国鉄があった時代blog版 鉄道ジャーナリスト加藤好啓

 国鉄当時を知る方に是非思い出話など教えていただければと思っています。
 国会審議議事録を掲載中です。

国鉄労働組合史 223

2011-07-07 10:00:00 | 国鉄労働組合史
にほんブログ村 鉄道ブログ JR・国鉄へにほんブログ村
この記事が役に立つと思われましたら、クリックをお願いします。 


 ランキングに参加
しています。


/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

第四章 JR体制への移行と国労の闘い

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽
第五節 JR体制下での賃金・労働諸条件をめぐる取り組み
∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽

一 JR各社の就業規則と労働協約

民間会社になって初のストライキ実施

 さて、九州エリア本部をのぞきこの時に締結した労働協約は、いわば暫定協約であって9月30日が有効期限であった。そこで国労は8月25日、JR各社に対し労働協約改訂の要求書をいっせいに提出し、交渉を精力的に重ねた。しかし、JR各社は現行協約の基本部分はいっさい変更しないばかりか、争議行為についてさらに制限を加える内容の改定案を提示するなど、国労側の意見を聞き入れるという姿勢はまったくみられなかった。そのため一0月一日以降については労働協約を締結するにいたらず、「無協約」でたたかいを継続することになった。一一月に入り、国労はこの協約改訂闘争のなかで指名スト(計63人)、さらに二波にわたる全国統一闘争にとりくみ、JR発足後初のストライキ闘争を闘った。そのおなかで西日本本部は、不当配転抗議の初の時限ストも実施した。
 一2月になり、国労側の組織整備が不十分なこともあって、「無協約」を利用した会社や鉄道労連(JR総連)による組織攻撃の影響があらわれ、次期協約改定期に向けた長期的視野にたって今時協約闘争を集約ことにし、一2月一8日、中央本部は

①各エリア本部は今日までの交渉にもとづきその到達点を労使間で確認すること、
②協約の整理は一2月中に行うこと、
③会社側から逆提案などがある場合は明確に拒否し本部と提携して対応すること、

などを指令した。しかしこの間、JR東日本は労働協約を調印する前提として「分会事務所の明け渡し」という逆提案を行い、そのうえ9一カ所の分会事務所明け渡しと賃貸料相当額(一億一000万円)支払いを求める訴訟を提起してきた。
 こうして、債務的部分しかもたない現行協約を再締結し、さらには悪名高い就業規則を協約化しようという会社側の意図は見え見えで、一987年度の協約闘争は東日本と九州で締結にいたらず、会社側の攻撃や対応の違いもあって国労内に協約締結エリアと無協約エリアができた。しかし、国労中央本部はこの事態を次のようにとらえ、就業規則の改正も含めた労働条件の改善要求、さらに労働協約要求を団交範囲・団交単位など最小限に絞り込んで職場討議をつみあげ、無協約も辞さずたたかいつづける方針であった(一988年度運動方針)。
  「協約締結エリアの場合のプラス面は専従の確保、組合事務所・掲示板の確保等であり、マイナス面は団交及びストライキが制約されること等である。他方、協約無締結エリアの場合のプラス面は団交が制約されず、労組法にもとづき地方本部でも行えるとともにストライキの制約もうけないことであり、専従は『指名スト』によりカバーできるし、組合事務所も守っているし、マイナス面はほとんど克服できている。この協約締結・無締結によるプラス面とマイナス面と併せて、次のような事態についても確認することが必要である。
 ① 協約無締結エリアにおいては、鉄道労連等他組合からの悪質な『国労は協約がなく、団交も"協約"もできない』との攻撃にもかかわらず、組織的動揺や脱退などの影響までは及んでいない。
 ② 東日本会社の東京地本に対する組合事務所明渡訴訟は異常であり、直ちに解決できる状況にはない。
 ③ 会社側の思惑(狙い)どおり、仮に現在の就業規則を労働協約として締結した場合は、地労委闘争どころか、現時申立てているものさえ取り下げざるを得ない事態となる。」
 なお、この時期の国労の労働条件改善闘争のなかで職場ごとの「緊急・重点要求」としてかかげた「八大要求」は、次のような内容であった。
 一、増収・クリーンや自主的という名のただ働きをやめさせ、働いた時間の賃金を必ず支払わせよう。
 二、病気で休めば賃金カットという非人間的なことをやめさせ、私傷病欠勤を有給にさせよう。
 三、健康を守り、人間らしく生活設計がたてられるように、勤務の一方的変更をやめさせ、労働基準法にもとづき、勤務を特定化させよう。
 四、仕事上のケガは、すべて労働災害にさせよう。
 五、"命令と服従"の専制的職場管理をやめさせ、明るい職場にさせよう。
 六、利用者の安全とサービスを守り、労働者の安全・健康を守るための必要な要員を配置させよう。
 七、本人の同意なしの強制的配転や出向をやめさせよう。
 八、乗車証を全社の社員に出させよう。

続く
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国鉄労働組合史 222

2011-07-06 10:00:00 | 国鉄労働組合史
にほんブログ村 鉄道ブログ JR・国鉄へにほんブログ村
この記事が役に立つと思われましたら、クリックをお願いします。 


 ランキングに参加
しています。


/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

第四章 JR体制への移行と国労の闘い

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽
第五節 JR体制下での賃金・労働諸条件をめぐる取り組み
∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽

一 JR各社の就業規則と労働協約

労働条件条項のないJR各社提案の労働協約と国労要求案

 新就業規則は、4月1日のJR各社の発足から1カ月の間に労基法上の手続きを経て発効することになるが、他方、この4月1日以降JR各社は、各労働組合に労働協約案を提案してきた。これに対して鉄道労連(JR総連)各単組および鉄産総連各単組は、ただちに会社提案通りの内容で新協約を締結し、国労は各エリア本部に団体交渉権限を委譲し、中央本部とエリア本部が一体となって協約締結交渉をすすめた。
 JR各社が提案してきた労働協約案は、第1章総則、第2章組合活動〔第1節就業時間中の組合活動、第2節専従者、第3節組合による企業施設の利用〕、第3章経営協議会、第4章団体交渉、第5章紛争処理〔第1節平和条項、第2節争議条項〕、第6章苦情処理、第7章簡易苦情処理、第8章付則の全92条からなっていたが、その特徴は、会社と労働組合との関係を規定したいわゆる債務的部分しかなく、職場の労働条件などを規定した規範的部分はいっさい含んでいないということであった。
 そのうえ紛争処理の章では、協約上の「平和義務」をわざわざ規定するとともに、「協議または交渉を経なければ争議行為を行わない」とか、「組合が争議行為を行う場合には、日時及び場所並びに争議行為の概要を10日前までに、また、争議行為の目的、形態、規模、日時、期間及び場所等の具体的かつ詳細な内容をその72時間前までに文書もって会社に通知しなければならない」などの労働組合側の手足を縛る平和条項や争議予告条項が規定されていた。
 たしかに、提案協約案のなかに団体交渉事項として賃金・賞与及び退職手当の基準や労働時間・休憩時間・休日及び休暇の基準等があげられていたが、しかし少なくともJR各社発足時点では、国鉄職員の全員解雇と新会社等への「採用」という形式を経過することによって具体的な労働条件等は会社側で一方的につくった就業規則で規律し、しかも従前の労働条件を大幅に切り下げての発足だったのである。
  すでに国労は、JR各社発足前の3月27日、創立総会を終えた各新会社に対し基本労働協約の締結を求めて団体交渉の申し入れを行っていた。その国労提案の基本労働協約案の骨子は次のようなものであったが、いわゆる平和条項的なものはもたず、債務的部分しかない会社提案の協約案とはかなりの違いがあった。

国労提案の基本労働協約(案)

 1 団体交渉に関する協約は交渉して別に定める。
 2 昇給、昇格・降格、昇職・降職、出向、転勤、派遣、異動、休職等に関する事項は、この協約に基づいて交渉してきめる。
 3 職制、勤務、賃金、退職金、労働安全、労働衛生、福利厚生等、その他労働条件に関する事項は交渉してきめる。
 4 会社側が定める諸規則、就業規則の細部について制定・改廃するときは、労働条件に関する事項は交渉してきめる。
 5 会社と組合は、この協約を遵守し、企業の民主的にして健全なる発展と従業員の労働条件の維持・改善、その地位の向上をはかるために努力する。
 6 懲戒の基準及び解雇に関する事項は、別に交渉してきめる。
 7 会社は、組合員の組合活動の自由を認める。したがって、正当な組合活動に干渉せず、また組合活動をしたことを理由とする直接・間接のいかなる不利益な取り扱いもしない。
 8 組合活動は原則として時間外とする。ただし、次の各号の一に該当する場合は、別に定めるとおりとする。
  1 労使間の各種会議(団体交渉を含む)
  2 各級機関の諸会議
  3 会社と合意した組合の諸行事
  4 その他
 9 会社は、組合より申し出のあった場合には、組合業務の専従者としてこれを認める。
   専従者は社員としての身分を保有し、専従期間は無給休職とする。ただし、福利厚生、施設の利用、見舞金等の支給その他、会社が社員に与える利益の供与及び勤続年数、退職金の計算については、休職の取り扱いをしない。
 10 専従者の数は別途交渉してきめる。
 11 組合が専従を解除し会社に届け出た場合は、元職場に速やかに復帰させる。その際、不利益な扱いしない。なお、細部の取り扱いは別途交渉してきめる。
 12 専従期間中の昇給・昇格は行わないが、復職の際に別の定めにより取り扱う。
 13 会社は、組合が組合活動のために会社の施設等の利用を申し出た場合は、原則としてこれを認める。
 14 組合事務所、掲示板等の供与については、別にさだめる。
 15 会社は、組合及び組合員の政治活動の自由を妨げない。
 16 会社は、組合員が公民権を行使し、政治活動を行い、または公職につくこと及びそのために立候補することを認める。ただし、次の場合は退職するものとする。
  1 国会議員 2 国務大臣 3 各首長に当選・就任した場合。 
 17 会社は、職場慣行の変更については組合と交渉して行い、一方的に行わない。
18 組合は、争議行為の実施にあたっては輸送の安全確保上最小限度における保安要員を配置することとし、その範囲については別に定める。
 19 会社は、争議行為中であっても、組合の申し入れがある場合は誠意をもって団体交渉を行う。
 20 会社は、組合の争議行為に対して代替要員の配置等スキャップ行為は行わない。
 21 この協約の解釈・適用について疑義が生じた場合は、交渉して解決する。
 22 労働協約の更新・改廃・延長については、有効期間満了の3カ月前に労使いずれか一方から相手側に文書をもって通知し、交渉をする。
 なお、協約期間満了期日までに合意に達しない場合は、有効期間を90日間自動延長し、交渉を継続する。
 23 この協約の有効期間は1年とする。
 国労はこの基本労働協約案を対置しながら、各エリア本部に団交権を委譲して中央・エリア本部が一体となって協約締結交渉を続けたが、他労組がすでに締結している状況のもとで国労の交渉は難航し、要求は前進しなかった。しかし4月末にいたり、在籍専従者の配置など日常の組合活動の必要性から、九州エリア本部をのぞき会社提案のまま締結せざるを得なかった。しかも協約締結時において、各会社側は国労中央執行委員長名での締結を拒否するなどの嫌がらせの態度に出たが、中央本部はやむなく各エリア本部委員長に協約締結権を委任した。
 
続く
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国鉄労働組合史 221

2011-07-05 10:00:00 | 国鉄労働組合史
にほんブログ村 鉄道ブログ JR・国鉄へにほんブログ村
この記事が役に立つと思われましたら、クリックをお願いします。 


 ランキングに参加
しています。


/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

第四章 JR体制への移行と国労の闘い

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽
第五節 JR体制下での賃金・労働諸条件をめぐる取り組み
∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽

一 JR各社の就業規則と労働協約

従来の労働条件を切り下げたJR各社の就業規則

 1986年12月4日に国鉄分割・民営化=改革関連法が公布・施行され、新会社発足の準備にあたる設立委員会が、六旅客鉄道株式会社、日本貨物鉄道株式会社及び新幹線保有機構など新事業体の労働条件を決定したのは2週間後の12月19日、さらにそれをうけて新会社等の「労働条件の詳細」を国鉄当局が明らかにしたのは翌1987年3月17日であった。これらは、4月1日に発足するJR各社の就業規則として施行されることになるが、その労働条件は国鉄の現行水準をはるかに下回り、労働基準法の趣旨からいっても大きな疑義のあるものであった。
 1987年に入って国労内部の組織分裂の動きが慌ただしくなるなか、新会社等への配属確認、採用候補者名簿の作成、採用通知といった作業がすすめられ、この過程で国労本部は明らかにされた「労働条件の詳細」を中心に解明要求交渉を行ったものの、国鉄当局、政府・運輸省などの対応は「組合側との十分な協議」「国鉄時代の労働条件の尊重」といった参議院付帯決議を無視する姿勢であった。そして実際には「この条件が嫌な者は採用しない」という圧力を背景に労働者に有無を言わせず、これらの労働条件が新会社等への事実上の採用条件として強行された。
 1987年4月1日から実施された新会社等の就業規則は、たとえば東日本旅客鉄道株式会社のものは15章142条、他に出向規程など七規程からなっていたが、その内容は経営形態の変更にもかかわらず全国一貫の鉄道輸送労働に継続してたずさわる労働者の労働条件としては、最低基準を規定した労働基準法からみても多くの問題をもっていた。
 国労は、その特徴と総括的な問題点を大要次のように指摘するとともに、各条項についても、具体的に逐一問題点を指摘した(4月2〇日)。また国労としての「労働条件の改善」要求をまとめ、職場討議におろした。
 ① 勤務の予定・確定、始業・終業の時刻、休憩時間等について一応それぞれの定めはするものの、業務上の必要に応じて  現場管理者がこれを一方的に変更できることとしている。この点、企業側の説明によれば、現場管理者が「弾力的」に対応できるようにしたと述べているが、このように重要な労働条件が現場管理者の判断によってその都度一方的に変更されることは、労基法第15条(同施行規則第5条)の労働条件明示義務、同法第2条の労働条件労使対等決定原則に違反する。なお「業務上の必要」という理由で変更できる事項としては、二つ以上の異なる勤務種別の組合せ、始終業時刻の変更、休憩時間帯の臨時変更、公休日の振替え、特別休日等の予定変更、36協定以外の臨時超勤命令とその義務化、始終業の定めのない監視断続勤務、勤務箇所や労働時間にこだわらない勤務、など。
 また、管理者の都合によって一方的に労働者の担当職務を当該職名以外の職務、あるいは職制等に定めのない業務にまで転換変更できるとの規定があるが、これでは労働者の担当職務はあってなきがごときもので、事実上労働者に無制約かつ広範な労働を課すものとして、本来対等であるべき近代的労働契約のあり方に照らして重大な疑義があり、労基法の趣旨に反する。
 ② 労働時間制度の基本は「4週平均で1週48時間」と定められているが、企業側の説明では、この点「全勤務種別について労基法第32条に基づくものとした」とのべている。これでは「1日8時間労働制」という労基法の大原則(第32条第1項)が消滅して、その例外(同条第2項、変形8時間労働制)がすべての職種についての通則として定められたことになる。そして、24時間を超える勤務種別も新設され、また一昼夜勤務者について従来長年にわたって保障されていた夜間継続4時間の睡眠時間が削減されて、単なる休憩時間として取り扱われることとされている。そのほか、労基法では例外の時間外・休日労働についても、4週平均で週48時間以内であれば所定労働時間内の労働として残業手当・休日出勤手当がカットされることとなるなど、労基法の原則と例外との逆転が顕著にみられる。これに加えて始業・終業の時刻、休憩時間などについて「業務の都合による一方的変更」すなわち「大幅な弾力化」が導入されるなら、労働者の生活と健康に及ぼす影響ははかり知れない。
 ③ 人事について、当該労働者の「自覚」や「勤労意欲」など管理者の主観が大幅に介在する評定項目を定めて差別人事拡大が目論まれ、あわせて不当な配転・出向、休職、解雇などを大幅に自由化する条項が設けられている。
 ④ 勤務時間の内外を問わず企業施設内においては、労働組合バッジの着用(禁止)、集会、ビラなどの組合活動(許可制)、政治活動(禁止)などは全面的な規制を受けることになる。
 これらは、労働者の人間らしく働き、生きるための基本的な諸権利を不法に奪うもので、労働基本権、表現の自由を侵害するものである。
 ⑤ 「休憩時間中の外出についての承認制」「終業時刻後の速やかな退出義務」「報酬の有無にかかわらない二重就業の禁止」「社員証の常時携帯義務」などにみられる労働者不信に裏づけられた管理・監視体制の強化をはかろうとする規定がある。
 これらの規定は、労働者の人格の尊厳、市民としての自由を侵すものであり、労働契約上使用者に許される職場規律上の規制を超えるものであり、職場における労使関係を、組合活動等の全面的規制とあいまって、いわば「監獄的規律」に服せしめようとするものである。
 ⑥ 旧国鉄の就業規則に明記されていた安全綱領が、今回の就業規則から欠落しており、このことはもっぱら企業の利潤を追求しようとするもので、公共輸送の安全という社会的責務を放棄している。

続く
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国鉄労働組合史 220

2011-07-04 10:00:00 | 国鉄労働組合史
にほんブログ村 鉄道ブログ JR・国鉄へにほんブログ村
この記事が役に立つと思われましたら、クリックをお願いします。 


 ランキングに参加
しています。


/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

第四章 JR体制への移行と国労の闘い

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽
第五節 JR体制下での賃金・労働諸条件をめぐる取り組み
∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽

一 JR各社の就業規則と労働協約

 分割・民営化前の国鉄における労使関係は、公労法(公共企業体等労働関係法)適用下にあって賃金をはじめその他の労働条件は一応労使の団体交渉によって決定できる建て前にはなっていた。
しかし、労働組合にはストライキなどの争議行為を禁じており、労働条件の決定はとうてい労使対等決定とはいいがたい仕組みであった。毎年の賃金決定についても、実際には公労委における仲裁裁定によって決まるという関係ができあがっていたが、それすら「予算上又は資金上」を理由に裁定を値切られる場合があった。
国労は細かい労働条件について多くの労働協約を獲得していたが、いわば〝国労つぶし"をねらった国鉄分割・民営化策は「現場協議に関する協約」を破棄し、あるいは長年つづいていた労使協定を更新せず、さらに「雇用安定協約」を失効させて国労組織の動揺を狙った。
 JR各社はその発足にあたって、賃金などの労働条件については、国鉄時代の労働諸条件を切り下げた新しい就業規則の一方的提示という形で受け継ぎ、労使間で合意・締結されてきた労働協約・協定の類は無視した。新会社などへの国鉄労働者の「採用」過程は、配属先希望調査-意思確認-採用候補者名簿作成-採用通知という手順を踏むが、とくに国労組合員に対する選別・差別=不当労働行為は目にあまるものがあり、新労働条件への労働者の意見表明などものかは、「同意」は擬制以外のなにものでもなかった。新会社などにおける賃金・労働時間などの労働条件は、無協約化した労使関係のいわば「サラ地」の上に新就業規則として強行された。

続く
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国鉄労働組合史 219

2011-07-03 10:00:00 | 国鉄労働組合史
にほんブログ村 鉄道ブログ JR・国鉄へにほんブログ村
この記事が役に立つと思われましたら、クリックをお願いします。 


 ランキングに参加
しています。


/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

第四章 JR体制への移行と国労の闘い

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽
第四節 国労組織の再編問題
∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽

二 JR体制下の国労組織と活動

国関労から鉄道関連労へ

 国労をはじめ国鉄に関連した企業などで働く労働者の労働組合が国関労(国鉄関連産業労働組合懇談会)を結成したのは1966(昭和41)年12月26日、その後とくに毎年の春闘などを通じて共闘を強めるなかで「協議会」へと発展し、国関労(国鉄関連産業労働組合協議会)が発足したのは1973(昭和48)年9月10日のことであった。この協議会発足時点での加盟組合は、国鉄労組、動力車労組、鉄道弘済会労組、日本食堂労組、全整労協、国鉄共済労組、鉄建公団労組、帝国ホテル労組、鉄荷労連、新生電業労組、ビュッフェとうきょう労組、弘済食堂労組、国際観光会館労組、弘済サービス食堂労組、都ホテル労組、日本電設労組、(オブザーバー加盟・日本交通公社労組)の16組合であった。以来15年近くにわたって、春闘時の賃上げ闘争だけでなく国鉄関連企業労働者の最低賃金制や雇用安定協定などの締結を求めて中央闘争を展開し、国鉄当局や経営者協会などに交渉をせまった。国鉄当局と経営者協会は交渉当事者能力がないとして要求にこたえようとはしなかったが、個別的には1977年(昭和52)年に本四架橋にともなう雇用確保について運輸省・国鉄当局と全交運・国労・国関労との間で確認事項が締結されるなどの成果も生んでいた。
 しかし、1980年代に入って展開された国鉄の分割・民営化策の推進は、国鉄関連企業の存続すら危ぶまれる状況をつくりだしていた。国鉄の「余剰人員」に名を借りた関連企業の国鉄直営化拡大、出向・移籍などは、国関労内部の矛盾と対立を引き起こしかねなかった。そうしたなかで国関労は、お互いに本音で話し合い、各企業での雇用創出の努力と首切りを許さない闘いに取り組んでいった。
 さて、1987(昭和62)年4月1日の国鉄分割・民営化後の国関労組織のあり方について、国関労各労組の代表者会議、組織検討委員会などが数回にわたって開かれ、最終的には1987年3月5日と6日の代表者会議で、①各鉄道会社との対応を行うために各社に関係する国鉄関連企業の組合ごとに「鉄道関連産業労働組合協議会」を結成する、②現行の中央国関労は、全国的に各鉄道会社、通信・情報会社などの情報収集、宣伝活動、各鉄道会社に対する統一要求統一解決などの全体的な意思統一と闘いの取り組みなどをはかるために存続させる、の2点を決定した。そして、エリアごとの関連労の結成に中央・地方国関労が一致して取り組むことを確認した。しかしこの間、国労へのすさまじい組織攻撃により、国関労組織人員自体も1年間で11万人減員となり、分割・民営化直後の7月末現在で7万人の組織であった。
 1987年10月14日に開いた国関労第15回定期評議会においてその名称を「鉄道関連産業労働組合協議会」(鉄道関連労、3万8000人)と改め、骨子次のような運動方針を決定した。
 ① JR各社の関連企業に対する攻撃は、直営化の拡大、業務量・委託費の削減、企業分割・企業再編などに伴う要員削減など、きびしい攻撃にたいして職場と雇用を守るため団結を固め組織の強化をはかる。
 ② 関連企業のJR各社への直営化拡大攻撃は、ますます鉄道関連労の内部矛盾と対立を深めかねない状況にあり、関係組合間の話し合いと各企業の雇用確保のための運動を強め、首切りを許さないための運動を進める。
 ③ エリアごとの「鉄道関連産業労働組合協議会」(鉄道関連労)の組織化と各地方「鉄道関連労」の再建を中央・地方   が一体になって取り組む。
 1990年代に入り、鉄道関連労の中心組合たるべき国労がJRのなかで依然として少数派組合であり、国関労時代に比べれば加盟組織も加盟人員も激減している。また国労自体の交渉能力の減退によって全体として活動が停滞していることは否めない。そして、鉄道関連労加盟組合のほとんどが東日本および東京に偏在していることである。1992年7月現在の加盟組合は、国労、鉄産総連(92年5月解散)、鉄建公団労組、全臨海労連、整備関連労、全国旅従労、日本運輸倉庫労組、国際観光会館労組、弘栄堂書店労組の9組合で、会費納入人員は合計3万6080人という状況になっている。
 他方、1987年2月に結成された鉄道労連(のちJR総連)は、同年8月に開催した第2回定期全国大会において「全ての関連事業労組の加盟を目指し、鉄道労連をJR関連の一大産別組織として確立する」よう取り組み、将来的には「JR関連一般労働組合」(仮称)の結成を目指すことを決めた。そして国鉄分割・民営化からちょうど1年経った1988年4月1日、鉄道労連準加盟の7組合で「JR関連一般労組連絡会」(4800人)が結成され、鉄道労連としても各鉄道労組が同系列企業労組と連携を強化し、今年度中1万人を目標にJR一般労組への加盟を働きかける方針を決めた(同年11月の第4回定期中央委員会)

続く
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国鉄労働組合史 218

2011-07-02 10:00:00 | 国鉄労働組合史
にほんブログ村 鉄道ブログ JR・国鉄へにほんブログ村
この記事が役に立つと思われましたら、クリックをお願いします。 


 ランキングに参加
しています。


/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

第四章 JR体制への移行と国労の闘い

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽
第四節 国労組織の再編問題
∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽

二 JR体制下の国労組織と活動

 国労組織の強化・拡大運動とその成果

 さて、第51回定期全国大会において国労は、?各支部に「組織センター」を組織し、任務配置を行う、?出向している組合員の把握を行い、定期的な出向者連絡会なども開催し、要求の集約をはかって行く、?関連労働者の組織化について意識的な取り組みを強め、産業別単一組織としての総合的な力を高めるよう努力する、との組織方針を確立し、国労組織が「一般的性格」を兼ねるという組織方向についての議論は継続してすすめることになった。そして、なによりも国労組織の拡大強化が焦眉の課題であった。
 国労の組織拡大運動は年間を通した運動(通年闘争)であったが、拡大目標を設定し、数次にわたる節目をつけて組織拡大に取り組んだ(1987年度では3000人)。とくに、分断と解体攻撃にさらされた分会組織を確立し、職場を基礎とした分会活動があらたに取り組まれ、国労組織がごく小数であったり点在であったりした場合は職場実態に対応し「地域分会」方式をとるなどして、組織拡大は全組合員参加の運動になった。
 しかし、JR各会社の国労を敵視する労務政策、国労組合員に対する差別と排除の政策は徹底していた。それは、一方で鉄道労連との協調をすすめつつ、国労組合員を鉄道部門および関連事業の重要な部門には配属せず、差別と排除をすすめた。具体的には、国労組合員の本務外しであり、事業部・開発部といった部門への強制配転であり、関連産業その他の民間企業への出向であった。
また、本務に残った組合員に対しては、職制(旧鉄輪会)の地位を利用して昇給や昇格をテコに、また配転・出向をチラつかせて国労脱退を強要した。職場だけでなく国労組合員の家庭にまでおしかけて家族を脅かした。このようなことは、国労に復帰した労働者に対しても同様であった。国労復帰が判明したらただちに本務から外し、また配転・出向などによる差別と排除であった。さらにJR各社は、地労委の「勧告」や「要望」を公然と無視し、あまつさえ「命令」にも従わず、社会的常識からみても完全に逸脱した異常な労務政策であった。
 こうした厳しい組織攻撃の中で取り組まれた数次の拡大運動によって、1987年4月から1988年5月までで計1520人が国労に復帰し、また1988年6月から89年8月まででは復帰者が546人に及んだ。1989年度からは毎年度、全組織が10%の拡大目標をもつこととし、職場を基礎とした要求を組織化し、その要求を解決する活動をつみかさねながら組織拡大に結びつける運動をめざした。
 国鉄の分割・民営化から5年半経った1992(平成4)年9月4日・5日開催の第57回定期全国大会(東京・日本教育会館)において、国労組織の強化・拡大について大要次のような総括を行った。
 ① 国鉄労働組合をつぶすことが、国鉄の『分割・民営化』の重要な政策の一つであったことは『採用差別事件』『配属差別事件』の地労委審問とその救済命令で明らかになっている。しかし、JR発足後も依然として国労つぶし攻撃が、弱まることなく現在も続いている。われわれが国労に結集し、この執拗な団結破壊攻撃をはねのけて、3万2000人の組織を維持し、他労組から組織復帰者を連日迎えていることは、われわれ国労の基本路線と日常の闘いが労働組合の王道を歩んでいる証左となっている。
 ② 91年度方針では、組織人員の一割増を組織拡大の目標に設定し、この目標達成のために、エリア本部・地方本部・支部・分会等の各級機関に『組織対策委員会』を設置して、組合員総ぐるみで組織復帰工作リストづくり、具体的なオルグなどの任務を確認し、拡大期間を設定して集中するなど懸命な取り組みをしてきた。
 ③ この間、JR内の労働戦線はJR東海・西日本会社側の労務政策の転換、JR総連内部の路線の亀裂、鉄産総連の存続基盤の弱体化などによって、再編成の動きが加速され、東海・西日本・四国・九州ではJR総連傘下単組の分裂・脱退があいつぎ、JR総連側が会社の不当介入として労働委員会に提訴、また92春闘でストライキを決行するなど、『労使共同宣言』は破綻した。JR総連の主力単組であるJR東労組および貨物労組は、それぞれ会社側と『第2次労使共同宣言』を締結し、組織の安泰をはかろうとしている。
 一方、JR総連を脱退したグループと鉄産総連傘下の全単組は、5月18日に新たに『JR連合』を結成し、鉄産総連はわずか5年の短い存続で同日解散し消滅した。
 ④ JR内労働戦線の再編成や国労復帰の動向は、国労『採用差別事件』の中労委事情聴取の経過や、職場の労働条件改善・権利確立の闘いと、深く関連していた。152件におよぶ地労委の救済命令は、JR会社の団結権侵害を決定的にし、その会社によってつくられた組合や国労から分裂した組合に所属することの裏切りや罪悪感は、職場の仲間に国労への復帰を果たして、安心感を得たいとの気持ちを引き立たせずにはおかなかった。
 ⑤ JR会社の組織切り崩しは、国労の組織的弱点を集中的に狙ってきている。それは活動家不足による不在職場での組合員の分断・孤立化と利益誘導による脱退工作である。
 確かに会社側は、国労組合員に対して配転・出向等の任免、処分や表彰等によって国労組合員を徹底して差別して、活動家を一般組合員と分離しているため、脱退工作の監視や対策を希薄にさせ、また他労組員の国労への復帰を躊躇させている。この対策としては、職場だけでなく居住地域における日常的な人間的な繋がりを強めたり、家族会等の組織化も必要である。これらの取り組みと中央労働学校等の受講を通じて、活動家の育成をもっと重視しなければならない。
 ⑥ 全国的な組織拡大運動の前進にもかかわらず、残念ながら組織状況は微減といわざるをえない。これは、組織の脱退が後を絶たないこと(脱退と復帰では復帰者の数は若干上回っている)、定年・途中退職者・在職死亡者が多いこと、新規採用者の国労加入がきわめて小数であること--が原因といえる。組織拡大とは、実人員を増加させることであることを、各級機関役員と活動家はしっかり認識し、取り組むことが大切である。」
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国鉄労働組合史 217

2011-07-02 06:13:12 | 国鉄労働組合史
にほんブログ村 鉄道ブログ JR・国鉄へにほんブログ村
この記事が役に立つと思われましたら、クリックをお願いします。 


 ランキングに参加
しています。


/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

第四章 JR体制への移行と国労の闘い

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽
第四節 国労組織の再編問題
∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽

二 JR体制下の国労組織と活動

 1987(昭和62)年9月2日から開催した第51回定期全国大会(東京・九段会館)は、国鉄が分割・民営化されてから初の全国大会であった。国労はこの大会で、激しかった〝国労つぶし攻撃?を振り返るとともに、その組織攻撃に耐えた国労組織について検討を加え、今後の組織闘争の課題を大要次のように明らかにした(1987年度組織方針)。
  「千葉大会から修善寺大会を経るこの1年間は、国鉄労働組合にとって激動の時期であった。
  国鉄労働組合は権力や資本の集中攻撃と、資本に屈服した鉄 道労連系各組合や鉄産総連の組織攻撃により、11万名(脱退・退職)の仲間を失った。あわせて、不当な配属決定や配置転換、そして鉄産総連グループによる分裂は、国鉄労働組合の地方本部・支部・分会など多数の機関を破壊された。国労は、深い手傷をうけた。しかし、資本や分裂主義者が意図したように変質も消滅もしなかった。各級機関、全組合員の努力で、機関はすべて再建整備された。そして、各級機関・全組合員の戦闘性・階級性に支えられ、弾圧に屈せず、よみがえりつつある。
  国鉄労働組合は『分割・民営化』反対闘争を闘うにあたって、過去の諸闘争とりわけ『行政整理』反対闘争(1949年)、『マル生』反対闘争(197 5年)の闘いの経験から学んだ。闘いの教訓は、政府・国鉄当局は国鉄を変革しようとするとき、国労を国家的犯罪まで含め無法・不当に攻撃すること、国鉄をめぐる諸闘争は政治と直結すること、そして今次闘争を支え勝利に導くためには強い団結と行動する力が必要であること、『分割・ 民営化』反対闘争に勝利するためには国関労との共闘強化は必 要な条件であり、その延長線上には運輸産業別の組織を展望し得ること、また経営形態の変更を許したとしても、国労が単一体を維持すれば運輸産業別組織に接近する--などであった。
  こうして、職場の力、共闘の力、政治の力の結集をめざした。
 伊東大会(1984年)から職場の力の結集をめざし、目的意識的に分会体制の整備強化と小集団・総学習運動を中心とする組織運動に取り組んだ。苛烈な組織戦を支えた『力』は、組合員の自覚はもちろんとして国労の教育活動と小集団・総学習運動によって育成された活動家と職場ごとの無数の団結体(班・小集団)であった。
  国鉄労働組合は、国鉄解体を契機として鉄道運輸産業ならびに関連企業に働く労働者の単一の結集体として新たに出発する。
  鉄道労連と鉄産総連は資本と権力に庇護されつつ『一企業・一組合』をめざし、それぞれ連合体を結成している。ここ数カ月のうちに起こったことだが、鉄道労連内部の分離と野合、鉄労と鉄産総連の野合と分離などは、政・財・労各界の思惑を秘めた党派的な離合・集散であり、内部矛盾が屈折して噴出したものであろう。いずれにしても彼らが独占資本の80年代戦略に導かれ『全民労連』に参加することは必至である。
  職場に視点を移すと、JR資本の『合理化』、TQCを含む総合的な労務管理など利潤追求の結果、組合の違いをこえて多くの労働者が制限のない競争のルツボに投げこまれ、労働強化と精神的苦痛に苦しみ、不平・不安・不満が充満している。国労の前進する条件は、この苦しみと怒りを要求として闘うことである。国労は、要求にポイントをおいた多数派をめざそう。
  要求実現のために、闘いと結合して国労組織はもちろんのこと、家族会、退職者組合、国関労などの組織を含めて、総合的 な『力』の形成をめざして組織を整備・強化・拡大しよう。」

続く
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国鉄労働組合史 216

2011-06-30 10:00:00 | 国鉄労働組合史
にほんブログ村 鉄道ブログ JR・国鉄へにほんブログ村
この記事が役に立つと思われましたら、クリックをお願いします。 


 ランキングに参加
しています。


/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

第四章 JR体制への移行と国労の闘い

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽
第四節 国労組織の再編問題
∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽

一 国鉄分割・民営化と国労の組織方針

 分割・民営化後に対応した国労の組織改編

 さて、修善寺大会後もひきつづき検討されていた当面する組織改編について、翌1987年2月13日の全国組織検討委員会は、「新会社の発足を目前にした今日の情勢に対応するため、エリアごとに、国労の旗の下に結集し、組織と闘いを引き続き発展させることを前提」に、「現行の国労組織は全国単一体であり、組織の変更等は全国大会で決定することであるが、当面はエリアごとに『本部』を設置する」こととし、エリアごとの「本部」は労使関係を中心に取り組み、地方本部は組織強化・拡大を中心としたとりくみをする方向を提起した。さらに、その後の組織検討委員会の検討をへて6月16日の第149回拡大中央委員会には、あらためて骨子次のような組織改編についての「考え方」が提起され、次期大会で規約改正を行うことが確認された。
 一、名 称
   名称については「国鉄労働組合」を含めて組合員から公募する。なお、略称については「国労」及び「NRU」を残すこととする。〔のち、名称は変更しないことになった〕
 二、組織のあり方(基本的性格)
  ① 産業別単一組織を基本とし、一般的性格を有する。
  ② 組織の機能・運営が円滑にいくようにする。
 三、各級機関の性格及び位置付け
  ① 中央本部
   ・中央本部は、労働条件・労働協約等、労使関係及び労働条件の基本にかかわる問題の統一的な指導と全国闘争の統一的な指令・指導を行う。
   ・全国一社の交渉、国会・政府・委員会対策、統一教宣、国際組織及び中央組織との連帯・共闘等の任務を有する。
  ② エリア本部
   ・エリア本部は、各旅客会社の範囲ごとに組織し、名称を国労○○本部とし統一する。
   ・エリア本部は、当該の範囲内における旅客会社を中心とする諸問題について闘争指令権を有する決議執行機関。ストライキについては、本部の承認を得る。
   ・旅客会社及び全国一社の支社・清算事業団における資産管理部及び雇用対策部等に対応する団体交渉。
   ・エリア本部内における地方本部組織等の情勢把握、教宣等の任務を有する。
   ・北海道・四国・九州本部は、共闘組織との連帯・共闘等の任務を有する。
  ③ 地方本部、支部、分会
   ・エリア本部内における実情により組織する。
   ・各組織の機能は原則として現行どおりとする。
 四、全国協議会
  ・全国一社の日本貨物鉄道会社、清算事業団、鉄道通信会社、鉄道情報システム会社、鉄道総合技術研究所、新幹線鉄道保有機構に全国協議会をおく。
   ・全国協議会は中央本部の補助機関とする。中央本部の指導により交渉機能を有し、本部諮問にこたえる。
   ・闘争のあり方については、中央本部がエリア本部、地方本部と連携のうえ指導する。
 五、職能別組織
   ・各会社間の横断的連携、組織の強化をはかるための全国的な交流を主体とした連絡・調整機能をもつ機関として職能別組織をおく。
   ・職能別組織は、全国・エリア・地方本部におく。
 六、その他
  ① 組合員の範囲……旧国鉄、新JR関連の労働者を基本に、より広範な労働者の結集をはかる。
  ② 組合への加入方法……個人加入を基本とする。団体加入も認める。団体加入の場合は、順次個人加入に切り替えていく。
  ③ 財 政……中央本部一元化とし、交付金方式による。
  ④ ストライキ権の確立……ストライキ権の行使については、組合員の直接無記名投票により過半数の賛成を得ることとする。又は全国大会において、代議員の直接無記名投票により過半数の賛成を得ることとする。
 こうして国労は、一年余にわたる新しい状況のもとでの国労組織のあり方について検討と論議をかさねてきたが、この年9月2日から開催された国労第51回定期全国大会(東京・九段会館)において、「国鉄労働組合は、国鉄の解体を契機として鉄道運輸産業ならびに関連企業に働く労働者の単一の結集体として新たに出発する」(1987年度組織方針)ことを宣言し、必要最小限度の規約改正を行った。
 なお、第51回定期全国大会改正の新規約によって設置することになった職能別協議会は、当面エリア本部単位ごとに置かれ(設置要綱)、その区分は運輸協議会、運転協議会、公務協議会、電気協議会、工作協議会、船舶協議会、医療協議会、その他、であった(規約第14条)。

続く
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国鉄労働組合史 215

2011-06-29 10:00:00 | 国鉄労働組合史
にほんブログ村 鉄道ブログ JR・国鉄へにほんブログ村
この記事が役に立つと思われましたら、クリックをお願いします。 


 ランキングに参加
しています。


/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

第四章 JR体制への移行と国労の闘い

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽
第四節 国労組織の再編問題
∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽

一 国鉄分割・民営化と国労の組織方針

国労第49回定期全国大会決定の組織方針

 国労は、この年に入ってから「国労破壊攻撃が強まるなかで、組織的力量を高めることが組合と組合員をまもることとなることから、組織強化と国労単一組織をいかに守っていくのかを明示することである」(3月17日?18日、第146回拡大中央委員会)としていたが、第49回定期全国大会でも、この時期の国労攻撃の狙いを次のように分析した。

 「国鉄当局が国労に焦点をあてて矢つぎばやにかけてきている選別攻撃のねらいは、明らかに21万5000人『選別』掌握と、『労使共同宣言』路線による労組体制の確立にあるとみて間違いない。
  当局は選別攻撃を波状的に行うなかで、国労の『自壊』をはかる、国労運動を〝否認?する、この両面を推進し、これを新事業体移行実施時期にいっきょに実現しようとする〝構想?であることが容易に想定できる。
 新事業体体制下における国鉄当局の労務対策の骨子は、〝一企業一組合?〝ユニオンショップ制?〝労使協調を基調とする労組の育成?であるといわれているが、いまわれわれにかけられている選別攻撃は、明らかにこの体制に至る過程の『布石』であるととらえ、組織的な対応をいそがなければならない。
 『分割・民営』の攻撃は、このように経営形態変更の攻撃だけではない。それは明日の攻撃ではなくて、いま現在かけられている攻撃である。国鉄労働者の首切りと労働条件の切り下げ攻撃であり、やがて全労働者におそいかかる。闘う国労つぶしの攻撃である。そして敵にとっては、この攻撃の貫徹なしには、経営形態の変更はあり得ない。高い権利意識をもった労働者、闘う労働組合が健在であったら、どこの資本家が心よく新事業体をひきうけるだろうか。だからこそ、敵は総力をあげてわれわれを攻撃するのである。
 われわれは、このような攻撃に対して、われわれ自身がもっている弱さを早急に克服し、闘う組織としての労働組合を、職場に構築していくことが急務となっている。」

 そしてこの千葉大会では、翌1987年4月以降の組織のあり方について「単一組織で結合された国鉄を中心とした運輸産業別組織への脱皮、発展することをめざして闘っていく」ことを決定した。

続く
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国鉄労働組合史 214

2011-06-28 10:00:00 | 国鉄労働組合史
にほんブログ村 鉄道ブログ JR・国鉄へにほんブログ村
この記事が役に立つと思われましたら、クリックをお願いします。 


 ランキングに参加
しています。


/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

第四章 JR体制への移行と国労の闘い

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽
第四節 国労組織の再編問題
∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽

 第二臨調=行革路線のもとですすめられた国鉄の分割・民営化は、財政破綻におちいっている国鉄の再建策として打ち出された国家的施策であったが、この国鉄分割・民営化策が日本の戦闘的労働組合運動の代表格と目された国鉄労働組合を変質あるいは壊滅させるためのきわめて意図的な施策であったことは多く語られているし、また間違いない。したがって、この間の〝国労つぶし?策は、やがて「国家的不当労働行為」と摘発されたたように政府・国鉄当局一体となった手段を選ばぬ組織攻撃であた。国労は、この組織攻撃を要約して、次のように指摘した。
  「国労つぶし攻撃は、1970年代を通じて独占資本が経験し成功したあらゆる方法を駆使して国労の壊滅をはかろうとするものであった。その攻撃は5年有余に及んだ。それは、マスコミの異常な『ヤミ・カラ・ポカ』キャンペーンに始まり、国鉄赤字の責任を国鉄労働者に押しつける国労孤立化の謀略を前哨戦として開始された。それに続いて、

 ①現場協議協定の一方的破棄、
 ②労働者と労働組合の権利ハク奪と『命令と服従』の職場づくり、
 ③昇給・昇格・諸手当、昇職の差別、
 ④解雇を含む大量の不当処分、
 ⑤雇用安定協約と配転協定の一方的破棄、
 ⑥他組合との『労使共同宣言』締結、
 ⑦職員管理調書の作成、
 ⑧『人活センター』への活動家の隔離と〝みせしめ?労働、
 ⑨『企業人教育』、
 ⑩インフォーマル組織を活用した国労脱退強要、
 ⑪3000にのぼるTQCサークルの育成、
 ⑫新会社採用をめぐる差別・選別、
 ⑬配属での差別、
 ⑭配転・出向による国労組合員の排除、
 ⑮労使関係での国労差別と無視、
 ⑯直接的な支配介入としての組織分裂……等々、

まさに息つく暇もない矢継ぎばやの攻撃であった。」(1987年度運動方針より) 国労はこの国鉄分割・民営化攻撃の中で、なによりも組合員の雇用と労働条件を守る闘い、そして結成以来40年にわたって培ってきた組織を守る闘いを避けるわけにはいかなかった。この時期の国労の組織方針の確立は、国鉄分割・民営化の過程で組合員の雇用と労働条件を守り、そして分裂攻撃にどう対処するかということであった。

一 国鉄分割・民営化と国労の組織方針

 1986(昭和61)年に入ると政府の国鉄分割・民営化法案が閣議決定され(2月28日)国鉄分割・民営化策の具体的中身が姿を現わし、春から夏にかけては新法にもとづく第一次希望退職者の募集もはじまり、国労組合員をねらい打ちにした人材活用センターへの選別的配置もすすめられていた。7月22日から開かれた国労第49回定期全国大会(千葉)は、その直前の衆参同日選挙(7月6日)における自民党圧勝、社会党惨敗というきびしい結果をうけて、また国鉄当局からだけでなく「労使共同宣言」路線に方針転換した動労、鉄労などからの組織切り崩し攻撃に直面しているなかでの全国大会となった。(前述、第3章)

続く
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国鉄労働組合史 213

2011-06-27 10:00:00 | 国鉄労働組合史
にほんブログ村 鉄道ブログ JR・国鉄へにほんブログ村
この記事が役に立つと思われましたら、クリックをお願いします。 


 ランキングに参加
しています。


/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

第四章 JR体制への移行と国労の闘い

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽
第三節 JR内労働運動の動向
∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽

┌────────────────┐
├○二 JR内労働組合の動向と再編│
└────────────────┘

JR総連の分裂

鉄産総連の解消とJR連合の結成
 他方、鉄産総連(一万八〇〇〇人)は、JR総連のこのような組織分裂に対応して新しい産業別組織の結成をめざし、一九九二年二月八日に開かれた拡大中央委員会において、JR総連の分裂過程で約五万五〇〇〇人もがJR総連から脱退していることを重視し「鉄産総連の発展的解消をも決断」して対処することを決めた。そして、五月一八日、JR総連からはなれた旧鉄労系と鉄産総連傘下の労働組合が合流してJR連合(日本鉄道労働組合連合会)が結成された。このJR連合の結成に先だって鉄産総連は同日、組織解散を正式に決定し、一九八七年二月結成以来五年の歴史を閉じた。
 このJR連合は、連合と交運労協の方針を支持してそれらに加盟する方向であったが、JR連合に参加したのは、JR総連から脱退し西日本鉄産労と統一したJR西労組、JR東海労組、JR九州労組、JR四国労組と、鉄産総連傘下の北海道鉄産労、東日本鉄産労、東海鉄産労、四国鉄産労、九州鉄産労、貨物鉄産労の一〇組合で、発足時点での組織人員は七万六四〇〇人とされ、JR総連の七万六〇〇〇人とほぼ拮抗していた。そして、JR体制発足からちょうど五年を経たこの時点で、国労は三万二〇〇〇人を擁しており、JR内労働運動は、大きくは国労、JR総連、JR連合の三労組に三分されることになった(他に、全動労一四〇〇人、動労千葉七〇〇人など)


表4-1  北海道における組合別採用状況 (1987. 2.19 現在)

組 合 員 改労協 国 労 鉄産労 全動労 総 計
組 合 員(人)8,846人 7,547人 2,931人 1,139人 20,463人
意 思 確 認 8,016人 5,851人 2,748人 1,012人 17,627人 
道 内 採 用 7.934 2,382 2,123 228 12,667
広 域 採 用   35 425   51 56   567
雇 用 率(%)99.4% 48.0% 79.1% 28.1% 75.1%
不採用(事業団)  47人 3,044人 574人 728人 4,393人

1) 「改労協」は、道改革労協加盟の、動労、鉄労、日鉄労、社員労、北自労など労使共同宣言労組。
2) 「広域採用」は、北海道以外にされた者・
3) 「採用率」は、意思確認者に対する道内・広域採用者の割合。

表4-2 JR東日本の一時金査定状況
査 定 (%)1. 87年夏・年末・88年夏 2. 88年末・89年夏・年末
国   労 国労以外  国   労 国労以外
+15 0(0.0%) 18人(2.2%)
+10 0(0.0%) 86人(8.3%) 0(0.0%) 83人(10.2%)
+5 3人(1.0%) 362人(34.8%) 1人(0.5%) 277人(34.1%)
±0 155人(52.5%) 589人(56.7%) 154人(70.0%) 434人(53.4%)
-5 138人(46.5%) 2人(0.2%) 64人(29.1%) 1人(0.1%)
-10 1人(0.3%) 0人(0.0%) 1人(0.5%) 0(0.0%)
-15 0(0.0%) 0(0.0%)

1) 国労東日本調べ
2) 調査対象者は次の通り
   1. 87年夏・年末・88年夏は、浦和駅、拝島保線区、中野電車区、田端運転所、東京工事事務所 総武工事区、信濃川工事事務所小千谷工事区、十日町、長野建築区
   2. 88年年末・89年夏・年末は、中原電車区、田端運転所、中野電車区、東京工事事務所総武工 事区、小田原電力区、尻手駅、好摩駅(国労以外1名不明)遠野駅
3) 人数の後の%は、「国労」および「国労以外」の人員総数が、それぞれどこにどんな割合でされた かを示す。2の時季にはプラス15%の人があった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国鉄労働組合史 212

2011-06-26 10:00:00 | 国鉄労働組合史
にほんブログ村 鉄道ブログ JR・国鉄へにほんブログ村
この記事が役に立つと思われましたら、クリックをお願いします。 


 ランキングに参加
しています。


/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

第四章 JR体制への移行と国労の闘い

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽
第三節 JR内労働運動の動向
∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽

┌────────────────┐
├○二 JR内労働組合の動向と再編│
└────────────────┘

JR総連の分裂

 さて、1990年代に入ると、〝JR内最大組合から最強組合へ"をめざしたJR総連組織がにわかに流動化し、分裂含みの動きが浮上しはじめた。すなわち、一方で1989年11月にJR東海労組自動車総支部と鉄産労自動車地本が統一し、明けて1990年4月には「JR東海労組と鉄産労静岡地本内組合員との統一を進める会」が旗上げしたりしていたが、他方では、90年5月12日の春季生活改善闘争(春闘)中間総括のために開かれた拡大代表者会議で「スト権の確立は必要」などの集約がなされ、さらに6月17日からのJR総連第6回定期大会では「闘うべき時はいつでも闘かえる」組織体制をつくりあげる方針が提起され、書記長総括答弁でもスト権確立とその行使について次の機関開催まで職場で意思統一し、「JR総連全体の統一課題で行使する場合のスト権委譲」も検討されたいとしたところから、マスコミなどで「スト棚上げの方針転換」「スト自粛路線を転換」などと評され、「労使共同宣言」組合たるJR総連内組織の動揺が広まった。
 この時期、JR総連では会社エリア別に労連をつくり〈総連-連合-単組〉への組織整備が急がれ、また旅客鉄道会社ごとの組合名もたとえばJR東労組(東日本旅客鉄道労働組合)、JR東海労組(東海旅客鉄道労働組合)などと呼称を揃えつつあった。そうした中で1991年2月19日、JR西労組(3万4000人)の中央委員会で西労組委員長が「JR総連との関係を断絶する」ことを提案し、また西日本鉄産労との統一を提言した。JR総連本部は直ちに「組織運営ルールの無視」と批判したが、JR西労組内はもともとJR総連を批判する委員長派が多数で旧動労派のJR総連支持勢力は小数であったことにくわえ、さきにJR総連が「スト権確立・譲渡」の論議を開始したことからこうした提案になったとみられ、早くも5月23日にはJR総連支持派を中心にJR西労(JR西日本労働組合、4600人)が結成され、JR総連に加盟した。7月4日、JR西労組はJR総連を脱退した。
 1991年6月17日からのJR総連第6回定期大会では、「経営側の支配介入・御用組合化を許さず、健全な労使関係を強化、確立し、JRグループの発展と団結を強化しよう」という異例のスローガンが掲げられた。しかし、8月11日にはJR東海労(JR東海労働組合、1200人)が結成され、JR総連へ加盟を申請した。これはJR東海労組(東海旅客鉄道労働組合、1万5000人)内で少数派だった旧動労系の組合員が旗上げしたもので、JR東海労組はJR東海労のJR総連加盟に反対したが、9月に加盟が認められ、10月18日にはJR東海労組がJR総連を脱退した。さらに11月になると、30日にJR九州労組(九州旅客鉄道労働組合、9800人)の臨時大会が開かれ、JR総連からの脱退を決定した。これをうけて12月21日にJR九州労(JR九州労働組合、1400人)が結成され、翌1992年1月8日にはJR総連への加盟が認められた。また、JR四国労組(3200人)は92年3月7日の臨時大会でJR総連脱退を決めた。
この間、91年12月6日にはJR西労組と西日本鉄産労との統一大会が開かれ、JR西労組(西日本旅客鉄道産業労働組合、3万5000人)が結成された。
 こうして1990年代に入ってからのJR総連は、旧鉄労系が多数をしめる単組で分裂がすすみ、分裂したJR総連系単組は各エリアで少数派組合となった。1992年2月6日のJR総連第7回臨時大会は組織分裂に対処する活動方針を確立するために開かれたが、①井手(JR西日本)、葛西(JR東海)両副社長を中心とする一部経営側の介入によるJR総連破壊攻撃を許さず、国鉄改革の総仕上げのために反転反攻の闘いに総決起する、②JR西労組、JR東海労組、JR九州労組を除名する、ことなどを決めた

続く
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国鉄労働組合史 211

2011-06-25 10:00:00 | 国鉄労働組合史
にほんブログ村 鉄道ブログ JR・国鉄へにほんブログ村
この記事が役に立つと思われましたら、クリックをお願いします。 


 ランキングに参加
しています。


/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

第四章 JR体制への移行と国労の闘い

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽
第三節 JR内労働運動の動向
∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽

┌────────────────┐
├○二 JR内労働組合の動向と再編│
└────────────────┘

 JR総連の結成

 一九八七年四月一日のJR体制発足の時点において、分割された旧国鉄関係の新事業体での労働組合勢力図は、組織対象可能者約一八万人に対して国労(四万四〇〇〇人、二四・四%)、鉄産総連(二万七七〇〇人、一五・三%)、鉄道労連(八万九九〇〇人、四九・八%)、全動労(一四〇〇人、〇・八%)、その他(九三〇〇人、五・一%)という状況であった(以上国労調査による)。
 国鉄の分割・民営化後も各労働組合での組合員数はなお流動しており、JR東日本など会社単位(東鉄労)レベルで鉄道労連側から鉄産労への組織統一呼びかけなどがなされていたが、明けて一九八八年三月一一日、鉄道労連は鉄産総連に一企業一組合をめざす立場から〝統一?を申し入れ、鉄産総連はそれを拒否した(四月八日回答)。しかし、JR体制発足から一年をすぎたころから、東日本会社内などで東鉄労長野地本と東鉄産労長野地本が統一大会を開いたり(六月)、郡山工場や浜松工場で組織統一や統合(七月)がすすめられた(これらはいずれも、鉄道労連側への〝統一?であった)。六月二八日から開かれた鉄道労連第三回全国大会では、八八年中に鉄産総連・鉄産労との組織統一をはかる方針が決定された。しかし、この間にも、たとえば広島地本レベルでは鉄道労連組合員でもある助役など現場職制による鉄産労組織切り崩しがすすみ、鉄産労広島地本の組合員が半減するという事態もみられた(四月?六月)。
 一九八九年六月一一日から開かれた鉄道労連第四回定期全国大会は、JR関連企業の労働組合をもその傘下に組織化する方針を確立し、JR関連一般労組連絡会(八八年四月一日結成)加盟の鉄道労連準加盟の労働組合をも含めた会社エリアの連合組織を鉄道労連の下部組織とし、それは今後一年をかけて〈総連-労連-単組〉の組織形態にしていく方針であった。同時にこの大会では、鉄道労連の略称を「JR総連」にすることを決定した。
  
続く
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国鉄労働組合史 210

2011-06-24 10:00:00 | 国鉄労働組合史
にほんブログ村 鉄道ブログ JR・国鉄へにほんブログ村
この記事が役に立つと思われましたら、クリックをお願いします。 


 ランキングに参加
しています。


/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

第四章 JR体制への移行と国労の闘い

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽
第三節 JR内労働運動の動向
∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽

┌────────────────┐
├○二 JR内労働組合の動向と再編│
└────────────────┘

 国鉄分割・民営化の過程で国労がかつてない規模の分裂に見舞われ、新たな事業体のなかでの国労組織人員は20%前後の勢力となり、「労使共同宣言」に調印して国鉄分割・民営化策推進勢力であった改革労協=鉄道労連は50%をやや超える勢力となっていた。このような国労の分裂と組織人員の減退を招いていた環境としては、一方にJR発足をひかえて〝国労にいては採用されない"という雇用不安が醸成されるとともに、他方で国鉄当局からだけでなく動労など改革労協側からのいわば組織攻撃が執ようにつづけられていた。JR体制発足前後のJR内労働組合の動向とその再編成過程は、また労使手を携えての〝一企業一組合"を旗印とした国労つぶし攻撃でもあった。
 改革労協から鉄道労連の結成へさて、1986(昭和61)年7月に結成された改革労協は10月をめどに連合体をつくる方向であったが、10月24日の会議で分割発足する新事業体ごとに新組合を結成し、その連合体として「全日本鉄道労働組合総連合」(鉄道労連)を発足させることを決めた。この決定にもとづき、各地方の改革労協は「結成を進める会」を発足させ、国労組合員をも対象に加入を呼びかける方針で、各支部レベルでも「進める会」を結成して行った。この時期はちょうど、国労が修善寺臨時全国大会(10月9~10日)で「労使共同宣言」の拒否と国鉄分割・民営化反対闘争の継続を決定し、また組織内で後の鉄産労づくりにつながる動きが表面化しはじめた時期でもあった(前項参照)。
 ついで改革労協は、国鉄改革8法案が国会で成立し(11月28日)、その公布を目前にひかえた12月2日、国鉄当局との改革労使協議会を開催した。この場で国鉄総裁は「みなさんは第2次共同宣言を締結し、新会社における一企業一組合を目指している。
鉄道事業が今後、健全な発展をとげるためにも労使関係を大切にしていきたい」と述べ、また改革労協側は「労働組合別の選別はないにしても、未だに分割・民営反対を叫んでいる組合もあり、一定の評価は必要だ。第2宣言の中にある望ましい職員像の趣旨を踏まえて選別にあたってほしい」と述べた(『動力車新聞』12月10日号)。
 国労旧主流派役員などによる鉄産労総連合結成準備総会(前述)が開かれたのは、この改革労使協議会開催の翌日のことであったが、その間にも国労からの脱退者でつくられた国鉄車両労組(7月21日結成)、工事労組連合会(7月30日結成)、工務労連合会(8月14日結成)、全国鉄道協議会連会(8月21日結成)などの結成がつづき、それらはやがて翌年の鉄道社員労組(1月23日結成)となっていく。また、改革労協内の全施労や真国労、それにやはり国労脱退組による自動車職協連合(10月1日結成)はそれぞれ組織を解消して日鉄労(日本鉄道労働組合)を結成した(12月22日)。改革労協は12月13日、こうした国鉄内組織動向を見ながら国労から離れたグループの改革労協への加盟問題について、①地方改革労協の承認、②改革労協の運営要項・活動方針などの承認、③一企業一組合と「結成を進める会」活動の承認、などを前提条件に認めていくことを決めた。
 明けて1987年1月になると、前述のように国労組織内各地で鉄産労の旗上げがつづき、国労本部はこうした分裂策動に「再建委員会」を設置するなどして果敢に対応していたが、1月16日に開かれた動労第43回臨時大会は、新事業体移行に向けた当面の方針を決めるとともに、総評からの脱退、新綱領の決定、一企業一労働組合の早期・完全な結成、などを決定した。2月2日には、改革労協加盟の鉄労、動労、鉄道社員労、日鉄労の4組合が「全日本鉄道労働組合総連合会」(鉄道労連、会長志摩鉄労組合長)を結成し、2月中旬から3月中旬にかけて鉄道労連加盟組合の地方組織あるいは職域(貨物・総合技研)による新事業体単位の連合組織が結成されて行った。その間、2月20日から開催された鉄労第20回臨時全国大会では、①国鉄改革の推進、②雇用の確保、③国労運動の打倒、の3目標を確認するとともに、一企業一組合の結成にむけて鉄労組織を単一体から連合体に改組し、7月に解散大会を開くことを決めた。
 ところで、JR体制発足前日の3月31日に開かれた鉄道労連第1回中央委員会でも、"鉄労、動労、社員労、日鉄労に7月解散をしてもらい、完全一企業一組合を9月初旬に実現する、"国労の共・協連合を一掃し、真面目に働く国労・鉄産労組合員の加入を呼びかけ、組織率75%を達成する、などの組織整備方針を決定していたが、加盟4組合の解散大会を目前にして開催された7月1日の全国代表者会議は、志摩会長をはじめ鉄労出身の中央執行委員と各会社別単組代表(委員長または書記長)および鉄労代表が欠席するという事態になった。これは、6月段階での鉄道労連盛岡地方連合大会開催手続きをめぐるトラブル、あるいは松崎動労委員長による鉄労侮蔑呼ばわりなど鉄労・動労間の確執がここへきて表面化したもので、さらに全国代表者会議当日の臨時中央執行委員会において鉄労から鉄道労連脱退が表明され、つづいて鉄労役員と鉄産総連役員とで合同中執が開催されたあと両者による「ゆるやかな協議会」の発足が発表された。しかし、この流れは、志摩鉄労組合長への会社筋などからの圧力が取り沙汰されたがけっきょく頓挫し、7月16日から開かれた鉄労年次全国大会では、鉄道労連に復帰し鉄労を解散すること、そして鉄産総連との「ゆるやかな協議会」は解消することを決めた。
 鉄道労連加盟のその他の3組合は、動労が7月7日からの定期全国大会で、鉄道社員労連が21日の解散大会で、日鉄労が23日の解散大会でそれぞれ解散を決定し、8月末の鉄道労連第2回全国大会にむけてそれぞれ事業体単位の単一組合として合流していった。
 8月30日~31日に開かれた鉄道労連第2回全国大会は、JR6旅客鉄道・貨物鉄道・清算事業団・総合技研・情報システム・鉄道通信・新幹線保有機構の各会社・事業体別組合(北海道など一部になお連合組織)より選出された代議員(他に2オブザーバー労組)によって構成され、組合員は公称12万7000人とされた。
大会では、まず鉄労・動労・鉄社労連・日鉄労および助役・区長などの職制組合鉄輪会の完全統一を宣言し、①一企業一組合、JR関連をふくめた一大産別組織(約50万人)の達成、当面は国労・鉄産労に対して組織拡大を行い75%の組織率を実現する、②JR各社の発展と組合員・家族の生活向上のため健全・対等な労使関係を磐石にする、③「連合」、交運労協、ITFへ加盟し、労働運動全体の発展に寄与する、などの運動方針を決定した。なお、中央執行委員長には、辞任した志摩会長に代わって杉山会長代行が就任した。
 
続く
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国鉄労働組合史 209

2011-06-23 10:00:00 | 国鉄労働組合史
にほんブログ村 鉄道ブログ JR・国鉄へにほんブログ村
この記事が役に立つと思われましたら、クリックをお願いします。 


 ランキングに参加
しています。


/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

第四章 JR体制への移行と国労の闘い

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽
第三節 JR内労働運動の動向
∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽

┌────────────┐
├○一 国鉄労働組合の分裂│
└────────────┘

 総評2月臨時大会での論議と総評の「決断」

 他方、国鉄当局による採用者候補名簿の作成がすすめられ、4月1日の国鉄分割・民営化へむけた準備が政府の側で展開されているなか、2月4日から開かれた総評第76回臨時大会(九段会館)において、黒川総評議長は冒頭挨拶で国労の分裂問題にふれ、「国労自身の責任であるとの態度で相談がれば総評の方針で指導するが、すすんで調整する意思はない」と述べ、さらに「(国労と鉄産労の)両当事者間が〝もはや決定的離婚"との認識でも、新事業体のもとで総評ブロックの組織が主導権を確保するためにも比例最大組合として存在できるよう双方の努力を要請」した。さらに87春闘方針を提案した真柄総評事務局長は国労問題にふれ、「国労に現に起きている組織的混乱は大枠として総評労働運動の中の内部矛盾とうけとめ、今後も対応策を求めていきたい、だが組織の問題はすぐれて当該単産自身の問題である」と述べた。
 ついで質疑討論のなかで、国労代議員は国労の組織問題について現状を報告するとともに、要旨次のように質した。
 「国労内で一部幹部が鉄産労を結成し、労使共同宣言路線への屈服と分裂工作に走り、組織的困難に直面している。別組織を結成した諸君は総評・社会党の路線を守ると言っているが、共同宣言は総評路線を逸脱するものだ。この分裂行動に、総評の一部の人が加担しているのではないかという世評が伝えられている。総評が、闘争のさなかにある加盟組織に介入し、組織を弱め、雇用不安を助長するような行為があってはならない。事実なら、総評の綱領と伝統をいちじるしく傷つけることになると深く憂慮する。」
 この質疑に対し、真柄事務局長は「総評ブロックの内部矛盾から不団結が起きた、議長挨拶での見解を第一とし、地方でもそうした組織対処をすすめてもらいたい」と答えていた。しかし、後に総評解散後に出版された〝総評40年史"編纂委員会編『総評40年史』(1993年3月刊)には、国労分裂の背景が次のように叙述されている。
 「国労臨時大会で敗れた側は、大会代議員のレベルでは少数派であっても組合員レベルではみずからが多数派であることを疑わず、国労内にあっては近い将来の〝奪権"をめざす方向をとっていた。
 しかし、国労に失望し不安を抱く組合員の脱退は、臨時大会以後は以前にもましてその数を増やしていた。他に受け皿がないかぎり、国労を脱退した組合員がストレートに改革労協に行ってしまうことは避けられなかった。改革労協はすでに、社会党案ではなく政府案を事実上支持する立場をとっていた。院内での社会党の主張とタイアップできる労働組合の存在が、社会党からつよく求められていた。
 加えて〝連合"との関係もあった。このままでは〝連合"に加わる国鉄関係労組は改革労協だけとなり、改革労協の主張がそのまま〝連合"の方針となってしまうおそれが十分にあった。
 闘争本部は社会党とともに国労党員協の主力と協議し、国労から分れて別個の産別組織をつくることを決断した。87年2月28日、国労27地方本部のうち25地方本部から約3万5000人の組合員が集まって新たに〝鉄産総連"を結成した。
 〝鉄産総連"はまもなく総評に加盟、のちに〝連合"にも、鉄道労連と名を変えた改革労協と並んで加盟した。」

続く
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする