蟷螂は高校生の頃、毎夏、親父の釣りのお供で伊豆大島へ行きました。
船宿は忠兵衛丸。
ま、船長の二人の息子のお相手ですね。
ある夏、親父が蟷螂を座敷へ呼びました。
釣り宿などは宿泊施設などいい加減、蟷螂などは犬並みの扱いで、プレハブ部屋でのメシでした。
お呼ばれした12畳間の中央には座卓が置かれ、鍋がグツグツ音を立てて煮えたぎっています。
真夏なのに鍋かよ!超変人?
そして床の間を背にして、浴衣の前をはだけた爺さまが、真っ昼間から鍋をつついて酒盛りの最中です。
『オイ』
蟷螂の横に正座した親父が、肘で脇腹を小突き、蟷螂の居住まいを正させます。
『え?』
『林先生だ』
コップ酒を口に運んでいる林先生と呼ばれた爺さまは、浴衣姿もだらしなく、釣り宿の女将さんが、
『アレェ、先生、◯◯タマハミ出てるよ』
と笑い転げていたのは、蟷螂が18歳の夏のことでした。
鍋の中身はごまフグ、
『先生、あんまり食べすぎると体に良くないって』
と女将さんに窘めれられても、
『いいんじゃ、毒があるものほど美味いッ』
と言って、鍋のフグを蟷螂にも勧めたので頂きました。
『君はもう酒は・・・いいか』
蟷螂はビールをひと口ゴクリ。
林先生の酌で。
先生のロレツはあまり回っていませんでした。
その先生の名は林房雄、戦前はプロレタリア作家、雑誌『文学界』の創刊者の一人です。
当時蟷螂はアルチュールランボーかぶれ、林房雄の本なんか読めるか的な生意気盛り、2、3回ご相伴に預かりましたが、文学の話は一切なし。
常に鍋が先生の前にあったことだけは覚えています。
そのころ蟷螂の実家はフグ料理屋でした。
ただしごまフグは流石に扱っていなかったはずです。
忠兵衛丸にはその他も開高健なども出入りしていましたが、親父は『お高く止まってるやつだよ』と、嫌っていました。
また、ボディガードを二人引き連れた右翼の大物YKも。
YKの二人のボディガードは、懐に絶えず右手を入れていたそうです。
そして月日は流れ、蟷螂が大学生になり、学生運動で休講になったことをいいことに惰眠を貪っていた昼、家政婦のオバさんに、『蟷螂ちゃん、三島なんたらいう人がテレビで騒いでいるよ』と知らされてベッドからガバと跳ね起きたのは、20歳の誕生日も間近な晩秋のことでした。
三島由紀夫が陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹自決のニュースは詩的蟷螂の心を少し揺さぶりました。
18歳のあの夏、林先生のことを、もう少しよく知っていたら、ひとこと聞いていたのに、残念です。
『先生、三島由紀夫さんはどういう人ですか?』
きっと、林先生はコップ酒を一口のみ、
『ん・・・いいオトコだよ』
と、呟くように言ったかもしれません。
伊豆山の山荘に幅1.5メートルほどの扁額があり、親父の釣った尾長鯛の魚拓に、林先生が即興で詠んだ歌が墨痕鮮やかに添えられています。
親父が釣り上げた尾長鯛の魚拓を一瞬睨み、筆に墨を含ませるとサラサラと、親父の目の前で書き上げたそうです。
紅の新月に似たる尾をもちて
いよよはしけやしこの尾長鯛
林房雄
釣者
蟷螂父
三島由紀夫割腹事件と富士山
https://blog.goo.ne.jp/kikuchimasaji/e/de6e29b880f996a7af682e64936cc6a0