空と無と仮と

渡嘉敷島の集団自決 誰も知らない「兵事主任の証言」③

曖昧な前提条件②

 

  •  話したことがあれば、という条件
  •  書いたことがあれば、という条件
  •  聞いたことがあれば、という条件

 

 兵事主任の証言が特定の条件さえ揃えば、1988年以前にも存在したということを考察しております。前回は「話したことがあれば」という条件でしたが、今回は「書いたことがあれば」についての条件です。

 

 「書いたことがあれば」という前提条件ですが、ここで取り上げている兵事主任の証言が1988年以前に他の文献等で掲載されているか、あるいは考察されているかということです。

 これは「誰も知らない」兵事主任の証言が流布されていたかどうか、もっと具体的にいえば他の人に共通的な事実として既に知られていたか、ということにもつながります。したがって無視することもできない、看過もできないものであると思います。

 

 1988年以前にも既に知られていたと主張するのは、沖縄国際大学名誉教授の安仁屋政昭氏です。当ブログでも幾度もなく安仁屋氏の文献等を引用し、参考文献として掲載しておりますし、渡嘉敷島の集団自決だけではなく、沖縄戦全般に関する著作等でご存知の方もおありでしょうから、経歴等は省略いたします。

 

 ではその安仁屋氏が一体どのように主張されているかというのを、「裁かれた沖縄戦」から以下に引用させていただきます。

 

「(原告代理人=弁護士の発言──引用者注)この乙第一二四号証(嶋津与志「沖縄戦を考える」を指す──引用者注)の二一六ページ、先程の御証言の中で、渡嘉敷島のいわゆる集団自決の事例について御証言がございましてけれども、曽野綾子氏の著作に触れて、(中略)赤松隊長によって集団自決が命令されたのだという事実がなかったのではないかということを立証されたという文章がございます。(中略)この点について証人はどのようにお考えになっているのでしょうか。

(安仁屋氏の発言──引用者注)二点ありますね。一点は、曽野綾子さんが、「ある神話の背景」(原文ママ)という本の中で、(中略)あの本を読む限り、立証されているとは思いません。(中略)私自身、渡嘉敷村史の編集を担当しておりまして、一九七二年以来の調査で言いましても、二〇年近い調査活動をやっている中で曽野綾子さんの説をくつがえすだけの反証は出てきております。(中略)兵事主任の証言を得ていることは、決定的であります。これは、赤松部隊から、米軍の上陸前に手榴弾を渡されて、いざというときには、これで自決しろ、と命令を出しているわけですから、それが自決命令ではないといわれるのであれば、これはもう言葉をもてあそんでいるとしか言いようがないわけです。(中略)

(原告代理人=弁護士の発言──引用者注)その、兵事主任の証言というのは、渡嘉敷村史に収録されているということですね。

(安仁屋氏の発言──引用者注)はい、渡嘉敷村史にも収録されておりますし、私が二年か三年前に書いています地方史研究にも書いておりますし、(中略)多くの人がそのことは書いてあります。」

 

 「裁かれた沖縄戦」というのは1988年に行われた、いわゆる家永裁判である第三次教科書訴訟の、裁判記録を中心に書籍化したものであり、発行年は翌年の1989年になります。

 第三次教科書訴訟の沖縄出張尋問における上記の証言は、「裁かれた沖縄戦」によると1988年2月10日に行われたということです。朝日新聞に掲載された兵事主任の証言は同年の6月16日の夕刊ですから、新聞に掲載される4か月前の裁判記録だということになります。

 

 安仁屋氏の証言を要約しますと、

 

  1. l  渡嘉敷村史の編集を担当
  2. l  1972年以来の調査でも曽野氏の著作への反証がある
  3. l  兵事主任の証言は渡嘉敷村史にも掲載されている
  4. l  自らも数年前から兵事主任の証言を論文等に複数書いた
  5. l  他の人も兵事主任の証言を既に取り上げている

 

 といったことになると思います。

 

「渡嘉敷村史にも収録されております」というのは「渡嘉敷村史 通史編」と「渡嘉敷村史 資料編」という二種類がありまして、安仁屋氏は両方の編集を担当しているということになります。

 そして「渡嘉敷村史 通史編」には兵事主任の証言が掲載されており、内容については当ブログ①の冒頭で提示したものと一致するので、ここでの引用はいたしません。

 また渡嘉敷村という自治体から発行されたという体裁から、兵事主任の証言の事実認定が、公式見解という立場で認められたようなことになっています。

 

 しかしながら秦郁彦氏の「現代史の虚実」によりますと、「渡嘉敷村史 通史編」は出版年が1990年であり、1987年出版の「渡嘉敷村史 資料編」には掲載されていないということです。つまりこの時点でも1988年以前の資料がないというわけです。

 ただし「渡嘉敷村史 資料編」には、厳密にいうと似たようなことが書かれているのも事実ですので、以下に引用いたします。

 

 「すでに、上陸前に、村の兵事主任を通して軍から手りゅう弾が配られており、(中略)自決をするように指示されたといわれている」

 

 1987年出版の「渡嘉敷村史 資料編」ですから、これで初めて1988年以前のものが出現したということになります。

 ただ気になるのが「指示されたといわれている」ということで、「渡嘉敷村史 通史編」や朝日新聞に掲載された記事のような具体性が全くありません。

 

 しかも1987年出版の「渡嘉敷村史 資料編」には兵事主任と同一人物の証言が、当事者証言集の中に入っているにもかかわらず、役場前での手榴弾云々に関することは一切証言していないばかりか、集団自決に関するものも証言しておりません。内容としては1944年(昭和19年)10月10日の空襲に関することだけです。

 

 1990年出版の「渡嘉敷村史 通史編」には「この事件については重大な事実が明らかになっている。すでに米軍上陸前に、村の兵事主任を通じて自決命令が出されていたのである。」と前置きし、事の重大性を主張した後に兵事主任の証言を掲載しています。

 転じて1987年出版の「渡嘉敷村史 資料編」は上記の通り、「指示されたといわれている」といった曖昧な表現で、尚且つ元兵事主任が証言しているのは、役場前での手榴弾云々には全く触れず、10月10日の空襲についての証言だけが掲載されているということです。

 

 しかし、秦氏の主張によると「渡嘉敷村史 資料編」初版には上記の引用文はなく、「誰が自決を指示したかは不明」となっていたということです。

 つまり「不明」だった自決命令が、「村の兵事主任を通して軍から手りゅう弾が配られて」自決命令が出たと、書き換えられたということになります。

 

 秦氏の主張が正しいのであれば、この時点では1988年以前の資料がないということになります。

 

 「裁かれた沖縄戦」によれば「私が二年か三年前に書いています地方史研究にも書いております」といことですので、安仁屋氏は既に兵事主任の証言を知っていて、かつ「地方史研究」等にも掲載されているという主張がなされています。つまり1988年以前にも存在していたということになります。

 それがどのようなものか、具体的なものを考察するため、「裁かれた沖縄戦」から以下に引用します。

 

 「(指定被告代理人=弁護士の発言──引用者注)それから、先生、それ以前にも、二、三年前にも自分でお書きになったとこうおっしゃっていますけれども、これは、いつ、どういう論文かなんか。渡嘉敷村史以外に、なにか、

(安仁屋氏の発言──引用者注)ちょっとお待ちください。私の意見書の最後に添付してある経歴書から申しあげます。

 

 後に提出する甲第二九五号証を示す

 

(安仁屋氏の発言──引用者注)「四、主な著書・論文等」のところに──これがすべてだという意味じゃありませんよ。

(指定被告代理人=弁護士の発言──引用者注)いや、一つだけで結構です。さっきの、二、三年前におっしゃった。

(安仁屋氏の発言──引用者注)11です。「地方史研究」一九七号──これは東京で発売されている全国誌です。「沖縄戦四〇年と県民の心」。たとえば、それです。

(指定被告代理人=弁護士の発言──引用者注)それは何年でございますか。

(安仁屋氏の発言──引用者注)………もう三年前ですかな。

 

 甲第二九五号証というのは、安仁屋氏の略歴等が記載された意見書のことのようですが、その中に「主な著書、論文等」があり、1から19まである著作・論文等の中の11番目に提示してあるのが、1985年に発行された「地方史研究」197号に掲載された「沖縄戦四〇年と県民の心」ということです。

 

 当の本人である安仁屋氏が指定したという論文になるのですが、ここに兵事主任の証言が掲載、あるいは言及されていれば、「地方史研究」197号の発行年が1985年ですから、1988年以前にも存在していたという紛れもない事実にもなります。

 

 それでは「沖縄戦四〇年と県民の心」から、渡嘉敷島の集団自決に関するものだけを以下に引用させていただきます。

 

  1. 「二十七日には渡嘉敷島に上陸、二十九日には慶良間諸島全域をほぼ手中におさめた。軍民は混乱状態で山中に避難した。山中では飢えと熱病のもとで住民は八月下旬まで日本軍の監視のもとに置かれていた。渡嘉敷・座間味・慶留間の島々では凄惨な集団自決が発生し数百人が死んだ。」
  2. 「人びとの絶望感を醸成する「自決の事前教育」と軍の論理が結合し、地元の指導者たちを督励して、場合によっては事前に手りゅう弾など配っておいて、自決の場面となるのであろう。」 
  3. 「移民地の調査を通して、沖縄戦にかかわることがらもたくさん出てきている。たとえばケラマ諸島の渡嘉敷島で集団自決を強要したといわれる赤松大尉が、フィリピンでゲリラ討伐隊長として沖縄県出身者を通訳に使い、さまざまの残虐行為をしたこと、(後略)」

 

 

 安仁屋氏本人が指定した「沖縄戦四〇年と県民の心」は、73ページから84ページまでの比較的短い論文ですが、渡嘉敷島の集団自決に関するものは上記の3項目しかありませんでした。

 

 最初に言及しなければならないのが、ここでは兵事主任の証言が全く取り上げられていないことです。

 次に兵事主任の証言と関連性がありそうなのは、「場合によっては事前に手りゅう弾など配っておいて」という箇所だけです。

 しかしながら、初版が1950年の「鉄の暴風」には「住民には自決用として、三十二発の手榴弾が渡されていたが」と、集団自決をする前から既に手榴弾が住民たちに手渡されていたことに言及しております。したがって、兵事主任の証言と関連性があるのかどうかについては、これだけでは不明としかいいようがありません。

 

 「沖縄戦四〇年と県民の心」と兵事主任の証言には、第三者からすると関連性があるのか否かという判断がつかないのです。「事前に手りゅう弾など配っておいて」が兵事主任の証言そのものなのか、あるいはそれを元にしたかどうかについては、執筆した当の本人である安仁屋氏にしかわからないということです。

  

 つまり、たった一人の当事者である安仁屋氏の主張によって、どうにでもなるということであります。第三者からすれば1988年以前かどうかという問題が、結局は曖昧になってしまうという状況のまま、いつまでたっても決着がつかないということになるのです。

 

 あとに残るのは安仁屋氏を「信じるか信じないか」ということになってしまいますが、前回も指摘した通り「信じるか否か」と「事実か否か」は全く関係ない事柄であり、リンクもシンクロナイズもしないものであります。

 前回は当事者同士にしかわからない事柄でしたが、今回は当事者だけにしかわからないという事柄です。したがって「事実か否か」が考察できない以上、このまま追求することはいたしません。

 

 ここで確実に言えることは、安仁屋氏が兵事主任の証言を決定的な証拠として事実認定し、それによって自らの主張を展開し継続していることです。

 それに対し兵事主任の証言の存在自体に曖昧さがあり、それを払拭できないゆえに少なからずの疑問がある、ということを提示しなければなりません。

 

 さて、皆さんはどう思うでしょうか。

 

 次回以降に続きます。

 


 

参考文献

 

渡嘉敷村史編集委員会編 『渡嘉敷村史 資料編』(渡嘉敷村 1987年)

渡嘉敷村史編集委員会編 『渡嘉敷村史 通史編』(渡嘉敷村 1990年)

地方史研究協議会編 『地方史研究 第197号』(地方史研究協議会 1985年)

別掲 『裁かれた沖縄戦』

別掲 『現代史の虚実』


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