細菌戦の系譜!!

2022-05-24 11:46:32 | Weblog

     

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 

 

 

 

戦争では、何も解決しない!!即時停戦を!!
世界の食糧危機!!、世界の環境破壊!!生態系の激変!!貧困、虐殺、レイプ、人間不信!!
 
На войне ничего не решить! !! Немедленное прекращение огня! !!
Мировой продовольственный кризис! !! , Всемирное разрушение окружающей среды! !! Кардинальные изменения в экосистеме! !! Нищета, резня, насилие, человеконенавистничество! !!
 
У війні нічого не вирішиться! !! Негайне припинення вогню! !!
Світова продовольча криза! !! , Знищення навколишнього середовища світу! !! Різкі зміни в екосистемі! !! Бідність, бійня, зґвалтування, мізантропія! !!
 
Nothing will be solved in the war! !! Immediate ceasefire! !!
World food crisis! !! , World environmental destruction! !! A drastic change in the ecosystem! !! Poverty, slaughter, rape, misanthropy! !!
 
 
 

反攻へ戒厳令90日間延長 ウクライナ 侵攻3カ月もなお長期化へ

ウクライナに平和を!!
 
日本は、戦争の反省をしているのだろうか??

過去最大の防衛予算 歯止めなき膨張許されぬ

 

「戦争の加害展」プレ企画


 

 



 






 

 
 

731部隊全景

731部隊の真実

東京ブラックホールー戦後0年

 

戦争を停止する道を探れないのか??
 

No War!!Stop War!!
Нет войне!!Стоп Война!!
 
Why is America not actively moving towards peace ??
 
Почему Америка не движется активно к миру??
 
何故アメリカは、和平に向けて積極的に動かない??
 
 
 
Article 9 of the Constitution to the World Constitution !!
 
Статья 9 Конституции Всемирной Конституции
 
憲法9条を世界憲法へ!!
 
RENUNCIATION OF WAR Article 9.
Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, world forever renounce war as a sovereign right of the nation and the threat or use of force as means of settling international disputes.
In order to accomplish the aim of the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained. The right of belligerency of the state will not be recognized.
 
 
ОТКАЗ ОТ ВОЙНЫ Статья 9.
Искренне стремясь к международному миру, основанному на справедливости и порядке, мир навсегда отказывается от войны как суверенного права нации и от угрозы или применения силы как средства разрешения международных споров.
Для достижения цели предыдущего абзаца сухопутные, морские и воздушные силы, а также другой военный потенциал никогда не будут сохранены. Право воинственности государства признаваться не будет.
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細菌戦の系譜!!

2022-05-24 11:45:22 | Weblog
 
戦争の放棄
第九条 世界は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない
 
 
I want the United Nations to do everything in its power to stop Russia's invasion of Ukraine!!
 
Я хочу, чтобы Организация Объединенных Наций сделала все возможное, чтобы остановить вторжение России в Украину!!

 

 
国連はロシアのウクライナ侵攻をやめさせることに全力で取り組んでほしい!!

I want Japan, which has Article 9 of the Constitution, to move more positively toward a ceasefire !!

Я хочу, чтобы Япония, у которой есть статья 9 Конституции, более позитивно двигалась к прекращению огня !!
 
 
憲法9条を持つ日本はもっと停戦に向けて前向きに動いてほしい!!
 
War in the 21st century? ?? In the 21st century, a world without war!!

Война в 21 веке? ?? В 21 веке мир без войн!!
 
21世紀に戦争??21世紀こそ、戦争のない世界に!!
 


 
 

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細菌戦の系譜!!

2022-05-24 11:44:08 | Weblog

延期されていた「表現の不自由展・東京」がはじまる 最高裁の決定が後押しに

 
 



 

 
 

 

 
森友記録を開示せよ!!
 
 
 
 

ソニアの日記

 

コタバル 伝えられなかった戦争(2011)

 

セピア色の証言ー張作霖爆殺(86)

 

開戦ー前編ー

 

 

 
 
 

推薦問題に「歴史戦」とやらの余地はない

 
 
反原発!!

 

 
 
 
大元帥・現人神・昭和天皇と皇族の戦争責任を問う。
日本は戦争を起こしたことを全く謝罪しなくていいのだろか??
 
重慶無差別爆撃
 

 

 

京都大学出版会(2022年4月10日発行)
 
もしかすると中国人の人骨も京都大学にはあるのでは??
丹羽雅雄弁護士の話:遺骨という問題は非常に大きな問題なんですよ。死者の尊厳ですからね。死者の尊厳ということは、生きている人の尊厳につながっているんですよね。当時の帝国大学は色々な人骨研究をやっていますからね。そうすると恐らく朝鮮半島の御遺骨の問題も当然あるはずです。リストにありますからね。
それから、台湾もあるだろうし、東南アジアもあるだろうし、そういう風に広がっていく可能性があるんですね。遺骨の問題は先住民の大きな長い歴史の中で国際的にも重要な問題になっていると・・・
 
 
遺骨収集には、清野謙次の影響が強くあった。清野は731部隊長石井四郎の強力な支援者だった。(病理解剖の最高顧問)
 

南京大虐殺の真相

南京大虐殺:侵華日軍南京大屠殺 南京電影制片庁 21分

 

マギーフィルム(字幕付き)

 
 
政府は都合の悪いことはいつでも隠す
森友“改ざん”赤木さん妻が財務省に抗議文

川崎の徴用工 故・金景錫の闘い お話:梓澤和幸弁護士

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細菌戦の系譜!!

2022-05-24 11:42:29 | Weblog

「核兵器禁止条約」発効の意義と課題―今こそ、東北アジア非核兵器地帯を

 
 

 

 

2021年 パネル展「731部隊 戦前・戦後の医学」アンケート

14日(日)

・非常に多く731部隊について勉強できる機会でした。もっとメディアとかでも731部隊のことを取り上げるように強く呼びかけてください。

(30代、市外)

 


 
 
 

 



 



原告たちのあまりに理不尽な被害

『JUSTICE 中国人戦後補償裁判の記録』(中国人戦争被害賠償請求事件弁護団 編著、高文研)評者:根岸恵子

 

 

 

                



 
 
 

自衛隊における731部隊の記述

「部外秘 参考資料 CBR講習資料」11頁 作成日時不詳 陸上幕僚監部化学科より

d旧日本軍の細菌戦活動

旧日本軍の石井部隊は又の名を関東軍防疫、給水、731部隊、加茂部隊、特25204部隊と呼ばれた。細菌戦闘専門の特殊部隊であった。隊の設立は昭和6(1931)年で満州の研究所完成は昭和10(1935)年である。日本軍細菌戦部隊の本拠は満州ハルビン郊外濱江省(ひんこうしょう)双城県平房の4階建近代建築でその中で遮断隔離の生活をしていた。設備は爆撃機(細菌撒布用)10機、1000kwタービン発電機2台である。この本部の元に、孫呉、海拉爾(ハイラル)、牡丹江、林口、大連の5支部があり、大連のものは大連研究所または松林機関とも言われていた。他の部課は細菌の攻撃方法、容器散布方法、防疫問題を研究していた。最も力を入れたのはヒタツリ菌(注:脾脱疽菌)であった。この菌を粉末にして榴散弾の70g位の鉛製弾子に混ぜ、これを砲弾内に詰め、炸薬が爆発すると弾子が飛散して人馬に感染さすようになっている。実験場所は731部隊研究所から北に300(?)㎞ばかりのアンダ飛行場を使用した。そして砲弾が爆発しても菌の40%は生きていること及び培養器に飛ばされた菌は確実に付着する事、負傷者は発病することが確認されている。1938年中国廬山の戦闘で日本軍が毒ガス、ホスゲンを使用したという2,3の細菌記録がある。この記録を持つ731部隊は1945年8月9日午前6時ハルビンの工兵、歩兵、砲兵によって徹底的に破壊され付属設備は地上から姿を消した。ソ連の対日参戦による退却の結果である」

 

長岡大学 研究論叢 第16号より(2018年8月)

・・・731部隊に関する概要が正確に記述されており、更に1938年に毒ガスを作戦で使用したことまで記している。これは化学学校の教育部長が、特殊課程の学生に講義した内容である。内容は事実であると確認して行ったと考えるほかはない。戦後自衛隊は731部隊の実態とその活動を把握した上で、何ら反省することなく自衛官に「教育」してきたのである。また教科書裁判では日本政府は長きにわたり731部隊の活動の事実認定さえ回避してきたが、陸上自衛隊の内部教育資料にも明記されるほど、自衛隊幹部周知の事実だったのであり、日本政府は一貫して内外に虚偽の主張をしてきたと言える。

 

『日本医学百年史』1957年1月1日の731部隊の記述

 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
日本医学界では731部隊の反省は戦後全くなされていないが、以下の書に731の記述が記されている。
『日本医学百年史』第4章 戦時体制下の医学 全体主義思想p236

 

 

「このようにして日本の医師の戦争政策への積極的な協力が行われていったのであるが、直接的な戦闘行為への協力の中で極めて非人道的な、目を覆わざるを得ないものに、細菌戦の準備があった。細菌戦の準備と実行を持った特殊部隊は、昭和10年(1935)夏、石井四郎を部隊長に満洲で編成され「関東軍防疫給水部」と称せられた。

昭和17年頃に「第731部隊」に昇格し、その研究、実験、製造は急に活発になった。(昭和14年のノモンハン事件に参加し、感状をもらっている)この部隊は細菌の製造、兵器としての細菌の利用、人体実験等を行い、施設として、常備爆撃機10機、1000kw発電機2台、隊員及び家族約6000名、年間研究費予算8000千円以上と言われている。

勿論、この部隊に多くの医学者が参加した。このことから、科学者としての責任の問題と同時に戦争責任が問題になってくる。

 

 細菌戦準備への医学者の参加は、戦争責任の最も極端な場合として提起したわけであるが、このことの深い反省の上に戦後の再建も始められる必要があったし、現在でもなお問題とされねばならない。」

 

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細菌戦の系譜!!

2022-05-24 11:41:00 | Weblog
第3章 生物戦の愚かな第1歩は、日本の731部隊からはじまった
 

 

 

 
 

731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第1回

 

731部隊と人権ー裁判から考える

 

731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第2回

 

731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第3回

731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第4回
 
731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第5回
 

731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第6

「登戸研究所と731部隊」(お話:山田朗さん)

 

731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第7

「731部隊について」(お話:五井信治さん)

 

731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第8

 

731部隊と100部隊-人獣共通感染症への戦争動員―(お話:小河孝さん)

 
731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第9
 
731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第10
 
 

 
パネル展「731部隊 戦前・戦後の医学」
      医学と人権を考える―
(番外編)
『医学者は公害事件で何をしてきたのか』 津田敏秀著
      (2014年5月16日第1刷発行)
 
Ⅲ 必要な制度の見直し
 
2、学者製造機構としての医局
 
医局のデメリット
 
次にデメリットを紹介しよう。この点では次項に紹介するような権限の集中が主であり、本書で指摘した様々な弊害もここから生じている。結果として権限が集中する人(つまり教授)には身近な人から直接の批判が出にくいので、権限が集中している人が自ら適切な修正を行うことは至難の業になる。講座制の長(教授)は長期政権(だいたい10―20年)であり、定年退官迄身分が保障されている。良く知られるように長期の権力の集中は、腐敗を招くことがしばしばある。医学部教授には「裸の王様」状態の人も少なくない。医局内では教授1人に権限が集中しているので、しばしば公正な議論が成り立たない。また、医師と言う資源の「平等な分配」が行なわれなければならない以上、権限の集中が起こり、それにより所属構成員の権利は制限される。これにはお金が伴うこともある。
 
 
 
 
 
 
 

隠された毒ガス兵器

 
小津安二郎も毒ガス部隊だった
 

 

森友・加計問題などで公文書改ざん、事実の隠蔽などが問題になっているが、敗戦時の証拠隠滅、文書焼却、事実の隠蔽は、その比ではない!今も
続く歴史改ざん!!     
※30年経過したら、すべての情報を公開せよ!!

 

 

     

 

 

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細菌戦の系譜!!

2022-05-24 11:39:55 | Weblog

●今の日本人は、まさかと思うかもしれない。

 

 
日本政府は、真摯に過去に向き合い、生物兵器を作ったことを謝罪し、今のこの難局に、立ち向かうべきだ!!

 

 

 

東大医学部を卒業、将来を期待される医学者でありながら、731部隊の恐ろしい体験から、そしてその731部隊に参加したという罪の意識から、戦後医学者の道を捨ててしまった男、秋元寿恵夫

元731部隊員(第十課 血清班班長)秋元寿恵夫の言葉

「もしもバイオテクノロジーが軍事研究の魔の手に捕らえられた時の行き先がどうなるのかの危険性は、「ひょっとしたら人間の知能などを変える」どころか、さらには人類にとって取り返しのつかない害悪をもたらす生物兵器の出現につながっていくかもしれないのである。」

 
1939年 731部隊 ノモンハン戦争にて細菌戦(チフス菌、コレラ菌、赤痢菌)を行う
*1940年は皇紀2600年(神武が即位して2600年??)東京オリンピックや万博が開催される予定であったが、戦争の為中止!!
1940年 6月4日  731部隊、農安大賚・農安で細菌戦(ペスト菌)を行う
10月 4日   731部隊、衢州で細菌戦(ペスト菌)を行う
10月27日  731部隊、寧波で細菌戦(ペスト菌)を行う
1941年11月4日  731部隊、湖南省常徳で細菌戦(ペスト菌)を行
1942年17月 100部隊は、ハイラルの北約120キロのソ連国境で行なった「三河演習」で鼻疽菌の生存期間を測定、炭疽菌の土壌への浸透力の調査した 
8月  731部隊、湖南省江山、常山、衢県、麗水、江西省広信、広豊、玉山で細菌戦(ペスト、コレラ、チフス)を行う
1943年12月  100部隊第2部に細菌戦準備の第6科を設置
 

 

 

 


戦争犯罪と戦争責任を考える(帝銀事件捜査から)山田朗
(『日中友好新聞』2022年2月15日号より)
 
  帝銀事件というのは1948(昭和23)年1月26日に起こった銀行強盗殺人事件である。12人が毒殺されるという日本犯罪史上でも特異な事件だ。この事件は、同年8月に容疑者として画家・平沢貞通が逮捕され、裁判の結果、1955年に最高裁で死刑が確定した。
 しかし、平沢犯行説には多くの疑問があったため死刑は執行されず、さりとて釈放もされず、平沢は再審請求をしながら1987年に95歳で獄死した。
 
 
 
 
 

 
 
 

 

 

 





 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1929年11月7日昭和天皇陸軍軍医学校視察

 

 731部隊は、石井四郎が、細菌戦の司令塔ではなかった。誰が裏で司令塔になっていたのだろうか?小泉親彦陸軍軍医総監、宮川米次第5代東大伝研所長、大元帥昭和天皇等がバックにいた。

 
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細菌戦の系譜!!

2022-05-24 11:37:38 | Weblog

●日本政府は、新宿戸山の軍医学校跡地(現国立感染症センター)から見つかった人骨の身元調査を早急にして、遺族に返還し、きちんと謝罪すべきだ!!

 

731部隊被害者遺族の訴え!!        

 

 

東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?

1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?

満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??

東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??

伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??

小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?

 

 

実験医学雑報19巻 第7号(1935年)

 

宮川米次

 

いろはの歌、アイウエオ50字韻の発明

 

1000年前弘法大師によって詠まれたいろはの歌、吉備眞備によって排列された50字韻の発見を誰が外国より輸入したものだと断言し得る人がありましょう。

南洋の土語に吾等の母音に類したものがあったと言っても、それを以て直ちに個個より輸入せられたと言うのは早計ではあるまいか。馬来地方、支那、印度、西蔵、ペルシャ等に同様な発音で、同意義を有する言葉があっても、何も差支えはあるまい。それは日本人腫の起源が上述の如く、南洋、大陸等より来たということが正しいものとすれば、彼らの言葉が幾分宛大和言葉の内に入っていることが自然ではあるまいか。不幸にして日本にアイヌ語の研究が余りない。

これがどれだけ日本語に影響しているものであろうか、知りたい事の1つである。

 

 

翌年の1936年5月10日には、浜松一中で大福餅の食中毒事件、1937年9月25日には大牟田

で爆発赤痢事件が発生している?防疫研究室との関係はないのか??
 

浜一中大福餅事件

                浜松一中の慰霊碑


大牟田の慰霊碑(裏)

 

(碑文)

「時維(ときにこれ)昭和12年9月25日恰も支那事変勃発して3月全市を挙げて銃後の遂行に邁進せる秋(とき)、青天の霹靂の如く突如として我が12万市民は古今を絶する悪疫の魔手に掩われたり。ここに大産業都市として殷賑を極めたる本市は忽にして阿鼻叫喚の巷ト化し官民必死の防疫にも拘らず竟(つい)に一万数千の罹患者を出し七百十二名の精魂を奪はる・・・・・」

 

<三池の冬1997 その2>より

わたしの笹林公園探検の目的は、その隣の隣の慰霊碑であった。さてこれは何の慰霊碑であるか。ここに戦前戦中史の大きな謎が隠されている。(中略)

この慰霊碑は、炭坑事故の慰霊碑でもなく、戦没者の慰霊碑でもありません。1937(昭和)12年に突然大牟田で発生した集団赤痢事件の被害者の慰霊碑なのです。慰霊碑には、一万数千の罹患者を出し、七百十二名の精魂(生命)を奪ったと記されています。この集団赤痢事件がなぜ起こったかについての真相は、いまだ闇に包まれています。しかし、中国戦線に向けて三池(三井)染料が内密に作っていた化学兵器工場で爆発事故が発生し、この事故を隠蔽するために清里の水源地に赤痢菌をまいたという重大な仮説が提起されています。三池染料はわたしの祖父の職場でありました。その祖父は7年前に亡くなりました。この当時のことをもっと聞いておけばと悔いが残ります。近々、この仮説を実証する資料を、受けとることになっていますので、またそのときご報告します。

 

戦時下 大牟田「爆発赤痢」事件、隠された企業犯罪・国家犯罪

北宏一郎

 


 


 

 

 

 
 日中全面戦争のさ中、軍機法改正、新聞紙法27条報道管制記事差止、軍需工業動員法、国民精神総動員実施要綱、そのような状況の中、721名の大牟田市民は殺され、企業も国家も一切の責任を問うことなく、真相を歴史の闇の中に閉ざしたまま今日に至っている。
 三井鉱山三池染料工業所はひたすら毒ガス資材を増産、戦争中規模を拡大、日本有数の化学会社に、後に三井化学、三井東圧へと。
 
 
 


伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より 

   





 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
この新型コロナウィルスがどこで作られたかは分からないが、細菌戦の系譜をたどると、日本は、戦時中、1925年のジュネーブ議定書を無視して、中国で細菌を製造し、細菌戦を行なった。戦後、731部隊での研究データをアメリカに渡し、731部隊員は全員戦犯免責され、アメリカは生物戦の研究を本格的に始めた。
日本政府は、中国で行った細菌戦や生体実験の事実を、(日本の裁判所は事実認
 定をしている)未だに隠し続け、その事実を認めていない。勿論謝罪もしない。
 日本軍が中国に遺棄してきた生物兵器は戦後、どのようになったのだろうか?
 この新型コロナウィルスに影響しているのだろうか?
 今、日本人は過去に犯した戦争犯罪を直視し、きちんと歴史事実に向き合う時で
 はないのか?
 

埋もれた細菌戦調査書

 

 

●細菌戦裁判資料集シリーズ・第8集(2002年10月31日)
 
「731細菌戦裁判・第1審判決特集号」の発行にあたって 
 
本書第8集は、細菌戦裁判の第1審判決(東京地方裁判所民事第18部)の後、開催された判決報告集会、記者会見、意見交換会等での発言を編集したものです。

 

第6部

資料・731部隊細菌戦裁判

第1審判決全文

原告らの主張 (別紙3)

第6部

資料・731部隊細菌戦裁判

第1審判決全文

原告らの主張 (別紙3)

日本軍による中国への細菌戦の実行(事実論)

第6被告による細菌戦の隠蔽及び細菌戦被害賠償立法の不作為

4  1980年代(第3期)の被告の隠蔽行為

5 1990年代(第3期)の被告の隠蔽

(4)731部隊の活動を認定した最高裁判決を無視した隠蔽行為

ア 前述の通り、最高裁判所は平成9(1997)年8月の判決で731部隊の存在を認定したが、これにより行政府、立法府に対し細菌戦の調査を義務付けたものと言える。

イ 最高裁判決の前後における検定済みの日本史教科書(複数)には、旧日本軍の中に731部隊などの細菌戦部隊が存在していたこと、731部隊などが中国人やロシア人などを生体実験の対象にして殺害したこと、中国各地で実際に細菌戦が行なわれたことなどが、歴史記述として記載されている。

ウ 日本軍の細菌戦の実行は、このように定説化し確定しているのに、被告はことさらに細菌戦の隠蔽を継続した。

731部隊員が多く入った国立予防衛生研究所(現・国立感染症研究所)や自衛隊などでの生物兵器の開発・研究も行われているのではないか?

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細菌戦の系譜!!

2022-05-24 11:15:16 | Weblog

●日本政府は、731部隊の罪業を、公開せず、秘匿し、戦後全く無反省である!!最高責任者の昭和天皇も戦犯免責された!!

 

安倍晋三は何でこんな行動がとれるのだ??無反省のまま、ずっと生き延びられるのか??

 

           
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2013年5月12日、安倍晋三は宮城県東松島市の航空自衛隊基地を訪問して、機体番号が‘731’であるアクロバット飛行団訓練機の操縦席に座りサムズアップして写真に収まった。

           

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
731部隊全景(中国に於いて人体実験を繰り返し、細菌兵器を開発し、中国各地で細菌戦を行なった。)

 

 

日本の中国東北侵略から91年

●『1931 満州鞍山守備兵 斉藤準太郎の日記』

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一月二二日

 
午後三時半部落に着く 僕の止まった家はわり方気持ちよい  支那人の家にしては支那釜を使用して疲れ切った体を動かしながらご飯を作る。内地の行軍を想像しつつ。ご飯も世話して頂けるだろうに支那部落の行軍はこんなに疲れても矢張りじぶんでやらねばならない。小刀一つで作つたオミオツケでご飯を食べる。支那人の物は気持ちが悪く使えない。夕食前に絶えず家の者をつかまえて支那語の稽古中々通じない。支那人のちゃぶ台で夕食をする。初めて結ぶ異郷軍家の宿  

「ずっと父が嫌いだった」

 

 
軍都広島での物語

知られていない 8月5日までの 広島 バージョン2

原爆詩集
峠三吉
・・・一九四五年八月六日、広島に、九日、長崎に投下された原子爆弾によって命を奪われた人、また現在にいたるまで死の恐怖と苦痛にさいなまれつつある人、そして生きている限り憂悶と悲しみを消すよしもない人、さらに全世界の原子爆弾を憎悪する人々に捧ぐ。

 

どっと崩折(くずお)れて

めりこんで

おお もう

すすめぬ

暗いひとりの底

こめかみの轟音が急に遠のき

ああ

どうしたこと

どうしてわたしは

道ばたのこんなところで

おまえからもはなれし、

死なねばならぬか

 

映画「ひろしま」予告編

 

 

 

 
" target="_blank">原爆投下
 
" target="_blank">原子爆弾投下後の広島市内(1946年3月21日撮影)
 
" target="_blank">封印された原爆報告書
 
" target="_blank">原爆初動調査1
 
" target="_blank">原爆初動調査ー隠された真実2
 
原爆初動調査ー隠された真実3" target="_blank">原爆初動調査ー隠された真実3
 
 
" target="_blank">広島スピーチ
 
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細菌戦の系譜!!

2022-05-24 11:13:55 | Weblog

  日本は、日中戦争で国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!

 

●『細菌戦部隊』

731研究会編   1996年9月(核時代51年)初版発行

Ⅲ 細菌戦部隊の周辺

 

陸軍病院の軍医として
14人の中国人を生体解剖した
 
湯浅謙(陸軍軍医)
■この証言は新宿・渋谷731部隊展(1993年7月)、東京東部同展(93年8月)、千葉同展(93年9月)、石川(金沢)同展(1993年11月)ほかの『報告集』よりまとめたもの。
 
(経歴〉
1916年生まれ
1941年10月 短期現役軍医として旭川28連隊入隊
1942年2月  北支山西省潞安陸軍病院附
1945年8月  現地で敗戦を迎え、年末に国民党軍の徴用を受け人民解放軍と交戦
1949年4月  解放された人民政府病院勤務
1951年2月  捕虜として捕虜収容所へ拘束される
1952年12月 戦犯として太原監獄へ収監
1956年6月  起訴免除により帰国
 
はじめての生体解剖
 
 そうしているうちに手術は終わって部隊の軍医たちや看護婦は帰るわけです。お百姓さん風の男はもう息が絶えていました。それを衛生兵が、あっちこっち穴を掘って放り込みました。もう1人はまだハァハァと最後の息をしていました。それで病院長が心臓内注射の練習だと言って、心臓へ注射器でもって空気を入れる。空気を入れてもまだハァハァと呼吸が止まらないんです。見ているわけにはいかないので、兵隊に教えられて全身麻酔に使ったクロールエチル麻酔薬を5㏄取って2、3㏄注射すると、死んでしまいました。
 

戦時中の東南アジアの様子(731部隊員増田知貞が撮影したフィルム)

 

日本軍政下香港(1997.7.27)

 

 

 
 
 
 

●証言

生体解剖(旧日本軍の戦争犯罪)

中央档案館

中国第2歴史档案館

吉林省社会科学院編

 

江田憲司

兒島俊郎

古川万太郎編訳

 

解説

証言「供述者」の背景ーある日本人戦犯を中心に

 

変化する収容者たちの意識

 孫所長は、変化の相乗効果を指摘していたが、いくつかの要素で悪循環が断ち切られ、歯車が良い方向へ回り始めると、改善のテンポも早くなる。以上に挙げたような動きをきっかけに、収容所の空気はいろんな面で変化してきた。その頃から、日本人による自主的なサークル活動が盛んになってきた。この面では、シベリア時代にも多少の経験を積んでいる。文化、学習、体育などの委員会ができ、文化委員会に参加した国友は、自分でデザインした劇場を所内に作り、月1回、演劇の公演を始めた。この文化活動では、1983年に亡くなった映画監督の山本薩男(旧「満洲国」時代、長春にあった「満鉄映画」で活動していた)が、指導的な役割を果たす。

 
 
 



 

 

                     

 

 

 

 










 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

消せない記憶「元軍医たちの謝罪の旅」

 

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細菌戦の系譜!!

2022-05-24 11:10:41 | Weblog

●毒ガス戦

・『日本軍の毒ガス兵器』  松野誠也著

第8章 戦後史の中の日本軍毒ガス兵器問題

 

 

4 毒ガス戦をめぐる歴史資料と国会論戦

 

『陸軍省大日記』をめぐって

 

日本軍の資料は敗戦時に組織的に湮滅されたが、焼却が間に合わなかったためにアメリカ軍に接収された資料も存在している。その代表的な資料が「陸軍省大日記」だが、これは、陸軍省が発受した公文書を、陸軍大臣官房が区分に従って整理した公文書綴(『陸支密大日記』や『陸満密大日記』『密大日記』など)の総称である。ここには毒ガス関係の資料も多数収められており、有益な資料源である。

 
海軍の相模海軍工廠跡を訪ねて(2022年4月9日)
 
旧横浜ゴム平塚製造所記念館
 
明治38年、軍用火薬製造のため、日本海軍と英国の3企業(アームストロング社、チルウォース社、ノーベル社)の合弁で日本火薬製造株式会社(明治40年に日本爆発物製造株式会社と改称)が設立され、本社はロンドン、支店・工場は平塚に置かれた。
工場は明治40年頃に完成したが、この洋館は、英国人支配人の執務室または住居として同時期に建設されたものとも、同44年に焼失し翌年再建されたものとも言われる。
大正8年、会社が日本海軍に買収され海軍火薬廠として発足すると、この洋館は横須賀水交社(海軍将校の社交クラブ)の平塚集会所となり、昭和20年の終戦まで続いた。
戦後は、占領軍による接収を経て、昭和25年、横浜ゴム株式会社が敷地ごと払い下げを受け応接や会議に使用したが、平成16年に平塚市へ寄贈され、同22年に八幡山公園に移築公開された。

 
 
*A事案区域とは、環境省が平成 15 年に実施した<昭和 48 年の「旧軍毒ガス弾等の 全国調査」フォローアップ調査※1>において終戦時における旧軍の化学兵器に関連する情報を集約した結果を踏まえ設定したA事案(毒ガス弾等の存在に関する情報の確実性が高く、かつ、地域も特定されている事案)に該当する区域のことです。具体的には、以下の3区域となります(図1参照)。 
①旧相模海軍工廠跡地(神奈川県寒川町内) 
②旧相模海軍工廠化学実験部跡地(神奈川県平塚市内) 
③ 旧陸軍習志野学校跡地(千葉県習志野市・船橋市内)

 

略史
昭和 5年  海軍火薬廠用地の一部割愛を受け、海軍科学研究部化学兵器研究室が平塚出張所を開設
昭和 8年  平塚出張所に一号・二号・三号特薬兵器の製造実験工場を建設
昭和 9年  海軍技術研究所化学研究部として独立
昭和12年  特薬庫、火薬庫、爆発円筒及び特殊化兵研究室などを建設。総敷地面積は124,000平方メートルに
昭和17年  相模海軍工廠(寒川町)の新設と同時に、化学研究部が相模海軍工廠化学実験部になる
昭和20年  終戦、廃廠
 第一次世界大戦後、日本は化学兵器の調査研究と技術開発に着手、大正11年に艦政本部内に担当部署が設置され、翌12年には海軍技術研究所となり化学兵器の研究と技術開発を開始。
相模海軍工廠では士官・常用工・徴用工員・女子挺身隊員・勤労動員学徒等3,500人余りが従事し、主として化学兵器・火工兵器の研究開発・製造が行われた。
海軍では毒ガスを攻撃用よりは防御用とすると認識が強く、相模海軍工廠では防毒マスクの生産が主力だった。(相模海軍工廠より)
 
 
 

 

 

第1次世界大戦では、毒ガスが大量に使われた。

百年の悲劇は、ここから始まった1

 
 

・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店 1995年発行)

第10章 残酷な人体実験毒ガス実験

 

35人に被害、3人は重体
 
紅旗09号船の中毒患者リスト
職種       姓名         備考
オイル工    李臣         熟練工
オイル工    王師民        熟練工
オイル工    沈同山?       熟練工
オイル工実習  深昌吉        実習生
厨房夫     孫連明        熟練工
指導員     李長栄        後期中毒
副船長     何文学        熟練工
 

 

 

 
 

●『三光』     中国帰還者連絡会編

日本鬼子(リーベンクイズ)

 

核時代39年(1984年)5月初版発行

 

●『三光』     中国帰還者連絡会編
核時代39年(1984年)5月初版発行
 
細菌戦ー731部隊の蛮行
 
 
田村良雄(たむらよそお)防疫診療助手 兵長
(略歴〉
1939年5月  元関東軍防疫給水部本部(731部隊)に入隊
1943年3月  退職
1944年3月  元関東軍59師団32連隊に現役兵として入隊
1945年8月  元関東軍125師団軍医部兵長
1952年6月  逮捕さる。河北省永年県において
 
本籍地=千葉県長生郡 出身階級=雇農 年齢=34歳
 
 
プツリ、プツリと滅菌器の中の器材がたぎっているときに、課長・大木啓吾少佐と班付の細島宏中尉が全身をゴムの防菌衣に包んで入ってきました。「始めよう」との大木の命令で、細島は目でメスを渡すことを合図しました。メスを何に使うのか分からないままに渡すと、今度は止血鉗子(かんし)出せと合図しました。細島がメスと鉗子を持っている間に、中国人が担架にのせられて運び込まれました。今朝、私が消毒薬をぶちかけた中国人は、死んでも死ななくても今日解剖する予定になっていたのでした。中国人の顔は紫色にはれ、そこは血がべっとりつき、担架の上にしたたり落ちておりました。恐る恐る近づいて中国人の顔をのぞき込んだ大木は「オイッ、早くカンフルをうて、今のびたら実験できなくなるぞ」、側に突っ立って眺めていた細島は、「ハア」と言うと、「カンフル2本」と指を2本出して注射することを私に命じました。中国人の着ていた黒ずんだ病衣の襟首を握った特別班の八坂が、力任せにふりまわしました。病衣は裂け、意識を失い臨死の中にある中国人はガタリとタイル張りのたたきに叩きつけられました。

2018年12月に、『留守名簿 関東軍防疫給水部 満州第659部隊』2冊が発売されました!!(不二出版)

 

 

 

    

 

 

    

 
 
 
 
 
 
 
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