●証言
生体解剖(旧日本軍の戦争犯罪)
中央档案館
中国第2歴史档案館
吉林省社会科学院編
江田憲司
兒島俊郎
古川万太郎編訳
解説
証言「供述者」の背景ーある日本人戦犯を中心に
管理所職員の悩み
責任者の多くは、管理所の責任あるポストに任命されたとき、上級機関へ、恨み骨髄の日本人戦犯の管理に当たることは勘弁してほしい、到底自信がないから勤まらない、と持ち場替えを要請した経験を持っている。それはダメだと言われて、しぶしぶやってきてみると、軍人、とりわけ高級将校たちの根性は、以前と少しも変わっていたない。でかい態度で、中国人をバカにし、命令には一向に従わない。説得など聞こうともしないので、ハラを立てぶんなぐってやろうと思っても、体罰は厳禁で、逆に自分が処罰される。
「どうすりゃいいんだ、ばかばかしくてやっておれるか!」と、何人かが所長へ転出願を出した。説得する所長に、1人の班長が「奴らをこんな所へ収容して、手間暇かける必要がどこにあるのです!?北満の荒野や放り出せばすむことじゃないですか!」と食ってかかった。
消せない記憶「元軍医たちの謝罪の旅」
●毒ガス戦
・『日本軍の毒ガス兵器』 松野誠也著
第8章 戦後史の中の日本軍毒ガス兵器問題
3 証拠隠滅と戦犯免責
中国と香港での戦犯裁判
他方、中華人民共和国成立後に山西省で行われた裁判では、ソ連から引き渡された旧日本軍軍人に対して1956(昭和31)年6月から7月に行なわれ、華北での対住民犯罪などが裁かれた。豊田雅幸氏によれば、そこで毒ガス使用の問題が問われたのは、元第117師団長の鈴木啓久元中将、元第59師団歩兵第旅団長の上坂勝元少将、元第137師団歩兵第375連隊長のの船木健次郎元大佐の3名であった。これらの審理では証人の証言がなされ、被告人も罪を認めたことから、犯罪が認定されている(豊田雅幸「中国側資料から見た山西省における毒ガス戦」)。この3人以外にも、起訴された被告人の中には毒ガス戦への関与を認めていた者が存在していたが、罪は問われなかった。
海軍の相模海軍工廠跡を訪ねて(2022年4月9日)
史蹟
海軍技術研究所化学実験部
相模海軍工廠化学実験部跡
裏にはこう書いてある。毒ガスの悲惨なことについては何も書かれていない。
「海軍技術研究所は昭和5(1930)年この地に化学研究部を設け多くの市民から「技研」の愛称で親しまれた。
昭和18(1943)年相模海軍工廠化学実験部として改称し、終戦と共にその役割を終えた。今往時を偲び
懐旧の想い新たに先人の鎮魂と世界の平和を祈念しここに記念碑を建立しその足跡を留める。
平成6(1994)年春
相廠記念碑建立委員会建之」
*A事案区域とは、環境省が平成 15 年に実施した<昭和 48 年の「旧軍毒ガス弾等の 全国調査」フォローアップ調査※1>において終戦時における旧軍の化学兵器に関連する情報を集約した結果を踏まえ設定したA事案(毒ガス弾等の存在に関する情報の確実性が高く、かつ、地域も特定されている事案)に該当する区域のことです。具体的には、以下の3区域となります(図1参照)。
①旧相模海軍工廠跡地(神奈川県寒川町内)
②旧相模海軍工廠化学実験部跡地(神奈川県平塚市内)
③ 旧陸軍習志野学校跡地(千葉県習志野市・船橋市内)
略史
昭和 5年 海軍火薬廠用地の一部割愛を受け、海軍科学研究部化学兵器研究室が平塚出張所を開設
昭和 8年 平塚出張所に一号・二号・三号特薬兵器の製造実験工場を建設
昭和 9年 海軍技術研究所化学研究部として独立
昭和12年 特薬庫、火薬庫、爆発円筒及び特殊化兵研究室などを建設。総敷地面積は124,000平方メートルに
昭和17年 相模海軍工廠(寒川町)の新設と同時に、化学研究部が相模海軍工廠化学実験部になる
昭和20年 終戦、廃廠
第一次世界大戦後、日本は化学兵器の調査研究と技術開発に着手、大正11年に艦政本部内に担当部署が設置され、翌12年には海軍技術研究所となり化学兵器の研究と技術開発を開始。
相模海軍工廠では士官・常用工・徴用工員・女子挺身隊員・勤労動員学徒等3,500人余りが従事し、主として化学兵器・火工兵器の研究開発・製造が行われた。
海軍では毒ガスを攻撃用よりは防御用とすると認識が強く、相模海軍工廠では防毒マスクの生産が主力だった。(相模海軍工廠より)