ロシア 地方議会で議員が反戦訴え
「プーチン大統領は謝罪すべき」 ロシアの大物退役軍人がウクライナ侵攻で異例の批判
アメリカも銃規制をしてもらいたい!!
米テキサス州の小学校で乱射 生徒19人と教師2人が死亡
反攻へ戒厳令90日間延長 ウクライナ 侵攻3カ月もなお長期化へ
Нет войне!!Стоп Война!!
アメリカも銃規制をしてもらいたい!!
米テキサス州の小学校で乱射 生徒19人と教師2人が死亡
「核兵器禁止条約」発効の意義と課題―今こそ、東北アジア非核兵器地帯を
14日(日)
・中学の時の学校図書で“海と毒薬”(遠藤周作著)を読みました。授業でも関わる箇所に話が出たりしたので。
今回のチラシを目にし、見学に伺いました。開発理由は当初は良いものだったかもしれませんが、利益等と結びつくと変な方向に行ってしまうのではないかと思いました。
(40代、市内)
自衛隊における731部隊の記述
「部外秘 参考資料 CBR講習資料」11頁 作成日時不詳 陸上幕僚監部化学科より
d旧日本軍の細菌戦活動
旧日本軍の石井部隊は又の名を関東軍防疫、給水、731部隊、加茂部隊、特25204部隊と呼ばれた。細菌戦闘専門の特殊部隊であった。隊の設立は昭和6(1931)年で満州の研究所完成は昭和10(1935)年である。日本軍細菌戦部隊の本拠は満州ハルビン郊外濱江省(ひんこうしょう)双城県平房の4階建近代建築でその中で遮断隔離の生活をしていた。設備は爆撃機(細菌撒布用)10機、1000kwタービン発電機2台である。この本部の元に、孫呉、海拉爾(ハイラル)、牡丹江、林口、大連の5支部があり、大連のものは大連研究所または松林機関とも言われていた。他の部課は細菌の攻撃方法、容器散布方法、防疫問題を研究していた。最も力を入れたのはヒタツリ菌(注:脾脱疽菌)であった。この菌を粉末にして榴散弾の70g位の鉛製弾子に混ぜ、これを砲弾内に詰め、炸薬が爆発すると弾子が飛散して人馬に感染さすようになっている。実験場所は731部隊研究所から北に300(?)㎞ばかりのアンダ飛行場を使用した。そして砲弾が爆発しても菌の40%は生きていること及び培養器に飛ばされた菌は確実に付着する事、負傷者は発病することが確認されている。1938年中国廬山の戦闘で日本軍が毒ガス、ホスゲンを使用したという2,3の細菌記録がある。この記録を持つ731部隊は1945年8月9日午前6時ハルビンの工兵、歩兵、砲兵によって徹底的に破壊され付属設備は地上から姿を消した。ソ連の対日参戦による退却の結果である」
長岡大学 研究論叢 第16号より(2018年8月)
・・・731部隊に関する概要が正確に記述されており、更に1938年に毒ガスを作戦で使用したことまで記している。これは化学学校の教育部長が、特殊課程の学生に講義した内容である。内容は事実であると確認して行ったと考えるほかはない。戦後自衛隊は731部隊の実態とその活動を把握した上で、何ら反省することなく自衛官に「教育」してきたのである。また教科書裁判では日本政府は長きにわたり731部隊の活動の事実認定さえ回避してきたが、陸上自衛隊の内部教育資料にも明記されるほど、自衛隊幹部周知の事実だったのであり、日本政府は一貫して内外に虚偽の主張をしてきたと言える。
「このようにして日本の医師の戦争政策への積極的な協力が行われていったのであるが、直接的な戦闘行為への協力の中で極めて非人道的な、目を覆わざるを得ないものに、細菌戦の準備があった。細菌戦の準備と実行を持った特殊部隊は、昭和10年(1935)夏、石井四郎を部隊長に満洲で編成され「関東軍防疫給水部」と称せられた。
昭和17年頃に「第731部隊」に昇格し、その研究、実験、製造は急に活発になった。(昭和14年のノモンハン事件に参加し、感状をもらっている)この部隊は細菌の製造、兵器としての細菌の利用、人体実験等を行い、施設として、常備爆撃機10機、1000kw発電機2台、隊員及び家族約6000名、年間研究費予算8000千円以上と言われている。
勿論、この部隊に多くの医学者が参加した。このことから、科学者としての責任の問題と同時に戦争責任が問題になってくる。
細菌戦準備への医学者の参加は、戦争責任の最も極端な場合として提起したわけであるが、このことの深い反省の上に戦後の再建も始められる必要があったし、現在でもなお問題とされねばならない。」
第3章 生物戦の愚かな第1歩は、日本の731部隊からはじまった
731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第6回
731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第7回
731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第8回
●今の日本人は、まさかと思うかもしれない。
東大医学部を卒業、将来を期待される医学者でありながら、731部隊の恐ろしい体験から、そしてその731部隊に参加したという罪の意識から、戦後医学者の道を捨ててしまった男、秋元寿恵夫
元731部隊員(第十課 血清班班長)秋元寿恵夫の言葉
「もしもバイオテクノロジーが軍事研究の魔の手に捕らえられた時の行き先がどうなるのかの危険性は、「ひょっとしたら人間の知能などを変える」どころか、さらには人類にとって取り返しのつかない害悪をもたらす生物兵器の出現につながっていくかもしれないのである。」
1929年11月7日昭和天皇陸軍軍医学校視察
731部隊は、石井四郎が、細菌戦の司令塔ではなかった。誰が裏で司令塔になっていたのだろうか?小泉親彦陸軍軍医総監、宮川米次第5代東大伝研所長、大元帥昭和天皇等がバックにいた。
●日本政府は、新宿戸山の軍医学校跡地(現国立感染症センター)から見つかった人骨の身元調査を早急にして、遺族に返還し、きちんと謝罪すべきだ!!
東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
実験医学雑報19巻 第7号(1935年)
宮川米次
日本人独創の芸術
芸術の方面に於て日本人の独創のものとしては私は浮世絵を第1に挙げたい。
その他にも色々あろうが、江戸時代にとくに発達した庶民芸術たる浮世絵はその他の何物にも劣らぬ世界に冠たる日本特有の大美術品ということに何人も異論はありますまい。支那からも、印度からも、南洋からも又欧米からも輸入せられたものではない。その発達を大和絵に有し、江戸時代の町人の天才によって独立のものに仕上げこれをこれを一般庶民の観賞の的たらしめ、版画として一層一般的にし、江戸絵又は錦絵と呼ばれるに至った。
翌年の1936年5月10日には、浜松一中で大福餅の食中毒事件、1937年9月25日には大牟田
浜松一中の慰霊碑
大牟田の慰霊碑(裏)
(碑文)
「時維(ときにこれ)昭和12年9月25日恰も支那事変勃発して3月全市を挙げて銃後の遂行に邁進せる秋(とき)、青天の霹靂の如く突如として我が12万市民は古今を絶する悪疫の魔手に掩われたり。ここに大産業都市として殷賑を極めたる本市は忽にして阿鼻叫喚の巷ト化し官民必死の防疫にも拘らず竟(つい)に一万数千の罹患者を出し七百十二名の精魂を奪はる・・・・・」
わたしの笹林公園探検の目的は、その隣の隣の慰霊碑であった。さてこれは何の慰霊碑であるか。ここに戦前戦中史の大きな謎が隠されている。(中略)
この慰霊碑は、炭坑事故の慰霊碑でもなく、戦没者の慰霊碑でもありません。1937(昭和)12年に突然大牟田で発生した集団赤痢事件の被害者の慰霊碑なのです。慰霊碑には、一万数千の罹患者を出し、七百十二名の精魂(生命)を奪ったと記されています。この集団赤痢事件がなぜ起こったかについての真相は、いまだ闇に包まれています。しかし、中国戦線に向けて三池(三井)染料が内密に作っていた化学兵器工場で爆発事故が発生し、この事故を隠蔽するために清里の水源地に赤痢菌をまいたという重大な仮説が提起されています。三池染料はわたしの祖父の職場でありました。その祖父は7年前に亡くなりました。この当時のことをもっと聞いておけばと悔いが残ります。近々、この仮説を実証する資料を、受けとることになっていますので、またそのときご報告します。
戦時下 大牟田「爆発赤痢」事件、隠された企業犯罪・国家犯罪
北宏一郎
第6部
資料・731部隊細菌戦裁判
第1審判決全文
原告らの主張 (別紙3)
第6部
資料・731部隊細菌戦裁判
第1審判決全文
原告らの主張 (別紙3)
日本軍による中国への細菌戦の実行(事実論)
第6被告による細菌戦の隠蔽及び細菌戦被害賠償立法の不作為
4 1980年代(第3期)の被告の隠蔽行為
5 1990年代(第3期)の被告の隠蔽
(5)平成9(1997)年国会答弁での被告の隠蔽行為
平成9(1997)年12月から平成11(1999)年2月までの間に、4回の国会質疑が行われた(甲37から39、129)が、被告は「資料がないからわからない」等言い逃れに終始している。しかし、同時に、被告が新たな加害行為として隠蔽を続けているという事実が明らかになっている。
エ 731部隊の活動内容断定は困難という被告答弁
被告政府は、「現地点で政府としていわゆる731部隊の具体的な活動内容について断定することは困難と考えている」(平成10(1998)年4月7日村岡官房長官答弁。甲41)と言う。被告は、本件原告らを含む被害を公表した者らを嘘つき呼ばわりしたに等しい。被告の答弁には、731部隊が細菌戦を行なった事を示す明白な資料があっても事実を認めない点において、まさに細菌戦の隠蔽行為以外の何物でもない。
731部隊員が多く入った国立予防衛生研究所(現・国立感染症研究所)や自衛隊などでの生物兵器の開発・研究も行われているのではないか?
●日本政府は、731部隊の罪業を、公開せず、秘匿し、戦後全く無反省である!!最高責任者の昭和天皇も戦犯免責された!!
太陽をおしのけた
ウラニューム熱線は
処女の背肉に
羅衣の花模様を焼きつけ
司祭の黒衣を
瞬間 燃えあがらせ
1945, Aug. 6
まひるの中の真夜
人間が神に加えた
たしかな火刑。
この一夜
ひろしまの火光は
人類の寝床に映り
歴史はやがて
すべての神に似るものを
待ち伏せる。
原爆初動調査ー隠された真実3" target="_blank">原爆初動調査ー隠された真実3
日本は、日中戦争で国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!
●『細菌戦部隊』
731研究会編 1996年9月(核時代51年)初版発行
Ⅲ 細菌戦部隊の周辺
戦時中の東南アジアの様子(731部隊員増田知貞が撮影したフィルム)
●証言
生体解剖(旧日本軍の戦争犯罪)
中央档案館
中国第2歴史档案館
吉林省社会科学院編
江田憲司
兒島俊郎
古川万太郎編訳
解説
証言「供述者」の背景ーある日本人戦犯を中心に
学習活動から手記運動へ
ところが、撫順での学習活動はそうではなかった。基本的に異なるのは、ここでの学習活動は、収容者の自発的な意思により始められ、盛り上がっていったところにあった。だから、学習活動が進むにつれて、かつての歴史教育の誤り、とりわけ天皇を中心とした軍国主義教育の誤りを、明確に理解できるようになっていったという。ここまでくると、次にたどり着く段階はおのずと明らかである。このような思想の変化と表裏をなす形で、日本軍が中国で犯した侵略行為について、収容者たちは正面のから見据え始めるようになっていくのである。
●毒ガス戦
第8章 戦後史の中の日本軍毒ガス兵器問題
4 毒ガス戦をめぐる歴史資料と国会論戦
『陸軍省大日記』をめぐって
これと似たような事例は、中支那派遣軍司令部「徐州会戦及び安徽作戦に於ける特種煙使用の戦例及び成果」(1938年7月)という毒ガス戦資料にも見られる(『資料集Ⅱ』資料44)。この資料の存在は既に1985(昭和60)年に目録から確認されていたが、防衛庁防衛研究所図書館から「プライバシ―保護を理由に、非公開との説明を受けて閲覧できない状態」にあった(粟屋賢太郎/吉見義明「毒ガス戦の真実」)。そして、1994(平成6)年になって、国会議員の要求に対して防衛庁がこの資料のコピーを送付し、その内容が新聞で報道され(『毎日新聞』夕刊、1994年7月14日)、ようやくその全貌を確認することができるようになった。
第1次世界大戦では、毒ガスが大量に使われた。
・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店 1995年発行)
第10章 残酷な人体実験毒ガス実験
核時代39年(1984年)5月初版発行
●『三光』 中国帰還者連絡会編
2018年12月に、『留守名簿 関東軍防疫給水部 満州第659部隊』2冊が発売されました!!(不二出版)