国鉄があった時代blog版 鉄道ジャーナリスト加藤好啓

 国鉄当時を知る方に是非思い出話など教えていただければと思っています。
 国会審議議事録を掲載中です。

国鉄労働組合史 208

2011-06-22 10:00:00 | 国鉄労働組合史
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第四章 JR体制への移行と国労の闘い

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第三節 JR内労働運動の動向
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├○一 国鉄労働組合の分裂│
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 国鉄改革=分割・民営化法成立前後

 さらに、国労本部は、一部地方本部における新組合を結成して国労と新組合の二重加盟でいくという動きに対しても21日、「国労規約違反でいかなる効力もない」とし、17日の指令にもとづく機関の再建・整備を行うことを指令した。
 そうした中の1月24日、前年10月9日からの修善寺大会で選出された本部中央執行委員(三役を除き22人)のうち旧執行部提案方針を支持していた8人が中央執行委員長宛に辞任届を提出した。中央執行委員会としては国労の総団結を守るために慰留につとめたが、辞表提出後の8人は「国労はいまや深刻な崩壊過程にあり、新会社ごとにできる鉄道産業労働組合へ積極的に加入することを訴える」という趣旨の「鉄道産業労働組合準備会」声明を発表した。この動きに対して27日の中央執行委員会は彼らを査問委員会に付託することを決め、その後8人が鉄産労組織の役員に就任するなど反組織的行動を行っているところから査問委員会での査問を開始した。また、八中央執行委員の辞任にともない、その段階で中央執行委員は16名となり規約19条の中央執行委員会成立要件3分の2以上の出席とはこの16名の3分の2以上出席であることも規約解釈にもとづき明らかにした。
さて、1月下旬から2月下旬にかけて、各地本や新会社エリア単位の鉄産労組織の旗上げがつづいた。これら本部方針や規約に反する地本大会開催あるいは分裂策動のみられた地方本部に対して国労中央本部は「再建委員会」の設置を指令したが、それらは静岡地本(1月24日)、鹿児島地本(26日)、南近畿地本(27日)、広島地本(29日)、仙台地本(30日)、米子地本(30日)、札幌地本(2月2日)、名古屋地本(5日)、大分地本(12日)などにおよんだ。そして、鉄産労組織が結成された地本を修善寺大会以降の暦日順に見ていくと(東日本の場合は東日本鉄道労組を名乗る)、1986年11月には新潟、水戸(5日)、東京(21日)、12月には秋田(4日)、高崎(16日)、鹿児島(16日)、大分(27日)、熊本(28日)とつづき、1987年に入ると1月は門司(8日)、北陸(16日)、千葉(23日)、長野(24日)、静岡(26日)、旭川(27日)、大阪(29日)、南近畿(29日)、福知山(29日)、米子(29日)、岡山(29日)、広島(29日)、四国(30日)、札幌(31日)、盛岡(31日)、2月は釧路(4日)、名古屋(22日)とつづいた。また、新会社別エリアには、まず1986年12月22日に東日本鉄道労組が結成され、明けて1987年1月は25日の九州鉄産労、30日の西日本鉄産労および四国鉄産労、2月には3日の東海鉄産労、5日の北海道鉄産労とつづき、2月28日、鉄産総連(日本鉄道産業労働組合総連合)が結成された。この段階で鉄産総連の組織人員は、自称3万5000人(国鉄当局発表2万1000人)であった。
 この間、静岡地本は1月26日、国労本部の指令を無視して「組織の独立と名称変更」を議題とする臨時地方大会を強行して東海鉄道産業静岡労組を発足させたが、国労静岡地本再建委員会は静岡地裁に財産保全仮処分、さらには鉄産労側の事務所占有使用妨害禁止仮処分を申請し、いずれもその仮処分命令を得た(27日、28日)。また1月29日、本部指令を無視して強行された広島地本臨時地方大会(実際には定数不足)は地本規約第1条を「この組合は、広島鉄道産業労働組合といい、本部を広島市におく」と「改正」し、つづいて広島鉄産労の結成大会を開いたが、国労広島地本再建委員会は翌30日「国労広島地本は解散していない、国労広島は団結を固め雇用をはじめとする闘いを継続する」との全組合員への訴えを発表した。さらに1月31日には国労札幌地本が臨時地方大会を開き、「今こそ国労組織が一丸となって団結し、付帯決議や国会答弁を完全に守らせる闘いに全力をあげる」方針を決定した。
 こうして2月に入ってまず11日、国労米子地本および門司地本で再建委員会による臨時地方大会が開催され、その後も地本再建のための臨時地方大会が福知山地本(14日)、南近畿地本(15日)、仙台地本(15日)、静岡地本(16日)、鹿児島地本(22日)、広島地本(3月8日)、四国地本(15日)、熊本地本(17日)、札幌地本(29日)、名古屋地本(29日)とつづいた。
 
続く
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国鉄労働組合史 207

2011-06-21 10:00:00 | 国鉄労働組合史
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第四章 JR体制への移行と国労の闘い

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第三節 JR内労働運動の動向
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├○一 国鉄労働組合の分裂│
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 新会社別鉄産労づくりと鉄産総連の結成

 明けて1987(昭和62)年1月になると、5日の「国労社会党員協」全国代表者会議で1月末までに全国で「鉄産労」結成の意思統一がなされた(『鉄産総連』87年3月10日創刊号による)こともあってか、国労組織内に反国労組織(鉄産労)づくりの動きが目に見えるかたちで浮上してきた。また、8日の東北本部委員長ら19人のブロック・地本委員長連名による中央執行委員会への8項目にわたる質問申し入れは、①職員の進路決定に対する具体的な対応方法、②4月1日以降の団体交渉や国労組織(単一か連合か)、③大量の組織脱退に対する対応、などがその主旨であったが、その後の鉄産労づくりの伏線となるものであった。さらに、各地での鉄産労づくりのやりかたは必ずしも一様ではなく、地本単位でそのまま鉄産労を名乗ろうとしたり、それがかなわぬとすれば別組織を結成するとか、あるいは国労組織はそのままにして新組合を結成して二重加盟方式をねらうなど、さまざまであった。こうした動きに対し国労中央本部と地方本部はそれぞれの事態に機敏に対応し、組織防衛にあたった。
 1月10日、長野地本では委員長以下執行部が総辞職したのをうけて第49回臨時地方大会を開き、中央本部執行部のもとに団結して闘う新しい執行体制を確立した。北陸地本では委員長らが分裂行動の先頭に立って「西日本鉄道産業北陸労働組合」を結成したのをうけて1月12日、第42回臨時地方大会を開いて「選別・差別を排除し雇用の完全確保と国労組織を守りぬく」運動方針を決定し、新執行部を選出した。新年度からの国鉄分割・民営化を目前にして、雇用と組織を守る国労の闘いが重大な局面を迎えていたこの時期、一部地方機関や役員が組織分裂への行動をとっていることを重視した本部委員長は、「全組合員と家族が国労の旗のもとに総結集し総決起する」よう骨子次のような〝訴え?を発表した。
 「重大な時期にあって、昨年末から本年に入っても、一部の地 方本部、一部の役員のなかに、全国大会決定にもとづく本部方針の実践をなおざりにし、さらに大会決定に反して別組織をつ くったり、まじめな組合員に脱退をそそのかすなど、分裂策動に走る者が散見されていることを黙視することはできません。
こうした利敵・背信行為は、いかなる理由があろうとも断じて許されるべきではありません。
 国労は全国の一人ひとりの組合員が本部に直結している全国単一組織であります。地方本部・支部・分会などの各級機関は国労の下部機関であり、一部の下部機関が仮に全国大会決定に背いて国労の団結を乱すような反組織的決議・決定を行ったとしても、それはもとより無効であり、国労の団結を守る立場に立つ組合員をいささかも拘束するものではありません。
 分裂が労働者に何をもたらすかということは、これまでの分裂の歴史がはっきりと教えています。国労は今日まで何度もあった分裂攻撃とのたたかいのなかで団結を守ってきました。労働者は要求や悩みを解決するために労働組合に団結し、資本の攻撃とたたかうことによって雇用も組織も守ってきたのです。私は、一部の者の言動にまどわされ、心ならずも国労の戦列から離れていった仲間のみなさんに対し、国労への速やかな復帰を心から呼びかけるものです。」同日、先に(1月8日)九州鉄道産業門司労組が結成されていた門司地本に中央本部指導下の「再建委員会」設置を指令したのにつづいて、17日、国労本部は全地方本部に「組織脱退・分裂等により正常な機能を喪失した各級機関の再建・整備についてを指令した(国労規約第24条第1項第1号による)。その骨子は次のようになっていた。
  ① 各級機関において機関の解散・組織脱退・分裂等、国労規約違反の行為に加担し、あるいはこ れらを許容したため   正常な機能を喪失した場合には、その上級機関の長の命により派遣さ れる役員が「再建委員」を組合員中から指名し、若干名をもって「再建委員会」を設置すること とする。
  ② 「再建委員会」には再建大会(召集、のち訂正削除)までの執行権を付与し、機関再建にあた らせることとする。
  ③「再建委員会」は、分裂を策謀し、また分裂に加担した役員等について直ちに規約に則って 緊急措置をとることとする。
  ④「再建委員会」は、組合員、組合財産、機関維持に必要な書類等を直ちに引き継ぎ、遺漏のない よう点検・掌握することとする。
  ⑤以上のほか、組織の再建・整備のため必要なあらゆる問題について、派遣中央執行委員の指導に 従うこととする。
  ⑥「再建委員会」は、以上の再建に関するあらゆる事項について逐次、中央執行委員会に報告する こととする。
 
続く
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国鉄労働組合史 206

2011-06-20 10:00:00 | 国鉄労働組合史
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第四章 JR体制への移行と国労の闘い

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第三節 JR内労働運動の動向
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├○一 国鉄労働組合の分裂│
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 国鉄改革=分割・民営化法成立前後

 他方、動労、鉄労など九組合からなる国鉄改革労協は10月24日、国鉄分割・民営化の事態に対応して新事業体ごとの新組合を結成し、その連合体として「鉄道労連」(全日本鉄道労働組合総連合)を発足させることを決めた。これは、動労などがかつてから主張していた〝国労を打倒し、一企業一組合をめざす〝方針を実現しようとするもので、この決定にもとづき各地方改革労協はそれぞれ「結成を進める会」発足させ、国労組合員をも含めそれへの加入を呼びかけるとしていた。
 そうしたなかで総評は10月25日、国労本部宛に次のような「国労組合員の雇用と組織を守るための当面の方針について」と題した文書による指示要請を行った。
 一、 「改革労協」は昨日新事業体に対応する「新労働組合」結成にむけての「すすめる会」を11月1日より発足し、国労組合員をも対象として組織化する方針を決定した。このままでは、具体的な雇用保障を組織的に保障されていない国労組合員は雇用不安にかられ国労からの離脱←「すすめる会」に吸収されることとなりかねない。
 二、 したがって国労本部は直ちに以下の組織方針にもとづいて、組合員の具体的雇用確保と新事業体に移行された場合をも考慮した具体的組織対策活動をおこなうこと。
   ① 国労組合員の雇用確保について当局および予想される新事業体設立委員会との間で具体的に交渉・協定が可能となるよう、当面国鉄当局との労使関係正常化にむけて中央・地方をとわず可能な所から正常化←雇用確保に関する交渉↓協定化にとりくむこと。
   ② 新事業体移行に対応した労働組合体制を整備するため、各新事業体単位労働組合「準備会」を国労組合員を軸として発足させ、各新事業体への雇用を希望する国労組合員および国鉄職員の「準備会」への加入運動を直ちに全国一斉に展開すること。
   ③ 総評は、以上2項目の国労の雇用と組織を守る運動を成功させるために、傘下全単産・県評、地区労に支援態勢を直ちにとるよう指示要請する。
 11月28日の国鉄改革関連法案の成立という緊迫した情勢のなかで、国労から総評への「雇用問題に関する要請」(11月17日付け)をめぐって総評との間でやりとりがあり、そのなかで先の「指示要請」の性格について両者間に齟齬もあったが、国労本部は12月1日、総評からの求めに応じて「指示要請」に次のような回答を行った。
 2の①について
   中央において雇用確保に関する交渉を行い、協定化していく取り組みをしていくことは当然でありますが、「中央・地方をとわず可能な所から正常化」ということになれば、全国単一体としての国労の組織原則を逸脱することになり、歴史と伝統ある国鉄労働組合の民主主義的運営の原則と誇りすら放
  棄することになるので受け入れることはできません。
 2の②について
   〔昭和〕62年4月以降の組織のあり方については、第49回定期全国大会(千葉)で「単一組織で結合された国鉄を中心とした運輸産業別組織組織への脱皮、発展することをめざして闘っていく」ことを決定していますので、検討のベースを単一体としながら、広い視野で検討プロジェクトを発足させ、全組合員及び国鉄に働く労働者の団結と統一が名実ともに実現できるよう検討して参ります。また、発足する新事業体における団体交渉や組織のあり方などについて検討を行うとともに、総評から脱落した動労など「労使共同宣言」組合集団らとの組織闘争に勝利するために、各旅客鉄道会社エリア別に「協議会」を設置し、具体化して参ります。
 さて、11月下旬の国鉄改革法案の成立が見通されるなかで国労は、全国規模でのハンガーストライキ(11月7日~22日)、11・6犠牲者追悼大集会(日比谷野外音楽堂)、反失業11・11総決起集会(日比谷野外音楽堂)などをはじめ全国で多彩な大衆行動を展開していたが、11月17日に開かれた千葉地方本部第40会臨時地方大会は「雇用確保のため大胆な妥協で労使関係の正常化をはかる」とする地本執行部提案の緊急方針案を反対多数で否決して新執行部を選出し、同月21日にも水戸地方本部第38会臨時地方大会が「労使関係正常化」を中心とする緊急方針案を提案した地本執行部3役の不信任動議を可決し新執行部を選出するなど、修善寺全国大会決定の方向にそった流れが地本段階
で出現していた。しかし同時に11月21日、国労本部賃対部長(辞表提出)や前東京地本教宣部長、前八王子支部長などが中心となって「東日本旅客鉄道東京労働組合」(東日労東京)を結成し、25日には当局と労使共同宣言と雇用安定協約を締結した。この流れは、12月3日の鉄産労総連合結成準備会総会、同月18日の鉄産労全国準備会第一回幹事会、さらには新年1月から2月にかけて旧主流派系の新旧役員などによる地本段階での反国労組織の旗上げがつづき、やがて新会社別鉄産労づくりから鉄産総連結成へと合流していく。
 なお、12月2日に開かれた改革労協と国鉄当局による労使協議会で国鉄総裁は、改革労協側が新会社における〝一企業1組合〝を目指していることを評価した。

続く
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国鉄労働組合史 205

2011-06-19 15:00:00 | 国鉄労働組合史
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第四章 JR体制への移行と国労の闘い

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第三節 JR内労働運動の動向
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├○一 国鉄労働組合の分裂│
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 1946(昭和21)年2月に結成された国鉄労働組合は、今日までに三度の大きな組織分裂を経験しているといえよう。最初は、1951年の機関車労組(日本国有鉄道機関車労働組合)結成にいたった機関車協議会(職能協議会)内からの分裂であり、当時の国労(組合員約46万人)の機関車関係労働者約6万6000人から4万人におよぶ脱退者が生じた。この分裂は、当時の交渉単位制度のもとで機関車乗務員独自の交渉権獲得を目指したもので、職能別組合の性格が強く、のちの動労(国鉄動力車労働組合)となる。ついで1957年夏のいわゆる新潟闘争を契機とした分裂で、ストライキでたたかいはじめた当時の国労の闘争方針を批判して各地方で脱退がつづき、それらが職能別労組連合(国鉄職能別労働組合連合)の結成へとすすみ、国労新潟地本から分裂した新地労(国鉄新潟地方労働組合)も各地方組合との連合を経て職能別労組連合と合流し、のちの鉄労(鉄道労働組合)となっていく。そして今回の分裂は、国鉄の分割・民営化が強行されるなかで総評の組織指導もからみ、これまでにない規模の分裂となった。
 1986年10月9日~10日の国労修善寺大会が「国労の団結と統一を守り、闘いぬく臨時全国大会アピール」を採択して閉会した10日夜、〝路線転換"の「緊急方針」を支持してきたグループ(旧中執主流派)は「日本社会党員国労全国地方本部連絡会議」(仮称)を結成し、「新しい国労運動を創造するための声明」を発表した。この連絡会議は、これまで二派に分かれていた社会党系主流派のうち非主流(社会主義協会系)を除く部分が独自会派として旗揚げしたもので、発表した「声明」では「社会党党員協議会の一員でありながら革同(共産党系)と手を組んだ特定イデオロギー集団の裏切りと暴挙を許すことはできない」とし、「雇用の確保と選別の排除、とりわけ改革法23条の修正・撤回を求め、日本社会党と総評の指導のもとに、これから総力をあげて取り組みを展開しなければならない」とのべられていた。この連絡会議には、この時点で札幌・仙台・千葉・水戸・静岡・北陸・米子・福知山・広島・鹿児島・熊本・大分の各地本(のち名古屋地本も参加)と東京八王子支部の委員長が参加していた。この流れは、16日の「社会党・総評を支持する国労全国連絡協議体」結成となり、やがて国労から分裂して鉄産総連(日本鉄道産業労働組合総連合会)へとつながっていく。
 さて、国労本部は10月16日、新執行部による「当面の諸行動についての方針」(指令第1号)を発し、職場での臨時全国大会「アピール」の徹底と支援諸団体への協力要請、大衆集会などの開催を指令したが、17日の総評拡大評議員会で国労新委員長は「前執行部提案の労使共同宣言締結は臨時大会で否決された」と報告し、ついで衆議院で国鉄改革関連8法案の採決が強行されようかという22日、本部三役は総評(事務局長ら)を訪ねて国労の考え方を表明した。その骨子は、①臨時大会の結果をふまえ千葉大会(7月)決定の方針により今後の運動をすすめる、②基本的に社会党案を支持し総評を柱に運動をすすめる、③雇用問題などの重点項目について明日社会党三役と会い要請する、④総評には引
き続き指導をお願いする、という内容であった。
 これに対し総評側は、①国労の考え方は大筋了解する、②今後の闘い方について双方で整理・スリ合せをし相互の摩擦をこれ以上おこさないようにする、③正常化と信頼関係回復をはかる、④10月28日29日の中央集会は全力で取り組む、⑤国鉄労働者の雇用と国労組織を守ることに全力をあげる、⑥衆議院段階につづき参議院での審議とその後を見通しながら取り組みを考えている、⑦国労の団結が何よりも求められている、⑧国労としても中長期に備える路線を、⑨今後の対応は新執行部を唯一の窓口としていく、とのべた。
 翌23日、はやはり国労三役が社会党国鉄再建闘争本部を訪ね、臨時大会の決定と新執行部成立について説明し、社会党側は同党の国鉄再建案への支持と国労の団結強化を求めた。

続く
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国鉄労働組合史 204

2011-06-19 10:00:00 | 国鉄労働組合史
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第四章 JR体制への移行と国労の闘い

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第二節 新会社への職員採用差別・配属差別と配転・出向攻撃
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├○二 配転・出向などの国労攻撃│
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 一時金査定による差別の実態

 JR各会社などの国労攻撃は、配転・出向命令にかぎらなかった。
夏と年末の一時金査定においても、目に余る国労組合員に対する差別が公然と行われた。一時金査定は、基準額通りの支給となるプラス・マイナスゼロ査定と、基準よりプラス5%、プラス10%、マイナス5%、マイナス10%の5段階で行われる(賃金規定第143条、145条)が、ここでも国労組合員をより多くマイナス査定にする方法である。JR東日本の一時金査定状況は、任意の職場における①87年の夏・年末と88年夏、②88年年末と89年夏・年末、の二つ時季の査定按配を総人員からの割合で客観化したものである。ここから一目瞭然にいえることは、国労組合員でプラス10%査定された人は1人もいないこと、そして国労組合員以外でマイナス10%査定された人も1人もいないことである。そして、プラス5%査定の人数は圧倒的に国労組合員以外で占められ(②の時季にはプラス15%の人がいた)、またマイナス5%査定の人数は圧倒的に国労組合員で占められている。
 このような露骨な差別攻撃は全国いたるところで見られたが、分割・民営化後初の夏季手当(夏一時金)において、多くの国労組合員がマイナス5%査定されている理由を聞きに行ったら、処分されたという事件まであった(『国鉄新聞』87年8月21日号)。
  「高知電気区の国労組合員が夏季手当カットの理由を聞きに行ったところ、区長は答えなかったばかりか、8月3日に、この組合員5人に訓告1人・厳重注意4人の不当処分を通告してきた。
 さる7月3日、同電車区の国労組合員5人のうち3人の夏季手当が5%カットされていた。すぐ理由を聞きに行ったが、区長不在で助役にその旨を伝えた。同月6日、勤務時間終了後に5人がそろって区長に説明を求めたが、区長は理由をいわず、『用がすんだら帰れ』と繰り返すだけ。8日には、異例にも四国本社から総務部長、勤労課長らが電気区にきて点呼に立ち会った。
そして8月3日、人事課長と電気課長が来て訓辞を行ったあと、5人全員に処分を通告した。理由は、①集団で減額理由の説明を求め、管理者の退去命令に従わなかった、②国労バッジを着用していた--こと。……」

続く
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国鉄労働組合史 203

2011-06-18 10:00:00 | 国鉄労働組合史
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第四章 JR体制への移行と国労の闘い

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第二節 新会社への職員採用差別・配属差別と配転・出向攻撃
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├○二 配転・出向などの国労攻撃│
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 国労東京地本などにおける出向差別の実態

 つぎに出向差別の事例としてJR東日本の東京圏運行本部における出向人員の系統別・組合別実態をみてみると、会社発足直後の第一次出向(6月18日?30日)の場合、全体で34人の発令が行われ、そのうち国労組合員が30人(運転系15人、施設系15人)、鉄道労連組合員3人(施設系1人、営業系1人、その他1人)、鉄産労1人(電気係)となっていた。
 これらの人たちは、どんな会社に出向を命ぜられたのか。東京地本の調査によれば、おおよそ次のようになっていた。
 まず国労運転士の15人は、鉄道弘済会横浜・小田原・上野・大宮・宇都宮・新宿・立川営業所、国鉄車両整備(株)、エスビー・コマース、みなみ開発(株)などへ出向を命じられ、国労施設系の15人は、(株)井上工業所、渡辺電気制作所、潤生興業(株)、東鉄工業(株)、双葉工業(株)、大日本土木工業、福進工業、ユニオン土木(株)、名工建設(株)、旭工業(株)、坪井工業などへ出向を命じられた。労連組合員の3人は、施設系が双葉工業(株)、営業系が日本観光旅館連盟、助役が東京テレメッセージへ、鉄産労の1人は東京テレメッセージへ出向を命じられた。
 さらに第二次出向(7月1日?7月30日)の場合は全体で74人であったが、そのうち国労組合員52人(運転系20人、施設系7人、営業系24人、その他1人)、鉄道労連組合員13人(施設系2人、営業系4人、管理者などその他7人)、鉄産労組合員8人(営業系6人、車掌2人)、未加入1人であった。
 これらの状況から一目でわかることは、出向を命じられた者の中では最大組織の鉄道労連組合員よりも国労組合員の方が決定的に多いということであり、しかも運転系(運転士)で出向を命じられたのは国労組合員だけであり、他の組合の運転系組合員は1人も出向者を出していないということであった。このデーターからだけでも、選別と差別の出向攻撃がいかに国労組織を狙い打ちしていたかは明確であった。これらの事態は、もとより東京に限られたことではなかった。
 さらに、JR体制発足から2年近くの間に北海道や九州からいわゆる「広域採用」が3回行われ(本章第7節1参照)、それら採用者はもとより国労組合員がほとんどであったが、本州JR各社に採用された者たちを待ち受けていたのは、即出向の発令であった。たとえば、国労東日本本部が調査した第3次広域採用者の即出向のケースは、89年6月1日現在で次のような数字になっていた。
 すなわち、第3次広域採用で東京・千葉・水戸・高崎に配属された者は合計で510人あったが、それらの組合別人員は、国労464人、全動労34人、鉄産労7人、未加入5人となっていた。
これらのうち即出向を命じられた者は422人(82・7%)にも及び、その組合別人員は国労389人(92・2%)、全動労28人(82・4%)、鉄産労2人(28・6%)、未加入3人(60%)であった。
 このような実態について、国労東日本本部は5月から6月にかけて、東京地本関係の横浜・国府津分を神奈川地労委に、神奈川所在職場組合員をのぞく180人分を東京都労委に、千葉地本関係は電気職場に発令された人を除いて千葉地労委に、水戸地本関係は病気で赴任が遅れた1人を除いて茨城地労委に、高崎地本関係は群馬地労委にそれぞれ救済の申し立てをおこなった。
 他方、労働者とその家族にとって、自分が望んで入った会社とは別の会社に「出向」させられることが、どんなに不安なことか。
国労新幹線協議会は、出向問題でJR東海会社が団体交渉に応じようとしないので東京地労委に救済申し立てを行っていたが、87年7月20日の審問の中で出向内定者の妻が次のような文章(要旨)を読んで、公益委員に家族の不安を訴えた(『国鉄新聞』87年7月31日号)。

  「うちの主人は最近ついていません。去年の秋からのことです。
 いきなり浜松へ1カ月も送られ、家族は離れてしまいました。
 私は群馬の田舎へ帰っていました。主人は私と子供に会いに毎週、高いお金を払って、やってきました。やっと戻ったら今度 は『人活』に入れられてしまったのです。そして半年の間、従来の検査の仕事に戻れることを願い、いやな仕事もがまんして頑張ってきました。そして4月になり、東海会社に残れて安心したのもつかの間、新会社でも検査の仕事につけず、警備の仕事につかされたのです。朝日新聞に載った『第2の人活』です。
 子供たちにとって、新幹線はあこがれの的です。うちの子も、もう少し大きくなったら『おとうさんは新幹線の仕事をしてる んだよ』とみんなに自慢するだろう、と思います。その自慢の仕事から、もう1年近くも遠のいています。
 そして新たに起こった最悪の試練が『出向』です。今までになく本当に不安の毎日が始まりました。出向先はスズキ自動車の営業所です。行くとなればスーツを買い、スズキの車も買えと言っているそうです。そんな、ばかばかしいことを毎日、上司から言われるそうです。家族も不安でいっぱいです。組合の代表と、くわしいことまで決めていただきたいと思います。出向の期間はどうなっているのでしょうか。出向が終わった後、元の職場に戻れるのでしょうか。
  どうか、お願いです。これ以上私たちをいじめないで下さい。
 そして、子供の夢である青い新幹線の職場に戻してやって下さい。これ以上の差別はやめて下さい。」

続く
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国鉄労働組合史 202

2011-06-17 15:00:00 | 国鉄労働組合史
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第四章 JR体制への移行と国労の闘い

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第二節 新会社への職員採用差別・配属差別と配転・出向攻撃
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┌───────────────┐
├○二 配転・出向などの国労攻撃│
└───────────────┘

 配属差別は、JR体制発足にあたって事業の中枢部門から国労組合員を排除し、それらの職員を「兼務」という名のもとに本来業務とは関係のない仕事につかせた。つづいてJR会社などは、その発足後も国労組合員を狙い打ちにして、配転と出向を強行した。その根拠はJR会社などが一方的に作成した新就業規則によるもので、その実態は?国労いじめ?以外のなにものでもなかった。
 東日本旅客鉄道株式会社就業規則第28条は、その第1項と第2項で次のように規定している。
 ① 会社は、業務上の必要がる場合は、社員に転勤、転職、昇職、降職、昇格、降格、出向、待命休職等を命ずる。
 ② 社員は、前項の場合、正当な理油がなければこれを拒むことはできない。
 もともと国鉄時代にあっては、ここ数年の異常な国労攻撃の時期を除けば、長年の労使関係のもとで転勤等について本人の意思に反した強制は行われないのが実態であった。また批判の強かった派遣等の三項目についても、本人の同意は最低限の要件とされてきた。それが新会社などでは、出向、待命休職など本人の地位と生活に重大な影響をもたらす人事についても、本人の意思を無視して強行してきたわけである。これらもまた、配転差別、出向差別の不当労働行為として各地の労働委員会に救済命令の申し立てが行われ、そのほとんどが認められた。

 「配転」の名による?国労バラし

 すでに不当配転によって有楽町駅構内のJR直営店《どんぶりっ子》の要員にされていた国労組合員は、地元商店街の反対運動などで7月開店予定が秋頃まで延期になったのをうけて、またも配転にさらされた。それは、人を人とも思わぬ会社側の「配転」事情を如実に物語っていた。
 この店の店員として5月2〇日から配属され、見習い修行をさせられていた国労組合員3〇人は、JR東日本会社の関連事業部から「開店を当分延期する」との発表をうけて、7月31日付(2人は先に14日付配転)でまたも別の職場へ飛ばされることになった。この2カ月間でようやく国労としてまとまり、地元商店街や国労有楽町駅分会の開店反対運動との連携もとれてきた矢先であった。3〇人は、東京・上野・川崎など七つの駅の『大清水』へ7人、『旅路』へ7人、『アメリカンポテト』へ6人、『品川どんぶりっ子』へ6人、品川~大船間の各『旅路』へそれぞれ1人というように、再びばらばらにされてしまった。その中の1人である車両検査のベテランは、前年3月に本務を外され、その後1年
4カ月の間に7回も職場が変わったが、これまでの「配転」について次のように語っていた(『国鉄新聞』87年7月31日号)。
  「2カ月ちょっとで転々させられたのでは仕事も手につかないし、仲間とゆうくり話し合うこともできない。5月2〇日に兼 務発令で、ここに強制配転。研修と称して皿洗いなどをやらされているうちに、当分開店できないからと、東京駅の『大清水』行きだ。会社の経営上のミスで開店できなくなったんだから、 その責任からもオレたちをもとの職場に戻すのが筋だ。私は蒲田電車区だが、分会員114人の中本務についているのは27人だけ。みんな大宮から熱海まで散り散りになった。東京駅だけでも6カ所に配属され、地区分会で班をつくり組合活動をしているが、機関紙も昼休みだけでは配りきれない。これからは、それぞれが働いている建屋ごとに活動体をつくるなどの工夫が必要じゃないか。」
 三鷹電車区では、国労組合員であるが故に本来業務の電車区に戻されない事例もあった。
 1987年3月の配属通知で国労三鷹電車区分会所属組合員8人が営業係「兼務」として駅勤務に配属されていたが、その後同年4月から11月にかけて3人が国労を脱退し、鉄道労連に加入した。すると翌88年11月の配転で、これら3人は「兼務」を免ぜられて三鷹電車区に帰ってきた。同時に、蒲田電車区や山手電車区、池袋運転区、拝島運転区から7人が三鷹電車区に配属されてきた。ところが、さきに国労を脱退した3人と一緒に「兼務」で配属されていた国労所属の5人は三鷹電車区に戻さないままであった。国労三鷹電車区分会は88年11月4日、このような組合所属で差別する不当労働行為に抗議するとともに、速やかに国労組合員の「兼務」を外し、三鷹電車区に配転するよう区長に申し入れた。

続く
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国鉄労働組合史 201

2011-06-17 08:19:34 | 国鉄労働組合史
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第四章 JR体制への移行と国労の闘い

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第二節 新会社への職員採用差別・配属差別と配転・出向攻撃
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├○三 採用国労組合員を差別的に配属│
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 新潟地本酒田支部で「第二の人活センター」へ配属差別

 国鉄当局は人事異動(配属)の発令を機に悪名高かった「人活センター」は廃止されたが、しかしこの分割・民営化に向けた人事異動の内容をみれば「第二の人活センター」が設けられ、国労組合員がそこに集中的に送り込まれている実態が明らかになってきた。国労酒田支部のまとめたところを、3月7日の『朝日新聞』(新潟版)が次のように報じた。
  「国労酒田支部が6日までにまとめたところによれば、今回新たに酒田駅に『開発担当』という仕事が設けられ、酒田駅や鶴岡駅(営業係開発担当)、酒田運転区(運転係開発担当)から計32人が配属になった。ところが酒田駅からの14人、鶴岡駅からの3人は全員国労所属、酒田運転区からの15人も国労が12人で、同管理局ない最大勢力の鉄労はわずか2人、これに次ぐ動労もたった1人。
  また運転区関係には『事業開発部管理課兼務』という発令もあり、酒田運転区で11人が同区にいながら同管理課を兼務、13人が新潟運転所や新津運転区に異動になり、同管理課兼務を命ぜられた。これまで人活センターに入っていた職員は、軒並み開発担当、管理課兼務となっている。新鉄管内では他の支部でも同じような状況だった。また鉄労にも『被害者』はいるが、協調路線に対する不満を抑えつけているのが実情のようだ。
  新潟鉄道管理局によれば、『開発担当』とは酒田駅など八つの連区駅に設けられ、特改(臨時の改札)、セールス、PR、物品販売、清掃作業にあたる。また管理課では、直営売店や国鉄用地を利用した駐車場の仕事をする、という。『東日本会社は輸送、旅行、開発(関連事業)の三本柱になっており、新鉄も早くからそれを重視している。関連事業は増収のため新会社にはなくはならない立派な本来業務で、適材適所で配置を決めた』という。
  しかし国労酒田支部はこれに反発。『開発担当、管理課とは、事実上、廃止したはずの第2の人活センター。国労の職場闘争でダイヤに影響が出ないよう、我々を余剰人員として輸送の本来業務から外し、国労つぶしを図っている』『異動対象者はほとんど酒田地区に家を持っており、新潟や新津まで通勤するのはとても無理。酒田運転区にも管理課兼務はあるのに、何故新潟まで飛ばされなければならないのか。予想以上の差別だ』と怒りをあらわにする。」
 このような理不尽な配属差別の実態は、全国いたるところの職場で見られた。国労本部は3月10日、このような不当きわまる差別、選別に対して「労働組合つぶしのために公共交通の使命である安全を無視したこのやり方は、まさに国家的不当労働行為である。国労は、人命と輸送の安全を守り、日本の平和と民主主義を守るためにも、国鉄当局の暴挙に断固抗議する」との声明を発表した。

続く
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国鉄労働組合史 200

2011-06-15 10:00:00 | 国鉄労働組合史
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第四章 JR体制への移行と国労の闘い

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第二節 新会社への職員採用差別・配属差別と配転・出向攻撃
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├○三 採用国労組合員を差別的に配属│
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 東京地本における配属差別の実態

 東京地本の場合、南局の電車運転士は弁天橋に30人、東神奈川に74人、大船に64人、国府津に31人、伊東に30人いた国労組合員全員が職場から追い出され、電車のハンドルを握る国労組合員はゼロになった。東京都内では、田町、蒲田、山手電車区に国労組合員の運転士が計162人いたが、運転業務に残されたのはわずか13人にすぎなかった。ハンドルを奪われた国労の運転士は、うどん屋、コーヒーショップ、DPEなどを扱う「事業部」へ、またオレンジカード売りやセールス、ラッシュ時の尻押しなどを行う「要員機動センター」へ回された。
 こうした実態を、当日3月10日の『朝日新聞』夕刊は、九州での場合も含め次のように報じた。
 「国鉄新会社の職員の勤務先が10日、事実上決まった。が、新しい職場に胸をときめかす人がいる1一方で、思いもよらぬ配属に動揺を隠せない職員も少なくない。特に、国労(六本木敏委員長)所属の組合員に目立ち、神奈川県・大船電車区では、運転士64人の全員が現在の仕事を続けられなかった。今月1日に念願の運転士になった東京・蒲田電車区の若者3人も他の職場に配属され、ハンドルは握れない。九州では、遠隔地に配属されたことなどで新会社の採用を辞退する人も目立つ。『組合間差別がひど過ぎる。最後の国労つぶしだ』と、国労の反発は強く、新会社が最初から抱え込む火ダネとなりそうだ。
  『運転士64人の中一人も今の職場に残れなかった。23年間、横須賀線の運転士をやってきた私の配属は、東日本会社の事業部。直営売店のソバ店とか書店に回されるかも知れない。
 無事故で運転してきたことを唯一の誇りに生きてきたのに……』国労大船電車区分会のM書記長(44)は憤慨した表情で話した。ハンドルを奪われた運転士の配属先は、事業部や要員機動センターなどがほとんどだった。事業部は、直営売店の経営など鉄道業務以外の仕事を行うところで、要員機動センターは仕事の忙しい職場に応援に出る職員を集め、出改札やホームの整理などの仕事にあたる。電車の安全運行を担ってきた男たちにとっては、つらい配属だ。
  国労蒲田電車区分会でも、67人の運転士のうち、この電車区に残れたのは2人だけ。事業部や要員機動センターへ回された人が多く、今月1日に晴の運転士の資格を得たばかりの若い3人も、事業部行きを命じられた。鉄道学園で5カ月間勉強したあと、4カ月に及ぶ見習い訓練を経てようやく手に入れた資格だっただけに、ショックは大きい。その一人、Hさん(23)は『なんで、僕がこんな目に。母親は、ショックで寝込んでしまった』と言葉少なに話す。
  新会社の採用率が低かった九州の国労は、振り分けに続いて、配置転換でも遠方への配転が相次ぎ、"ダブルパンチ"を浴びた格好だ。
  3日付で北九州市の門司電力区から、佐賀県鳥栖市の鳥栖電力区へ配転になったAさん(42)は自宅から通えないため、単身赴任を決めた。『他組合の職員が遠方へ配転になった、という話は聞かないので、国労だから飛ばされたとしか思えない。
 逆に、佐世保から門司に配転を命じられた人もいるのだから、意図的なものを感じざるを得ない』と話す。
  こうした配転を発令されて、新会社の採用辞退を考えている職員も多い。国労門司地本だけでも5、6十人に達した。
  国労水戸地本では、3日に内示があった十日付人事で、国労組合員約200人のうち、130人余りの異動内容を不満として9日、抗議集会を開いたほか、水戸鉄道管理局に、発令取り消しを申し入れた。
  原ノ町保線区から水戸工事区に異動となったNさん(40)の場合は、始業時に間に合うためには、福島県広野町の自宅を 午前5時過ぎに出なければならない。水戸駅まで2時間半以上、往復で6時間近くかかってしまい、『自分の時間がなくなってしまう』という。管理局は、宿舎を準備するとしているが、自宅に母親一人と妻子3人の計4人を抱え、さらに地域の土地改良区の総代なども努めており、『転居はできず、とにかく通うしかない』と、頭を抱えている。しかし、こうした配属について国鉄当局は、『適材適所の人事異動を行ったものだ。所属組合による差別はない』と答えるばかりだ。」

続く
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国鉄労働組合史 199

2011-06-14 10:00:00 | 国鉄労働組合史
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第四章 JR体制への移行と国労の闘い

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第二節 新会社への職員採用差別・配属差別と配転・出向攻撃
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┌─────────────┐
├○二 選別と採用差別の実態│
└─────────────┘

九州における選別と差別の実態

 九州全体での不採用者は2700人もあったが、そのうち国労組合員は1683人(62%)であった。採用された割合を組合別にみると、門司地本では意思確認書を提出した2451人から国労組合員1112人(採用率55・6%)が採用され、熊本地本では鉄道労連が99・2%、鉄産労67・9%、国労14・3%の採用率、大分地本では鉄道労連が99・9%、鉄産労92・6%、国労24・1%の採用率、鹿児島地本では動労、鉄労が100%採用であったのに対して九産労が84%、国労は28%、という状況であった。
 九州での選別と差別採用の特徴としては、門司地本では国労分会役員401人のうち採用されたのは71人でしかなかったこと、熊本地本で採用状況がもっともひどかったのは大牟田駅連合分会が5%、熊本客車区分会10%、大牟田保線区分会13%であったことなどが指摘できた。さらに、大分地本では運輸長表彰6回、営業部長表彰1回の優秀な職員(国労組合員)が清算事業団行きになっていた。
 鹿児島地本の場合、国労組合員で国労指令の行動以外に処分歴のない者が人活センターに配属されて不採用となったのに対し、停職4カ月などの処分歴のある九産労の組合員が採用されたケースがあり、都城人活センターには全員国労組合員が配属されていたが、その36人中採用されたのは2人だけで、しかもその2人は長期病欠者と遠隔地採用者であった。また、鹿児島電通分会では九産労、動労、鉄労の組合員は100%採用され、新会社希望の国労組合員7人から1人だけ採用されたが、この人は2月1日に九産労からの復帰者で、内命の時に区長が「君は国労だったのか」
といったという。

┌─────────────────┐
├○三 採用国労組合員を差別的に配属│
└─────────────────┘

 国鉄「分割・民営化」の過程でくりひろげられた新会社等への選別・採用差別は、〝国労つぶし?を狙った人件侵害をともなう国労攻撃であったが、新会社等へ採用された後の国労組合員に対する攻撃もまた、理不尽な配属差別、人を人とも思わぬ配転・出向の連続攻撃であった。1987年3月になると、3日から新会社移行へ向けて人事異動(新会社採用職員の配属)の内示が始まった。それらは3月10日発令で、国鉄当局は16日から、4月1日発足の新会社など11法人に採用された約20万1000人の一般職員に、新会社などにおける仕事の内容や給与などを記した配属先通知書の手交を開始した。
 それらの内容をみてみると、明らかに〝国労つぶし?を狙ったきわめて意図的な選別と差別が行われていた。すなわち国労組合員に関しては、異系統への配属、国労支部・分会役員はほとんど他の職場へ配属、人活センターに収容されていた者には「事業部兼務」の名が与えられ、新たな「人活センター」に集中された。
とくに運転関係はひどく、国労組合員のほとんどが本来の運転業務から外されていた。

続く
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国鉄労働組合史 198

2011-06-13 10:00:00 | 国鉄労働組合史
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第四章 JR体制への移行と国労の闘い

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第二節 新会社への職員採用差別・配属差別と配転・出向攻撃
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├○二 選別と採用差別の実態│
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 北海道における選別と採用差別の実態

 北海道全体における新会社等への採用状況は、採用通知が行われた段階では〈表4-1 別揚〉のようになっていた。
 北海道には国労組織四地本(釧路、旭川、札幌、青函)あるが、まず釧路地本での国労組合員の採用率は22%にしか及ばず、改革労協(鉄道労連)や鉄産労が100%採用で、残りに国労組合員を採用したという実態であり、組合所属による選別は明らかであった。誰がみても業務上、知識、実務、技術などすぐれていて指導的立場にある職員が、国労組合員であるが故に不採用となっていた。同一職場で夫婦そろって清算事業団に配属されたケースもみられたが、釧路地本の各職場では国労からの駆け込み脱退者(年末から新年2月にかけて)をすべて新会社に採用しているという特徴がみられた。次の「声」は、釧路地本組合員からの発言である。
 ▽ Oさん(45歳、検査係兼学園講師) 「北海道と貨物を希望し不採用となり、清算事業団行きとなりました。職場では多くの職員を教える立場で、まじめにミスもなく、一生けん命働いてきました。まさか残れないとは思ってもみませんでした。『私だけが残ればいい』とは思ってはいませんでしたが、子供3人、家族、学校の関係など『国労』の名だけで、こんなにひどく差別されていいのでしょうか。許されないと思います。」
 ▽ Sさん(52歳、検査係) 「私は清算事業団行きとなりました。34年勤めて仕事のミスもなく、まじめに働いてきました。多種の車の修繕をするための養成をし、北海道に残れると思っていました。家もあるし家族もいます。振り分けがどんな基準か問題があります。国労という名前だけで差別される実態をみたとき、原がたつやら悩みました……。本当に安全な輸送ができるのでしょうか。」
 ▽ Kさん(45歳、事務係) 「私は事務職です。北海道と貨物と東日本と希望しましたが、まさか東日本の通知をもらうとは思いませんでした。仕事のミスもなく、かえって私以上にミス等が多い人が北海道に残れたのです。毎晩友だちと飲み歩きました。かえりをまつ妻は一週間悩んで、精神病院にいってみてもらいました。精神安定剤をもらいやっとおちつきました。妻と5日間話し、釧路の雇用状況を考え、2年間単身でいくことを決めました。学校、地域の関係等、2年後は家を売りはらい家族がきます。国労の名のもとの差別は許せないと思います。」
 旭川鉄道管理局内で2月16日の採用通知を受けたのは、国労組合員2676人中891人であり、退職予定者を除いても1487人が不採用となっていた。改革労協の方は、組合員1705人中採用通知を受けたものは1517人で、退職者を除くと10人程度不採用となっただけであった。また、組合役員についてその採用状況をみてみると、国労の分会三役は28・7%、支部三役は13・3%、職協三役は37・5%、地方本部役員0%で、役員全体では28・5%にしかならない。これに比べて、改革労協の組合役員は全員が採用されており、とくに動労地本書記長などはかつて解雇処分が出された経歴をもっていたが採用されていた。
 旭川管理局総局長は「必要な人材を必要な箇所に配属するためであり、選別・差別は行っていない」と報道関係者にコメントしていたが、国労旭川地本は次のような事実をあげて反論した。

① 保線区関係で資材隠しを行い、処分された組合員・管理者が採用となっている。

② 宗谷本線において昨年11月17日、機関士及び車掌が信号機の確認取扱いの間違いをおかし、本社に報告され処分も減給と通知された。しかし、動力者乗務員は採用、車掌は不採用となっている。

③ 浜頓別管理室は定員12人であるが、採用されたのは国労1人、施労2人であり、不足9人は他職場から配転させることになる。職場上状況もわからない職員が来て、重要な線路保守体制は確立されない。

④ 職場別にみると、改革労協組合員は新会社及び公的部門にほとんどが内定している事実は、選別・差別以外のなにものでもない。


 国労組織としては北海道内で最大の地本であった札幌地本は、1月下旬に鉄産労の旗上げがあって多くの脱退者を出した。札幌管内での採用状況は、改革労協が95%、鉄産労が79%、国労は59%(苗穂工場を除くと40%)で、所属組合による差別・選別は明確であった。国労から分裂して約2800人で鉄産労を結成し、彼らは直ちに「雇用安定協約」と「労使共同宣言」を締結していたが、結果的には約600人が清算事業団行きとなった。
そうした中で特徴的だったのは、鉄産労では専従役員6人(元国労専従)全員と、元国労専従経験者10人全員が採用されていたことである。
 青函地本では、意思確認書を提出した者について採用されたのは国労641人(69・5%)、全動労2人(16・7%)、その他の組合1507人(99・3%)となっており、不採用者は国労282人、全動労10人、その他の組合10人であった。ここでも国労と全動労の組合員が選別・差別されていることははっきりしていたが、前年夏の多能工化教育という一カ月程度の研修を受けて、保線、駅、電気、建築、工場、船舶に配置された動労組合員は全員採用されていた。ある工場(五稜郭車両所)では部品職場に配置された動労組合員6人は1人では何もできず、使い走りや見習いをしていたのに全員採用になり、技術を持っている国労組合員で新会社希望者20人からは9人が不採用になった。この不採用者9人のうち6人は組合役員であった。このような事例は、他の職場でも同様であった
 

続く
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国鉄労働組合史 197

2011-06-12 10:00:00 | 国鉄労働組合史
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第四章 JR体制への移行と国労の闘い

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第二節 新会社への職員採用差別・配属差別と配転・出向攻撃
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├○二 選別と採用差別の実態│
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 国鉄当局の作った「採用候補者名簿」をもとに新会社などへの採用通知が始まったのは、1987年2月16日からであった。
運輸省は当初、国鉄清算事業団に残る職員数は4万1000人と見込んでいたが、この段階では多くても3万5000人、最少の場合は2万6000人と予測していた。国労本部が2月20日現在で集計調査した結果によると、北海道の不採用者4700人のうち国労組合員3200余人(68%)、九州では不採用者2400人のうち国労組合員1550人(57・4%)、定員割れの本州・四国でも約80人といわれる不採用者のうち国労組合員64人(80%)であった。これら本州・四国では労働処分歴のある組合員が不採用になっており、人活センターに配置された組合活動家の不採用が目立った。
 国労以外の労働組合については、2月20日『朝日新聞』朝刊が次のように報じていた。
  「鉄産労は北海道で5百5十2人、九州で409人、西日本で1人がそれぞれ不採用になった。東海は集計が遅れているが、これまでのところ採用率は北海道でも80%、九州では87%を確保でき、東日本、西日本、四国を加えた全体の採用率は9割を超えた。
 鉄道労連は、鉄労、動労など加盟組合の地本ごとにまとめたが、不採用者は全国で病気などを理由とした29人だけで、採用率はほぼ100%で、『組合員の雇用確保は完全に達成できた』との談話を発表した。」
 国労本部は20日、このような差別と選別の実態を厳しく指摘しつつ、要旨次のような「抗議声明」を発表した。
  「……こうした事実は、107国会参院付帯決議を真っ向から否定し、国労を敵視したもので、とうてい容認できるものではない。われわれは断固として抗議する。
 育ち盛り子供や年老いた両親をかかえた組合員・家族が受けた精神的・肉体的苦痛ははかり知れない。ここ数年、全国の職場で行われた人件侵害、差別等により100人近い労働者が死に追いやられたことへの反省の色さえない。しかも熟練労働者を放逐するなど公共交通の最大の使命である安全輸送の確保などまったく考慮しない国労つぶしのための差別・選別だ。
  われわれは、差別・選別を許さず全組合員の雇用を守る闘いを、裁判闘争などあらゆる闘争を通じて、反首切り・反失業、政治反動化阻止等の諸課題と結合した広はんな勤労国民の怒りを総結集して、全国民的闘いへ発展させるべく不屈に闘い続ける。」
 

続く
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国鉄労働組合史 196

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第四章 JR体制への移行と国労の闘い

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第二節 新会社への職員採用差別・配属差別と配転・出向攻撃
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├○一 醸成された「雇用不安│
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 これまで述べたことと重なるが「雇用不安」がいかに作り出されてきたかを明らかにするために、もう一度振り返ると次のようになる。国鉄において「余剰人員」という言葉が使われるようになるのは、いわゆる35万人体制(経営改善計画)から32万人体制への計画変更の中で、1984年6月5日に発表された「余剰人員対策」あたりからであろう。このときの「余剰人員調整策」は、退職・休職・派遣(出向)のいわゆる「三項目」の具体的提案(同年7月10日)であり、これをのまなければ年来の「雇用安定協約」を破棄するという脅しつきであった。現に国鉄当局は、10月10日になって動労、鉄労、全施労とは妥結し、国労には11日に雇用安定協約の破棄通告を行った。国労が、公労委の場も利用しながら"辞めない・休まない・行かない"の三ない運動を背景に交渉をつづけ、公労委仲裁裁定にもとづきこの問題を妥結し、雇用安定協約の存続(85年11月30日まで)を合意したのは翌85年4月9日のことであった。そして国鉄当局は6月1日、総裁を本部長とする「余剰人員対策推進本部」設置した。
 この年(1985年)7月26日の国鉄再建監理委員会最終答申『国鉄改革に関する意見』は、国鉄分割・民営化後の適正要員規模を18万3000人と設定し、約9万3000人が「余剰人員」となるとしていた。つまり、それまでにも国鉄は貨物合理化をはじめダイヤ改正のたびに要員削減を伴う縮小・再編「合理化」を積み重ねて「余剰人員」をつくり出してきたが、ここへきてさらに国鉄分割・民営化に向けた「余剰人員」対策を具体的に提起してきたことは、国鉄に働く労働者のあいだに「雇用不安」をいだかせた。そして11月30日、国鉄当局は国労との雇用安定協約の継続締結を拒否し(動労、鉄労、全施労とは継続)、さらに配置転換に関する協定第三項(本人の意思に反する免職及び降職は行わない)の削除を一方的に通告した。こうした経過は、とくに国労組合員の「雇用不安」を大きくした。
 この間、"一人の首切りも許さない"を合い言葉に「余剰人員」攻撃と闘ってきた国労に対し、今度は「労使共同宣言」への同意を求めてきた(86年1月13日)。それには余剰人員対策としての派遣制度・退職勧奨の推進、希望退職も目標達成に積極的に取り組むことなどが含まれていた。国労はその場で拒否したが、動労、鉄労、全施労はそれに同意した。
 国労組合員への「余剰人員」攻撃はさらにつづいた。1986年3月4日、国鉄当局は分割・民営化により大量の余剰人員が生じることになる北海道と九州から東京、大阪、名古屋への異動者を募る「広域異動」を提案してきた。この問題に対する国労からの団交申し入れについては「管理運営事項」だとして応ぜず、同月20日、当局は広域異動者の募集を開始した。しかも北海道や九州の職場では、応募しない労働者への管理者による強制・強要が行われた。5月21日には国鉄改革関連法案第1号である「希望退職法案」が成立し、6月30日から第一次希望退職者募集が始まった。さらに、7月に入ると「人材活用センター」への"収容"が主として国労組合員(配置者の81%)を対象にすすめられ、8月には第二次広域異動者の募集が行われた。
 他方、「労使共同宣言」組合は広域異動に応じ、その過程で鉄労書記長などは「鉄労組合員3万2000人は新会社に座席指定を確保した」と語り(『京都新聞』3月9日号)、また動労第42回定期全国大会(7月8日~10日)で動労委員長は「動労組合員の雇用を守るたたかいは完全に勝利した」と述べ、この大会に出席した杉浦国鉄総裁は「動労の華麗な転身が国鉄改革の推進力ともなっている」と挨拶した。8月27日には第二次「労使共同宣言」が締結され、ついで国鉄当局は80年秋スト権スト202億円損害賠償請求訴訟のうち動労についてのみ取り下げた(9月3日)。
 こうして、"国労組合員は新会社には採用されない""国労を抜ければ新会社に残れる"などの話が職場で陰に陽に語られる雰囲気が醸成され、この時期(7月~12月)の国労脱退者は退職者を除いても毎月1万人以上を数えた。このような「雇用不安」をテコとした国労組合員に対する攻撃が何を狙っていたのか、そして国鉄の分割・民営化過程で選別と採用差別が強行された意図は何だったのか。そのあたりの背景について、国鉄改革関連法案の衆議院採決をひかえた10月2日の『朝日新聞』朝刊は、次のように書いていた。

  「自民党は、国鉄の分割・民営化の流れの中でもがく国労の動向を息をつめて見つめている。……
  自民党は国労への攻撃をやめようとはしていない。9月十9日、党本部で開いた党国鉄改革素新本部(本部長・中曽根首相)の初会合では、記者団を締め出したあと本部長代理の三塚氏が『安易に組合と妥協するな』と関係者に檄(げき)をとばした。
 自民党側からすれば、ここは徹底的に攻めまくるチャンスという判断だ。……『革命をめざす階級的労働運動を解体させる』(国鉄改革委理事)という自民党の狙いは変わっておらず、『国労つぶし自体が狙いなのではなく、政治闘争至上主義の左派を国鉄改革の障害として排除する』(大坪健一郎労働部会長)という。
 やっかいなのは、左派排除と余剰人員問題がからんでいることだ。今年2月25日に開かれた自民党国鉄関連合同会議の秘密会で、自民党側から『むちゃくちゃな連中が新会社に入ると(組織拡大の)足がかりされる』などの注文をし、杉浦国鉄総裁に『新会社を健全で明るい健康体にしたい。そのために、悪い職員が新会社に移ることについては遠慮してもらう』と左派系組合員の切り捨てを約束させているが、これには相当の抵抗が予想される。」

続く
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国鉄労働組合史 195

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第四章 JR体制への移行と国労の闘い

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第二節 新会社への職員採用差別・配属差別と配転・出向攻撃
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 国鉄を分割・民営化し、その従業員らを新事業体に移行させるについては、国鉄改革法第23条は、まず国鉄が国鉄職員から新会社等の新事業体への採用を希望する職員を募集し、それら応募者の中から採用基準に従って職員となるべきものの名簿をつくり、その名簿の中から新事業体の設立委員等より採用通知を受けたものが新事業体の職員として採用されることになるという、はなはだ手の混んだ手続きを採った。要するに、国鉄職員は全員いったん解雇し、それらの中から必要な職員だけを採用するという仕組みである。新事業体の募集する人員は、全体としてみると現役の国鉄職員数よりは少なく、とくに北海道と九州の新旅客鉄道会社の募集予定人員は少なく、多くの不採用者の出ることが見通された。
 この規定は、立法過程でも国会その他で議論をよんだ。問題はなぜ国鉄の分割・民営化にあたってこのような手の混んだ手続きが採用されたのかということである。議論の中でもっとも強く指摘されたことは、採用にあたっての職員の選別であり、この方法が国鉄改革=分割・民営化の主目標とみられた?国労つぶし?に利用される可能性であった。政府答弁ではもちろん、そのような意図はまったくないとされ、また国鉄改革法成立にあたっても付帯決議がそのことを否定していた。しかし、この問題の規定の執行過程は、国労を敵視した選別と採用差別以外のなにものでもなかった。そのことは、国労組合員の不当労働行為救済申し立て事件において、すべての労働委員会が認めたところであった。
 いま一つ看過できないことは、1986年12月から翌87年3月にかけて、新会社などへの採用を希望する国鉄職員の中から「採用候補者名簿」を作成し、採用通知と配属先通知が行われた時期こそ、国労が大規模な組織分裂に見舞われつつあったさなかであり(本章第4節参照)、この国労分裂は一見いわば「労・労問題」のようであったが、分割・民営化をすすめる側はこの状況を国労つぶしの目的のために最大限利用したという点である。

続く
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国鉄労働組合史 194

2011-06-09 10:00:00 | 国鉄労働組合史
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第四章 JR体制への移行と国労の闘い

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第一節 国鉄分割・民営化関連法の成立と新会社への移行準備
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┌─────────────────┐
├○三 新会社の設立と国鉄清算事業団│
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 新たに設立された旅客・貨物会社などの概要

 国鉄の分割・民営化による4月1日の新会社発足(事業開始)をひかえ、3月23日から25日にかけて各会社の創立総会が開かれた。その資本金額と営業キロ、承継資産額、引き継ぎ債務額と経営安定基金、会社代表および発足時職員数などの概要、そしてすでに発足していた鉄道通信会社やその他の法人などの概要は次の通りであった。(新会社等発足直前の国鉄「承継実施計画」、政府「経営見通し」等による)

 ◇北海道旅客鉄道株式会社(創立総会 3月23日)
   資本金    90億円
   営業キロ 約2542キロ
   承継資産 2932億円
   安定基金 6八22億円
   役 員  会長 東条猛猪(北海道拓殖銀行相談役)
        社長 大森義弘(国鉄北海道総局長)
   職員数  1万2719人(欠員2八1人)
 ◇東日本旅客鉄道株式会社(創立総会 3月23日)
 資本金  2000億円
   営業キロ 約7657キロ(新幹線八35キロを含む)
   承継資産 3兆八705億円
   引継債務 3兆29八7億円
役 員  会長 山下 勇(三井造船相談役)
        社長 住田正二(運輸経済研究センター会長)
   職員数  八万2472人(欠員3790人)
 ◇東海旅客鉄道株式会社(創立総会 3月24日)
   資本金  1120億円
   営業キロ 約19八4キロ(新幹線553キロを含む)
 承継資産 54八5億円
   引継債務 3192億円
   役 員  会長 三宅重光(東海銀行取締役相談役)
        社長 須田 寛(国鉄常務理事)
   職員数  2万1410人(欠員3790人)
 ◇西日本旅客鉄道株式会社(創立総会 3月24日)
   資本金  1000億円
   営業キロ 約5091キロ(新幹線646キロを含む)
   承継資産 1兆3122億円
引継債務 1兆0159億円
   役 員  会長 村井 勉(アサヒビール会長)
        社長 角田達郎(モノレール・エージェンシー
               取締役)
   職員数  5万1543人(欠員1八57人)
 ◇四国旅客鉄道株式会社(創立総会 3月25日)
   資本金    35億円
   営業キロ 約 八八7キロ
   承継資産 1144億円
安定基金 20八2億円
   役 員社長 伊東弘敦(国鉄常務理事)
        相談役 山口恒則(四国電力会長)
   職員数  4465人(欠員435人)
 ◇九州旅客鉄道株式会社(創立総会 3月25日)
   資本金   160億円
   営業キロ 約2101キロ
   承継資産 3491億円
安定基金 3八77億円
   役 員  会長 永倉三郎(九州電力会長)
        社長 石井幸孝(国鉄九州総局長)
   職員数  1万45八9人(欠員411人)
 ◇日本貨物鉄道株式会社(創立総会 3月23日)
   資本金   190億円
   営業キロ 約1万0011キロ
   承継資産 1632億円
引継債務  944億円
   役 員  会長 町田 直(元運輸事務次官)
        社長 橋元雅司(国鉄副総裁)
   職員数  1万2009人(欠員491人)
 ◇鉄道通信株式会社(19八6年12月9日設立)
   資本金    32億円
   引継債務 約360億円
   役 員  社長 坂田浩一(国鉄常務理事)
   職員数     563人(欠員7人)
 ◇鉄道情報システム株式会社(19八6年12月9日設立)
   資本金    10億円
   引継債務 約170億円
   役 員 社長 武藤良介(元国鉄九州総局長)
   職員数     275人(欠員5人)
 ◇新幹線鉄道保有機構(特殊法人)
   引継債務 約5兆6540億円
   役 員  理事長 石月昭二(元海上保安庁長官)
   職員数      5八人(欠員2人)
 ◇鉄道総合技術研究所(財団法人)
   役 員  会長  井深 大(ソニー名誉会長)
        理事長尾関雅則(元国鉄常務理事)
   職員数      545人(欠員5人)
 ◇日本国有鉄道清算事業団(特殊法人)
   承継資産 土地八八10ヘクタール(このうち3350ヘクタールが債務償還用)
   引継債務 16兆7795億円
        (分割・民営化した株式会社の全株を保有)
   役 員  理事長 杉浦喬也(国鉄総裁)
   職員数  事業団本来業務職員  2500人
        退職前提休職者    22八0人
        再就職先内定者  1万1250人
        再就職先未定者    7630人
        (未定者のうち北海道4242人
          九 州2335人)
         以上合計2万3660人が旧国鉄から清算事業団へ移行国鉄清算事業団(日本国有鉄道清算事業団)は、国鉄改革=分割・民営化にあたって①新たに設立された鉄道会社等に承継されなかった旧国鉄の「長期借入金及び鉄道債券に係る債務(国鉄長期債務)その他の債務の償還」と、やはり旧国鉄の「土地その他の資産の処分等」を適切に行うことによって、「改革法に基づく施策の円滑な遂行に資する」ことを目的にしていた。と同時に、②「臨時に、その職員のうち再就職を必要とする者についての再就職の促進を図るための業務」を行うことも目的としていた(以上、事業団法第1条)。すなわち、①の目的は、旧国鉄が所有していた土地などを運用・売却処分していわば旧国鉄の膨大な「赤字」を返済していこうことであり、②の目的は、新設された鉄道会社等に採用されなかった職員(清算事業団職員)の再就職を世話していこうということであった。

続く
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