1.衆院予算委員長の中曽根 康弘は、GHQ軍事占領が終わったすぐの1953年、突如渡米。米国内の原子力関係者と緊密な関係を築く。
12月 米アイゼンハワー大統領は国連演説で「平和のための原子力」開発を宣言。54年2月、同大統領は、日本への核物質および技術供与を表明。
これと機を一に、中曽根 康弘は二億三千500万円の破格な原子力開発予算を強引に成立させる。(注記:この年の一般会計予算は1兆円)
このとき、科学者は3.11を予言する批判を展開する。
(1)高松棟一郎(東大新聞研究部):議員のうち何人がこの問題を正確に理解し、認識をもっているか疑問ーーーー
(2)三宅康夫「死の灰と闘う科学者」岩波書店:軽はずみの決定が連鎖反応を呼び、次第に大事になるーーー
(3)武谷三男:わけのわからぬ恰好で原子力予算を出すにのは非常に奇怪
また、暗躍したのが、A級戦犯で原子力との取引で釈放され、衆院議員となり、初代安全委院長、読売新聞社主の正力松太郎。
(出典:船瀬 俊介著「原発震災が大都市を襲う」2011年5月31日、徳間書店)
2.当時、唯一実用段階であった、英のコールダーホール炉を東海第一原子力発電所に導入。
以上の経緯を見ると、原子力の出自が国民のためと無関係であること、どのようにして唯一の被曝国である日本に易々と導入されたかの、ほんの一端が分かる。