できませんでしたよ。
「あの人たちはね、説明をするたびに泣くんだよな」
「でもな、その人たちに聞いてみな。何年生でどこの所属だったかをさ」
「答えられないんだよな、ひめゆりの人じゃないから」
と、このようなことを言っていましたね。
要するに、資料館のなかでガイドや説明する人は、
生き残りではないのにもかかわらず、
説明するたびに泣いていて、
それを毎日繰り返しているということなんだろうと思います。
だから運転手さんにとっては「女優さん」なんです。
「そうなんですかぁ~」ぐらいしか返事ができませんでした。
実際、ホントにそうかどうかわかりません。
1990年代当時、その資料館では元ひめゆりの方々が、
ガイドや説明をしていたのは知っていましたし、
自分もその方々を見たことがあります。
また、学芸員やスタッフの人がガイドをしていたのも覚えています。
現在も同じじゃないのかなとは思います。
ただ、元ひめゆりの方々は、
やっぱり高齢化が進んでいるでしょうから、
その頻度は少なくなっているのではないでしょうか。
ここ最近は沖縄さえ行っていないのでわかりませんが…
しかし、泣いて説明している場面に遭遇したことがありませんから、
どうでしょうね…
かといって、わざわざ嘘をついているとも思えませんし…
その時は苦笑いしかできませんでしたね。
今となっては懐かしい思い出です。