原発活用の国策見直しを!!
かつて世界で行われる核実験の4分の1近くは、カザフスタンのある地域に集中していた。住民たちが受けた被害の大きさは計り知れない。写真家のフィル・ハッチャー=ムーア氏は、この地で2か月にわたって撮影を行い、「人間の愚行が生み出した残酷な副産物」に衝撃を受けた。「核の亡霊」と名付けられた彼のシリーズ写真は、荒廃した景色と、今も後遺症に苦しむ村人のポートレートを組み合わせたものだ。
カザフスタン東部のシャカマン村で母親と兄弟たちと暮らすズルフィア・トゥンクシゴジネ氏(35歳)は、生まれつき脳性麻痺があり、ゼミパラチンスク実験場で行われた核実験が原因だとの診断を受けている。彼女の母親は1962年まで核実験場に近いサルザリに住んでいた。(PHOTOGRAPH BY PHIL HATCHER-MOORE)
アメリカだけではない!!、全世界で起こっている!!
12月16日(土)
3,原爆の絵、その他パネルで核の恐ろしさ、悲惨さを再認識した。ヒロシマ・ナガサキと原爆を落とされ、フクシマは事故を起こし、未だに核の力に頼る政府に怒りさえ覚える。(30~50代、市内、図書館に来館して)
●三多摩平和交流会の感想
10、いろいろなお話をお聞きし、展示を観て勉強させて頂きました。色々な方が、平和や命の為に取組んでいて、多くの人と繋がっていければと思いました。ありがとうございました。(チラシ、70代以上)
集会のアンケートから
平頂山事件については、日本中国友好協会を通じて知りました。 学校では、アジアの近現代史はなかなか教えられません。自分で興味を持って学んでいくしかない現状に歯がゆさを感じます。裁判の終了後も、こうしてこの歴史を人々に伝える活動をしてくださる人々に感謝します。 私の娘は今4歳です。方さんが事件に合われた年齢です。曲さんのお話に自分の娘の姿が重なりました。もう少したったら、娘も連れてこのような学習会に参加できたらと思います。 来日してくださった曲さんご夫妻に感謝します。いつかまた、どちらかの国で私の娘共々曲さんにお会いできたらと希望を持ちます。 会場への案内に立ってくださっていた実行委員会の方々に助けられました。 ありがとうございました。
(中国語)
●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』
・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?
・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器・研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。
・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??
・河本禎助も毒ガスの研究をしていた。
実験医学雑報20巻 第7号(1936年)
本所職制改正
この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。
*特別研究室とは何だ??
実験医学雑報22巻 第6号(1938年)
伝染病研究所創立40周年記念日式辞
宮川米次
ビタミンC
ここに注意すべきことは、犬、鼠、鶏等は体内でこの酸を合成することが出来る。為にこの種の動物を用いて、実験的壊血病を起こさせることが出来ない。鼠と共に齧歯類に属する海猽、特にその若い動物は、この物質の欠乏に極めて敏感であることは、動物実験を為す際には余程注意しなければならない事実である。尚Szent-Gyorgyiが、本酸を発見したのは、還元性に着目したためであると言う。そして、この物に抗壊血病性作用があるということは、色々の暗示を受ける機に思う。人体並びに動物体の諸般の生物学的機能は酸化、還元に重大なる影響を有していることは申す迄もない。又諸種の疾病によって、夫々特有なる展があるのである。壊血病に於いては、酸化、還元の機序は如何なる具合に変化するものであるであろうか、知りたい事柄である。又本ビタミンが結核等に使用せらるるのも、首肯せらるる点がないでもない。これを佐藤秀三、柳澤謙氏等のチオスルファートに結核阻止作用のある所見の報告と照合すると興味が深い。
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
吉田裕監修
2001年ピュリッツァー賞受賞
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!
第2部 仁愛の政治
1922(大正11)年―1930(昭和5)年
第6章 政治的君主の誕生
Ⅱ
しかし福田は青島に到着すると、直ちに独断で内陸の済南への進軍(鉄道による)を決定し、その結果数日後には日本軍と国民革命軍との最初の衝突が起きた。続いて5月8日、天皇は2000人余りの民間日本人を保護するため、済南に増援部隊を送るのをためらわずに裁可した。彼は福田が自分の権威をおろそかにしたことは問題にせず、代わりに首相田中に対してひそかに怒りを抱いた。済南事件は1929年初めまでだらだら長引いて、その間中国人市民は1万7000の日本軍による恐怖の支配に脅かされ、日中の和解の気運は台なしになった。天皇にとっては、この事件も首相としての田中の無能ぶりを示すものに映った。
●日本国憲法9条
第9条【戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認】
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解説
9条をつかって、
戦争のない世界をつくる。
世界は、9条をえらび始めた。
平和が武器によってつくられるものではないということに世界中の国が気づき、すべての国が憲法9条をもつようになることを願っています。
―オーストラリア、20代・女性
『鹿屋(かのや)航空基地 史料館』(鹿児島県鹿屋市)について
~ご理解していただきたいことを文章にしました~
2022年7月17日記鶴ヶ岡裕一(都内在住)
25、私の父も、祖父もアジア侵略者でした。が、表立った暴力はありませんでした。しかし、志願して陸軍に行った父の頭が戦争体験でいっぱいだったことは分かっています。その父は娘に酒がなくとも体験を語りました。私はインタビューもできました。それが反戦平和への教えとなっております。実被害を受けたスピーカーの皆さんの記憶をなくすほどの解離(麻痺か)ご体験苦しくお聞きしました。本当に痛みなしには聞けませんでした。父上らの暴力、PTSDが戦争体験であることは間違いないのですが、今なら男から女へのDVやテロともいえる行為(放火銃撃殺戮)が止まないことは原因に「戦争だけではない」と、戦争トラウマとそっくりだと感じたことです。戦争に行かずとも男性がそうなっていく、この世界は透明な戦場だと改めて実感。密室である家庭内での妻、子どもへの殺すほどの暴行が現在続いています。戦争をしないだけでは不十分だと、この国は亡びると信じます。このストーリー、テーマは普遍的ですので、別なストーリーと思わず繋いでからめ「男を競争、抑圧に追い詰めない社会」へと変える努力をしていきたいです。ありがとうございました。
「戦争のない世界」
戦争が世界を席巻しています。
戦争を仕掛ける集団(国家)と対抗する集団がこの瞬間も殺し合いを続けています。
戦争は集団同士の殺し合いです。
私は戦争することを決めた集団の意思と集団に属する個人の意思の尊重を考えます。
そもそも戦争することはどういう過程を経て決まったのでしょうか。国会で、大統領権限で、集団の長の意思で、あるいは集団の総意でしょうか。集団の多数意見でしょうか。
戦争をしている兵士は全て志願兵でしょうか。殺し合いの場である戦場に派遣されることに強制されたりしていないのでしょうか。全て自由意志でしょうか。