森の声

 雨粒が あちらこちらに飛んで 

 街燈にも月にも光る、綺麗な夜

 

牛乳石鹸の匂い

2016年01月01日 | Daily
あけましておめでとうございます。

昨年は「普通」を意識して過ごそうと始めた年でした (女子力偏差値50は小目標) 。
昔から変な子と言われていたけれど、
ここ5年間は私にとって、いいこともそうでないことも
「当たり前ってなんだろうな」と考えずにはいられない大きな出来事があった。

ようやく心も身体も落ち着いたからには、
毎日のひとつひとつの出来事に
丁寧にきちんと誠実に謙遜に生きたいと思ったのでした。

おかげさまで(?)、思いきって今までとは違う行動をしてみたり
誰かの心に沿ってみたりすると
「知っていても知らないこと」に触れ、当たり前の視界や世界が豊かに膨らんだし、
そうして満たされると、怖かった変化もむしろ
驚くほど穏やかに自分の一部になったような気がします。

正直なところ、自分の内側と周辺のプライベートなところに集中していたので、
今年は、いただいたご縁や力をなんとか人のために還元できるよう、
手と足、良くない頭を惜しまず怠けず使えたらな、と思っています。
正しく役に立てる社会人にも戻らねば...。

かといって、私は昨日と今と明日の連続体でしかありませんから、
すぐに聖人にも器用な人にもなれません。
呆れるくらいの失敗もつじつまの合わない行動もたくさんすると思いますが、
どうぞ暖かく変わらぬお付き合いをよろしくお願いいたします。

2016もどうぞ(*´-`)ヨロピコ♪

実家でお風呂に入り、
牛乳石鹸のにおいに包まれると、とてもピュアだった頃に戻ったような気がする。

また新たな1年が始まったのだなぁ。


言葉の温度

2015年05月20日 | Daily
小説などとは別の話。
ちょっとしたメモだったり、メッセージなんかで
なんだかいいな、と思うものを書く人がいる。

何気なく読むものにほのかなあたたかさを感じる、というのは
人となりが浮き出ているからなのだろうか。

とはいえ、お人柄やその思想について、尊敬も好意も持っていても
書かれるものの持つ雰囲気が
会ったときの印象とまるで違う人もいるから、人間性だけではなさそうだ。

何が違うのだろう、とぼんやり考えていたのだけれど、
前者は、こちら側の言葉を使って内容の本質を伝えようとしてくれていて
(相手に理解させることがメインであり重要視している)
意外なことにロジカルな理系の教育者タイプの方に多く、
後者は、自身がこだわり選んだ言葉で主張内容を表現される傾向にあって
(相手が理解してくれることを前提に、表現の形を重要視している)
文系の学者肌の方に多い(友人はあてはまらないが)印象があるなぁ、と
いう風な気がする。

自分主体のものの読み方をする私の癖は(だから勘違いも多いのだけれど・苦笑)
「本質を」「相手に」「伝えたい」、そういうシンプルな形のない想いを持つ
いわゆる教育者肌の親に育てられた影響が色濃い気がする。

とても受け身な感覚優先で物事をとらえるからなのか、
理系の人と一緒にいると心休まり、のびのびしてしまうのはそのせいだろう
(理系学者系の人はこれまた後者タイプに近くて、感じが違う)。
言葉を選ばなくても感覚を共有できる(と思う)には、もちろん信頼が前提だけれども。

ところで、私は、表現発信する側としてはどっちの人間なのだろうか。
理系文系あちこちに興味を示す割にすべて中途半端な人間なので、
どんなふうに受け取られているか、ということには少し弱気なのである(笑)。


夏の背中

2014年09月08日 | Daily
今年の夏は雨で始まって、それからずいぶんと降ったものだから
夏の雨をすっかり体で記憶してしまった。初めてのことだ。

昨日の久しぶりの日射しは、暑さや眩しさを強く残していても
グイグイと生きものを引き上げることはもうしない。
どこか痛みを与えるような、乱暴なエネルギーを含んでいて
緑が、キュウ、と鳴くのが聴こえそうだった。

そんなふうに鳴きながらいくつもいくつも美しい曲線が視線を先回りして
夏の背中を引きとめて欲しそうにこちらを向くけれど、
朝夕の足先の冷たさが、それを許してくれそうもない。

     

朝干したシーツがいい匂いでからりとしたから
夏の背中を、トン、と押すように
そのまま仕舞って新しいシーツをおろした。

完全に満ちた月が窓の外に出ている時間、
確かめられずにまだ、カーテンを開けずいる。
ずっと観ていたいのは、雨に濡れた美しい曲線、夏の背中だとしても
抗えない時間の流れと不可侵な法則が、ある。

本当はもっと前に秋は始まっていたのかもなぁ。

私は正しい季節に、戻ってこられるだろうか。
日差しにも、雨にも、優しさを観て
ねじれず巡る季節の中に戻ってこられただろうか。

(絶賛迷子中・苦笑)

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気分に抗わずダラダラと聴いている曲を、2曲。
頭が回らない時は、クラシックでは想像の翼は広がらない(苦笑)。

秦基博「Rain」

名曲中の名曲なのです。
大江千里のオリジナルでも、槇原敬之のカバーでもなく
秦氏の抑え気味に歌う不器用なRainが、私のお気に入りなのです。
20年近くの付き合いになる作品だけれど…色褪せないシリーズだ。

Mr.Children「Sign」

 ♪緑道の 木漏れ日が 君にあたって揺れる
  時間の美しさと 残酷さを知る

甘そうで実はスパイスを忍ばせているあたり、
桜井氏の天才っぷりを感じる名曲である。

花火のあと

2014年07月12日 | Daily
よくないことを、した。

そして、私はしっかり分別ある大人になってから
この手の同じことを、繰り返している。(もはや誰にも情けなくて言えない・苦笑)

しかも、よくないこと、に対しての罪悪感ではなく
これでいいんじゃないの、とか
しょうがないのだから、だとかいう自分の考えの方に、
何日も眠れないようなダメージを受けている。

子どものころの、後ろめたい何かは
なぜかしっかりバレていていたり
見つからず叱られなくてもどこか落ち着かず
「神さまが、見ている」という抑止力、畏れがあった。

神さまは自分の中にいた。

誰にも叱られず、自分もどこかで許してしまう
大人の曖昧な罪悪感は、
何に対しての罪の意識なのだろう。

「神さまは、見ている」と思っても
手を伸ばさずにはいられないことがある。
神さまは、自分でないどこかで見ているけれど、
もう、止めてはくれなくなってしまった。

内緒で遊んだ花火のあと、すまして帰った玄関先で
仁王立ちで待つ父が大きくお尻をはたいたように
神さまは、いつか、驚くような大きな声で
私に「大ばか者!」と、叱ってくれるのだろうか。

そのとき、すっかり大人になった私は
私が悪かったです、もうしません、ごめんなさいと、
私の内側に向かって、心から素直につぶやくことができるだろうか。



トケイソウ

2012年09月29日 | Daily
妙なものをみつけるのがうまい、と、よく笑われるけれど
きれいな色やかたちに引き寄せられてしまうのだから仕方ない。

子どものころ、たとえば小学1年生になりたてのわたしは、
周囲のスピードにとてもついて行かれない、のんびりとぼけた子どもで、
ゆきのり君もどうやらまたそのようだった。

ずいぶんあとで知ったのだけれど、
通った幼稚園はモンテッソーリ教育を当時から取り入れていて、
なるほどわたしたちは狙い通りに成長していたらしい(笑)。

そんなわけで、妙に気があう(というかスピードに乗りきれない)二人は、
自然に遊び(というかのんびり行動)友達になっていた。

新しい家族がきたよ、と、誘われて遊びに行くたびに
巨大な秋田犬が「ばう」としっぽを振って迎えてくれたり、
籠でリスが頬を膨らませていたり、砂入りバケツにアリジゴクがいたりする。
水槽には亀やメダカ、金魚や熱帯魚がいて、ノソノソふらふらと寄ってくる。
お庭に出れば、季節のあらゆる花が溢れ、彼のおうちはとにかく楽しかった。

ゆきのり君は穏やかな子で、本物のお坊ちゃまだった。
自慢するではなく、生きものについて彼の知るところを
ほんわか楽しそうに話してくれる。

ひまわりの種は人間も食べられるらしい、と、
リスの餌をポリポリ食べて具合が悪くなったり
(火を通さないといけないらしい)、
アリジゴクは死ぬと砂になるんだ、と、
砂だけになったバケツを囲んでしょんぼりしたり
(ウスバカゲロウに羽化したらしい)、
男の人の骨は少ないのか!と感心したり
(神父さまからアダムの肋骨で作られた女の話を聞いた)、
二人にとっては、知っている限りの全てが真実だった。

次第にそれぞれ周囲のペースや新しい友達になじんで(子どもの適応力)
大人になった今は笑えるような話もあるのだけれど、
この頃に感じた発見のまぶしいときめきが今も忘れられず
日々キョロキョロしているのかもしれない(笑)。

「知る」ということは、その成長の段階にある自分が
見聞きして感じたことのどこまでをつないで信じるか、
ということのような気もする。(ザックリした言い方だけれども)

この夏一番綺麗だったのは、
職場に咲いた、小さな品種のトケイソウだった。

    

丸い蕾の、その棘の先もさらに小球をつけており、球の集合がかわいらしい。
3cmほどの花はとても複雑なつくりをしていて、
どのパーツも眺めるほどに不思議でときめく。
何より、緑、白、黄色、薄紫の絶妙な分量バランスがみずみずしく、
真赤に実が熟すというのも、なんて素敵なセルフプロデュース!

    

今ではもう、その形が種を保存する何かしらの理由があるとは知りつつ、
何かをみつけて、神様は相当な芸術家だと感心してしまうのは
就学前後の経験が、少しだけ目を醒ますからのようだ。


独り言

2011年12月28日 | Daily
生きるというのはなかなか難しい。

まず生物として生命を維持すること、それから
人間として人とつながる文化を維持すること。

人はひとりでは生きられないというのは上位にある条件であって
生物として生きることはその底辺、基礎になる
とてもパーソナルな問題であり課題だ。

たとえば、この春
絆だなんだと言っているのは周りの人間だった。

日本や世界で被災したひとたちは
生きるか死ぬかの瀬戸際で、ただ代謝する有機体として
一瞬一瞬を完全に個人的な生命活動をして繋げていたはずだ。

消えた命を数える数字が増えていく機械的な報道が
元気と勇気を与えるんだ、と、歌ったり試合をする活動報告より
ずいぶんリアルに聞こえた。

生物として弱っていても、中途半端に動ける私は愚かにも
人に頼って狡く楽してみる考えを過ぎらせたけれど、
与えられる『納得』は、自己努力して得る『満足』より
はるかに精神疲労するという矛盾で逆にグッタリ。 ←アホ

その時々の選択を重ねればよいのに
その先で人にどう影響するかで迷うなど、ずいぶん傲慢で
思考力も決断力もない自分への言い訳でしかなかった。

結局、踏み出さなければ丁寧でもなかった2011年。←猛反省中
人間として全く役立たず、これは公の人間としてどうだろう?と、
1年前と同じ問題のふりだしに戻り、迷子にすらなれず(苦笑)。

でもせめて自分への誠実さは持っていたいと思ってしまう。

そういえば
多くの人間が正しいということだけを選ぶ人よりも
「違う」のに「正しい」とやり過ごすことをしないひとをこそ
私は信じているではないか。 ←超いまさら
サウイフモノニワタシハナリタイ!悟った! ←おかしい

誰かにとっては愚かな選択でも
自分に最高の判断ができる力をつけたい、来年こそ。
「違う」と思うことを選ばないだけの力でもいい。

そんな年の瀬、写真整理をしながら
苔生す銀閣寺はなんて綺麗なんだろう、
生きててこそだなぁ、と、だらしなく泣く。←悟ってない(大笑)


蒼い月の夜

2011年11月04日 | Daily
先日、三谷幸喜『ステキな金縛り』を観た。
2時間半の大作ながら、飽きさせない展開と豪華キャスト、
台詞の転がるような言葉遊びは、さすが!という感想。

落ち武者の幽霊が、妻殺しの容疑者弁護の証言に立つという
バカバカしい話と言えばそれまでなのだけれど、
「無実の罪」に問われる容疑者と証人を重ねつつ、
様々な立場の人間にそれぞれの正義に従いながら公判を展開させて、
過去と未来を現在で繋げていくという巧さに、
新春舞台『90ミニッツ』の脚本に期待が募る。

仕事帰りにレイトショーに出かけたのは無謀だったか、
ちょっと興奮しすぎたのか、しっかり熱が出た(--;

週末の正倉院展は一年越しで楽しみにしていたというのに
朦朧としながら点滴を受けるというありさま。NO~!

病院のベッドで点滴が落ちるリズムに合わせて
頭の中をぐるぐると『蒼い月の夜』がまわりはじめた。
(それもイントロから律儀に、だ。)

音楽も詞もいくら聴いても飽きがこない、
というより、ずいぶん好きなのだろう、
ときどき車でも家でも狂ったようにエンドレスリピートしていて
特に熱が出たとき頭の中でまわる定番になってしまっている(苦笑)。

さて、先ほどの映画のサブタイトルは『ONCE IN A BLUE MOON』
めったにないこと、という意味らしい。
発熱するのも、めったにないこと、になれば助かるのだけれど。

もう若くないのだし、平日のお遊びはほどほどにせねば
気を付けよう。

---

君の寝顔が横を向いて
遠慮がちに咳をする
僕はテレビのボリュームを少し下げようか?

月明かりがレース越しに
君の頬に降りそそぐ
僕は映画のワンシーンを思い出している

Lady in blue
君の熱があと2℃ぐらい下がるまで
僕はここで君のシルエット眺めていよう

いつか君と出逢ったのは
こんな蒼い月の夜さ
僕は消えかかった
思い出をつなぎあわせている

『蒼い月の夜~Lady in Blue~』 作詞・作曲 LOU

---

槇原敬之のカバーバージョンもとてもいいアレンジだけれども
原曲の素直で透明な女性の声のものは、
真っ直ぐに響くのでお気に入りです。

ところで "ブルームーン" は、この春に初めて意識して観ました。
めったにない入院中の窓からのお月見でした(笑)。



2011年10月22日 | Daily
愛用の鞄は、だいたいB5を横にしたサイズで
いくつかあるとはいえ新調しても色が変わるくらいで
同じようなものに落ち着いてしまう。

「どうしてそんな鈍臭い大きさの鞄ばかりなの?」

と、不思議そうに尋ねられたことがある。
"鈍臭い大きさ" ってなんだ!?と、逆に
不思議なことを言うひともいるものだと思った。

財布とハンカチ、携帯電話と
ときどきペットボトルや傘、文庫本が入ればいいのだから
一番コンパクトで私にとっては使いやすい。
(同じサイズだと忘れ物にも気づきやすい。←そのわりに忘れ物番長・苦笑)

普通や当たり前だと過ごしていることが
そうではないのかもしれないと気づかされる "ひとこと" には
自分の横を猛スピードで風が吹き抜けていくような感覚がある。
それは不快だというのではなくて、衝撃や足元が揺らぐ眩暈に近い。

何年も経ってしまっても覚えている "ひとこと" は、
ほとんどそういう風を巻き起こされたものだ。

通り雨が過ぎるのを待ちながら鞄をかばいつつ
自分が持っている空気、リズム、スピード、方向などが
人とどのくらい違って、それは近づける必要があるものなのだろうかと
鈍臭く考えた休日の午後だった。

雨が上がる直前、右頬と左頬にあたる風の温度が変わって驚いた。
前線の真下にいたらしい。(ほんまかいな)

It's for You

2011年05月20日 | Daily
少しくらい遠回りになってもいいかなと思う好きな道があり、
昼も夜も、夏も冬でもよく使う。

京都ではポプラの綿毛が飛ばないのかしら、などと思っていたら
フロントガラス越しに陽気に漂うのをみつけて、嬉しくなった。
あらゆる種類の木があるから姿は見えないけれど
どこか近くにポプラもちゃんとあったのだろう。

この季節、ここの緑のアーチをくぐりながらよく思い出すのは
意外にもパット・メセニーの「It's for You」だったりする。
爽やかに吹き抜ける冒頭からの雰囲気が
濃くなりつつある若葉色が輝くのに似ているせいだと、思う。

特別に好きな音楽でもないから聴くことはほとんどないし
むしろ好んで聴く柏木広樹氏の「フェーカジ(南風)」や
槇原敬之の「うたたね」にも同じような印象があるのに、
まず思い出すのがどうして「It's for You」なのか
自分でも不思議で面白い。

ちなみにこのタイトルは、君のために、なんていう甘い意味はなく
君に電話だよと、さらりというときのそれなのだそうで、
季節には何ら関係ない音楽にそんな印象をもっているのが
さらに不思議で面白い。

眩しい緑の印象をひとに伝えたいと思うのに
擬態語や擬音語でも、もちろん鼻歌でも
完全に正しい表現が見つからなくて
時間があると考え込んでいる、
どうすればこの感覚を共有できるのだろう、と(暇なもので・苦笑)。

今日は少しイライラしながら出かけた帰り道に
ポプラが飛んだだけで、いい一日だという印象に変わった。

単純なつくりの脳を持っていると
小さな幸せがたくさん見つかる。
なかなかひとにおすそわけはできないけれども(笑)。

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20歳の若さで亡くなってしまうセリの
ポプラにまつわるセリフは印象深い。

 薔薇のために (1)~(9) (小学館文庫)
 吉村明美
 小学館


この作品に出てくる木々や花々はどれも魅力的で
登場する人間の内面や外見を
その変化とともに重ねて描かれるのがうまいと思う。
文庫版になってから揃えればよかった、写真の表紙がすごく綺麗。

緑はいいなぁ。


In Her Shoes

2011年04月30日 | Daily
フィギュアスケートを観戦していて
表現力、衣装、大技、完成度などなど、
演技の美しさにはいくつも種類があるものだなぁ、と思った。

曲にのって、ひらひらくるくると
どの選手もため息の美しさだけれど、
私は中でも金妍児選手が雰囲気ごと好きで
透き通りながら硬度もある、
クリスタルのような演技が観られて嬉しかった。

誰もできないような大技はなくても
一度や二度転んでも勝てる鉄壁のプログラム(らしい)を
さらりと滑らか軽やかに滑り高得点をさらっていく、
背景には賢い計算もある、そんな強かさも含めてとても綺麗だと思う。

傷だらけになった彼女の裸足をみたことがある。
(それで気になり始めたというのもあるだけれども←単純)

1位でなければ「負け」と言われるようなハイレベルな競技で
無敗の女王だなどと視線を集めて挑む試合は
それはしんどかったことだろう、
オリンピック後のバーンアウトからこれまでになるには
さぞもがいたことだろう。

涙する彼女にハッとして
転んでよかった、2位でよかったのではないか、と思った。

練習量の多さで有名な浅田真央選手にしても
これまでできていたことができない悔しさや
努力でどうにもならないという壁にぶつかる痛さに
ひどく苦しんだことだろう、もちろん今もたぶんきっと。

まぁ、世界レベルのアスリートの心理など
犬とゴロゴロTVを観ている私にはわかるはずもないのだけれど(苦笑)。

なんにせよ
美しさの裏には痛みがあるものなのだろう、
かっこいい靴が
足にはとても痛いように。

---

靴がほしいと思い続けて季節が変わってしまった。
もはや靴ではなくサンダルを選ぶ季節…。
「1Km歩いても靴擦れしないこと」が靴選びの基準だという私に
美は無縁…(^^ゞ

 イン・ハー・シューズ [DVD]
 キャメロン・ディアス, トニ・コレット
 20世紀フォックスホームエンターテイメント

キャメロン・ディアスがどんどんいい女優になっている。
一昨年公開「私の中のあなた」のシリアスな演技もよかった。

この作品もいい。
女性でなくても兄弟姉妹がなくても
誰にでも、しっくりくる物語ではないだろうか。

ラスト近く奔放な妹役のキャメロンが、
ものを読むことの魅力に目覚める、
老人とのやりとりのシーンはとても胸にしみる。