空と無と仮と

渡嘉敷島の集団自決 誰も知らない「兵事主任の証言」②

曖昧な前提条件①

 

 兵事主任の証言が特定の条件さえ揃えば、1988年以前にも存在したということを前回は提示しましたが、具体的にどんなものかというものを以下に列記し考察してまいります。

  •   話したことがあれば、という条件
  •   書いたことがあれば、という条件
  •   聞いたことがあれば、という条件

 

 「話したことがあればという条件」についてですが、前回取り上げた「ある神話の背景」の曽野綾子氏と元兵事主任が面会したという出来事において、元兵事主任が曽野氏に今回の主題でもある証言を披露したことを証言しております。重複になりますが「ある神話の背景」の出版年は1973年であり、取材当時ということですから、少なくともそれ以前の出来事であるということは確実であります。

 しかし曽野氏本人によれば元兵事主任と会った記憶がなく、手榴弾云々の件についても知らないばかりか、他の村民から聞いたことがないという証言があります。

 それに対して元兵事主任は曽野氏と2~3回面会して、その時に手榴弾云々の話をしたそうです。

 つまり、「会った」「会わない」や「言った」「言わなかった」といった、結局は本人同士しかわからないというような、決着をつけられない水掛け論に終始している状態です。

 

 仮に「会ったか会わなかったか」という問題が決着したとしても、「言った」「言わなかった」ということまでは、本人以外の第三者にはわかりようがありません。特に2019年という、1988年からすれば30年前のこと、1973年以前ならば45年以上の前の話でありますから、年月の経過により記憶違いや勘違い、あとから得た情報による混乱等といったものが多々存在していることを考慮すれば、尚更わからないという状態かもしれません。

 曽野氏はご存命ですが兵事主任は既に亡くなっておられる以上、第三者からすれば水掛け論から脱却することが、ほぼ不可能ではないかと思われます。

 

 あとに残されたことは、どちらの証言を「信じるか」という、個人個人が持つ感情論しかありません。

 曽野氏を信じるのであるならば元兵事主任が記憶違いをしているのか、あるいは意図的な創作だったことを主張することが可能です。

 元兵事主任を信じるのであるならば曽野氏が記憶違いをしているのか、あるいは「ある神話の背景」から、意図的にその証言を排除したということになります。

  しかし、ここで確実にしなければならないのが、「信じるか信じないか」ということは、「事実であるか否か」とは全く関係がないということです。

 上記の水掛け論によって、「事実か否か」ということに終止符を打つことが不可能なのは自明の理ですが、だからといって「信じる方を事実とする」ということは、単なる偏見にすぎません。

 

 これをわかりやすい例え話にすると、万引きをしたと噂されたAさんがいます。本人はそれを否定しましたが、噂を聞いたBさんは偶然会ったCさんに噂話をしました。

 この時BさんはCさんになんて言うのでしょうか。

 Aさんに好印象や良い感情を持っていれば、「その話は嘘だ」「あの人はそんなことをするはずがない」と、万引きの事実が不明にもかかわらず擁護するでしょう。それとは逆にAさんには悪い印象や悪感情を持っていれば、事実が不明であるのに同じような擁護をするのでしょうか。

 これを読んでくださっている方がBさんの立場になった場合、どういうことをCさんにお話しなさるのでしょうか。「あいつだからやりかねない」ということをお考えになるでしょうか。

 もう一度繰り返しますが、万引きしたかどうかは全く不明で、本人もそれを否定しているという前提条件の例え話です。

 

 現在において「曽野氏が嘘をついた」「元兵事主任が嘘をついた」ということをむやみに喧伝することは、真偽不明な噂に過ぎないことやものを、あたかも事実だと称して言いふらす行為と同じで、事実を無視した単なるデマゴーグの何ものでもありません。

 曽野氏や元兵事主任といった、個々人への悪感情や個々人の考え方に嫌悪感があったら尚更で、まるで火がついたように熾烈となり、最終的には学術研究を逸脱した無意味な誹謗中傷にしかなりません。

 つまり曽野氏を信じるという前提での主張と、元兵事主任を信じるという前提での主張は、お互いの悪口を繰り返しているだけであり、集団自決の実像を解明することには何の役にも立たない無駄なことだということです。誹謗・中傷・罵詈・讒謗は、それを発した人のストレスを解消するだけの効果と、発された人にストレスを与えるだけの効果しかありません。

 

 個人的見解ではありますが、上記のような行為をしている論調やスタンスがもしあったなら、たとえ有名な小説家であっても、高名な学者や大学教授であっても悉く無視します。

 

 話を「話したことがあればという条件」について戻します。

 

 上記のような水掛け論を脱却しない限り、条件として位置づけすることに対して、少なからずの抵抗感があるのが個人的な見解であります。脱却しない限りとはいっても、それは調べようがないという、非現実的なことであることも付言しなければなりません。

 そしてこのような状態で「信じる・信じない」という不毛な議論へとスライドさせてしまえば、集団自決の実像解明への道のりが遠くなっていくだけと思われますが、皆さんはどう思われるでしょうか。

 

次回以降に続きます。

 


 

参考文献

 

別掲 『現代史の虚実』

別掲 『裁かれた沖縄戦』

別掲 『ある神話の背景 沖縄・渡嘉敷島の集団自決』


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