今日もいい日だ。

50才から僧侶を目指し、自分探しの旅を続けている凡夫の物語

衆生所遊楽の解釈の間違いとは? その1

2020-05-19 21:03:35 | 日記

いやはやコロナ騒動毎日ですね。

ここのところSNSにこんな投稿を見ました。

以下SNSからの投稿引用

90歳の女性の嘆き

60歳になった時にヴァイオリンを弾きたいと思ったの。

だけどもう歳だから諦めたの。

いま悔しくて後悔しているのは、あの時ヴァイオリンを習っていたら30年も練習できていたということ。

「90歳の私からのアドバイスは『思っていたこと、やりたいことはやりなさい』とアドバイスしたい。」

という記事を昔どこかで見た。

生を受けられたのは究極の奇跡であり神秘
宿縁が熟しこの世に生まれて来れたのだから
やりたいと思ったことは総てやり切る
苦渋を遊楽に転換する 衆生所遊楽「法華経如来寿量品第十六」

 

という投稿を見た。

何か心に響く投稿だ。しかしながらいけません、いけません。

皆様もこの投稿者は頭がいいので騙されそうですが「衆生所遊楽」は苦渋を遊楽に転換するのではありません。危ない危ない。このように、スピリチャル好きを巧妙に誤った方向に導くのです。

 

衆生所遊楽はこのような意味ではありません。

ではまず原文を見て見ましょう

【妙法蓮華経 如来寿量品第十六】
 
 衆生見劫尽 大火所焼時
 我此土安穏 天人常充満 
 園林諸堂閣 種種宝荘厳
 宝樹多花果 衆生所遊楽 
 諸天撃天鼓 常作衆伎楽
 雨曼陀羅華 散仏及大衆 
 我浄土不毀 而衆見焼尽
 憂怖諸苦悩 如是悉充満 
 是諸罪衆生 以悪業因縁
 過阿僧祇劫 不聞三宝名 
 諸有修功徳 柔和質直者
 則皆見我身 在此而説法 

全文を見ればわかりますが衆生所遊楽の前に「我此土安穏」と書いてありますね。

これは「我が仏国土は安穏」と訳します。

ここからもわかるように衆生所遊楽は娑婆世界の話ではありません。

続きはまた明日。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

念仏者、南無阿弥陀仏にお出会いある方は「死の不安から逃避する」のでなく、「生死をこえて行く道」が与えられているから疫痛の不安も問題とならないのです。

2020-05-16 23:32:06 | 日記

今まさにコロナ禍の真っ只中!!

ネットで、このご文章のことが話題になっているみたいです。

まー私ごときが説明をするなどもってのほかです。

 

がしかしこれだけは申したい!!

念仏者、南無阿弥陀仏にお出会いある方は「死の不安から逃避する」のでなく、「生死をこえて行く道」が与えられているから疫痛(コロナウィルス)の不安も問題とならないのです。

そのご文章をまず見てください。

 


疫癘のご文章・御文(四帖目第九通)

 

 当時このごろ、ことのほかに疫癘とてひと死去す。これさらに疫癘によりてはじめて死するにはあらず。生れはじめしよりして定まれる定業なり。さのみふかくおどろくまじきことなり。
しかれども、今の時分にあたりて死去するときは、さもありぬべきやうにみなひとおもへり。これまことに道理ぞかし。このゆゑに阿弥陀如来の仰せられけるやうは、「末代の凡夫罪業のわれらたらんもの、罪はいかほどふかくとも、われを一心にたのまん衆生をば、かならずすくふべし」と仰せられたり。かかるときはいよいよ阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、極楽に往生すべしとおもひとりて、一向一心に弥陀をたふときことと疑ふこころ露ちりほどももつまじきことなり。
かくのごとくこころえのうへには、ねてもさめても南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と申すは、かやうにやすくたすけまします御ありがたさ御うれしさを申す御礼のこころなり。これをすなはち仏恩報謝の念仏とは申すなり。あなかしこ、あなかしこ。
  [延徳四年六月 日]


いかがでしょうか。

以下の人類の歩みは疫病や天災との戦いであったか。

科学が進歩したと自負する21世紀の我々が、ウィルスごときに翻弄されるのです。

ウィルスは最近より1000分の一小さいらしくさらに驚くのは、細胞壁も核もないんですよね。

 

ちなみにウイルスの基本構造

ウイルスは他の微生物とは大きく異なり,細胞壁,細胞膜,細胞質,核等の構造を持たない。ウイルスは遺伝子である核酸(DNAかRNA)を中心にして,その周囲を蛋白の殻(カプシッド capsid)で包んだ構造からできている(この構造をヌクレオカプシッドという)。

ウイルスの種類によっては,ヌクレオカプシッドの外側にさらに脂質と糖タンパクからなる被膜(エンベロープ envelope)が存在する。このエンベローブ(envelope)というのがあるのでコロナウィルスは表面に突起物が大きく出ているのであり、感染力がものすごく強いのであるね。

ちなみにエンベロープ (envelope)

ウイルス粒子の感受性細胞への付着に関与する

エンベロープ 内のタンパク質はウイルス自体の産物であるが、脂質は宿主細胞由来であり、エンベロープの脂質は宿主細胞の膜等に類似する。



エンベロープは脂質二重層からなる膜で、細胞内で作られたヌクレオカプシッドが細胞から出芽し、完全な子ウイルス粒子(感染性を有する完全なウイルス粒子をビリオンと呼ぶ)に成熟し、形成される。



エンベロープの獲得部位は細胞膜、小胞体膜、ゴルジ体膜、核膜のいずれかで、ウイルスによりことなる。

一般にエンベロープをもつウイルスはアルコールや石鹸など脂質を溶解する消毒薬に対して感受性が高く、逆にエンベロープをもたないウイルスは不活化されにくい。

経口感染するウイルスは腸管内で胆汁酸に溶解されないためにエンベロープを持たない。

 

手洗いとお念仏するしかないのですよ!

 

 

 


 

あーすいません。お手紙の解説は下記の通りです。


【『蓮如上人のことば』(稲城選恵著 法蔵館刊)の解説】


 この「御文章」は延徳四年六月のものであり、蓮師の七十八歳の御文である。

この御文に関連するものに『蓮如上人縁起』の、
 同夏のころ(延徳四年)疫病ありて、人の多く死することありしに、病うつるによりてやみもし、死することにてはなし、たゞ因果にて病もし、死にもするなりと仰ありて御文をつくりたまひて順誓にきかせられき、の文があり、さらに『一期記』にも出ている。


 夏の流行病で多くの人々が死亡したようである。蓮師の時代には、伝染病ということには無知のようで、うつるということを嫌っている。

しかし当時の一般はこのような悪性の疫病が流行すると、亡霊のたたりとか、日の吉凶や性命判断等、すべて自らの運命を支配するものを外に求めるのである。

それが、他宗や公方(官辺)の常識であった。それゆえ、延徳四年は明応元年にきり換え、年号そのものにその因由を求めているのである。


 科学文明の高度に進歩している現代人も全く同一である。特に戦後の医学の、驚嘆するほどの進歩にもかかわらず、迷信呪術も並行して、まさに迷信列島となっている。この現実の上から考えると、科学の進歩によっても解決されないものが、主体の側に残されていることが明らかに証明されている。

蓮師は、このような疫痛による死の不安におびえている民衆に対して、外から運命を支配するものを認めず、「さのみふかくおどろくまじきことなり」といわれ、「生れはじめしよりしてさだまれる定業なり」といわれている。

定業は「縁起」では因果とあり、自らの現在から過去に向った必然性をいうものであろう。※  それは他者に強要するものではない。


 疫痛の死は縁であって因ではない、因は生そのものである。母体からこの世に生をうけたということそのことが、死すべき因なのである。「生あるものは必ず死に帰す」ということは必然である。たとい疫痛が流行したとしても、死ぬ人もいればたすかる人も存するはずである。広島の原爆で、爆心地にいた人でも生き残った人もある。ほとんど全滅といわれる戦争においても生き残る人も存するのである。それゆえ、疫病そのものよりも、自らの主体の側に死去しなければならない必然性があるのである。しかしこのような理論で、自らの生死の不安を解決することができるであろうか。「かなわぬときの神だのみ」といわれるごとく、藁でもつかみたい気持をもっているのである。このような死の不安の現実に直面しているものに、いかなる迷信呪術にも動ずる必要のないものを与えているとことに注意すべきである。


 その内容こそ浄土真宗の法義である。現在、迷信呪術の跋扈は念仏の法の惨透していないことを証明しているのである。蓮師はこの現実に直面せる不安に対して、浄土真宗の法義を明らかに述べ、いかに迷わんとしても迷う必要のない場を与えているのである。次に阿弥陀仏の勅命の内容を明らかにされている。「阿弥陀如来のおほせられけるやうは」とある文はこの御文にのみみられる。第十八願を勅命とされていることはすでに善導大師の二河譬の上にみられる。「西岸上に人ありて喚て言く、汝一心正念にして直ちに来れ、我能く汝を護らん」とあり、「われを一心にたのまん衆生をばからなずすくふべし」ということは如来の勅命である。

それゆえ、「聞書」七十五条にも、
 聖人の御一流は阿弥陀如来の御掟なり。されば御文には「阿弥陀如来の仰せられけるやうは」とあそばされ候。
とあり、いかなる罪悪深重のものでも、いつでも、どこでも、だれでも救われる法が阿弥陀仏の本願の内容である。

それゆえ、今、ここに存在している私そのものが救いの対機でありゝ一心に弥陀をたのむものは必ず救われるのである。一心に弥陀をたのむとは、一心はひとすじにということであり、たのむはおまかせすることである

それゆえ、この私の救われるか否かの問題はすべて本願の上にあり、この本願の通りに成就してこの私の上にいつでも、どこでも、往生の因法としてとどけられているのが南無阿弥陀仏の名号である。

その名号を聞くことは、そのまま自らのはからいが否定されることになる。

名号に自らのはからいがとられ、如来のはからいにはからわれ行く身となる。

この名号六字はとして与えられているので、この因が果に証験しだのが浄土である。

それゆえ、「阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて極楽に往生すべし」とあり、自らいかに拒んでも名号のはからいによって必得往生の身となる。

死の不安から逃避するのでなく、生死をこえて行く道が与えられているから疫痛の不安も問題とならないことになる。

 

定業は「縁起」では因果とあり、自らの現在から過去に向った必然性をいうものであろう。

上記をわかりやすく少し説明しますと同じことをサルトルも申していますし、脳科学者の天才、苫米地さんも本で書かれてるんですが、3000年前のブッダが歴史上初めて言ったことですよね。わかりやすくいうと「時間というのは、未来から過去に流れている」んですね。

普通人間というのは、現在過去未来という順番で考えたくなりますね。現在の積み重ねが未来であると。ということは現在があり過去に囚われる、その可能性が高くなるのではないでしょうか?「過去の延長線上に未来がある」と考えると、人間は過去に囚われたままになってしまいます。

しかしながら未来から現在そして過去へと時間が流れていると考えると過去はただ過ぎ去るもの。こだわる必要はないのですね。

「未来が過去を作る」のですね。

 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コロナウィルスに縁と因果の道理を見る

2020-05-08 12:28:46 | 日記

縁と因果と聞いたことありますか?

道理って聞いたことありますか?

 
「因果」とは、「原因」と「結果」ということです。
 
どんな結果にも必ず原因があり、その縁により起こる結果ということです。その原因を原因足らしめたものも縁です。

例えば
 
世界中で新型コロナウイルスが蔓延したという結果にも、

ポケットに入れていた財布をどこかに落としてなくしてしまったという結果にも、必ずその縁があり因があります。


 
また「道理」とは「いつでもどこでも変わらないもの」をいいます。
法律や常識など、時代や地域によって変わるものを道理とは言いません。いつでも、どこでも変わらないものだけを、仏教では道理といいます。
 
ですから因果の道理とは、どんな結果にも必ず原因がある、原因なしに起きる結果は絶対にない、これは、いつでもどこでも間違いのないことなんだよということです。

 

因果の道理で教えられるのは、私たちの運命に関する原因と結果の関係です。
 
仏教では
善因善果、悪因悪果
と教えられます。
 
「善因善果」とは、善い因は、縁により善い果(幸福ということではない)を生み出すということです。
「悪因悪果」とは、悪い因は、縁により悪い果(不幸ということではない)を引き起こすということです。

自分の運命は他人によって決まったり

人智を超えた存在から与えられるものではなく


自分の行いが全てだということです。これを作り出すのも縁によります。

 

縁と因果の道理は仏教の根本を支える大事な教えです。

ブッダが説かれた教えが縁と因果の道理ですから、縁と因果の道理が分かりませんと仏教についてそもそもを間違うことになります。

 

 

ある人が

コロナウィルスは中国武漢の市場で野生のコーモリから感染したとか

コロナウィルスは中国武漢の細菌研究所から持ち出されたものとか

 

いろんな説が飛び交っていますが

 

それもこれも縁があり因を作り、その結果がコロナの全世界への蔓延です。

 

グローバルというこの時代だからこそ短期間に蔓延したわけです、全世界規模で。

 

仏教的視点の素晴らしさを感じて見てください。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三密って!! 仏教者は違うことを考えてしまいます。

2020-05-08 12:11:58 | 日記

みなさんお元気ですか? お久しぶりです。

コロナ蔓延し自粛自粛で、暇なんですが暇なんですが、家の手伝いやら、庭の掃除やら、心配な人に電話をしたり、ホームセンターに並んだりして

妻のスーパーの買い出しの手伝いやら、子供の勉強を見たりで普段より忙しいのかもしれません。

自粛もこのまま続くとなかなか息が詰まります。

年頃の娘と妻のバトル。特に妻の不機嫌さが、家飲みのお酒でヒートアップ。

また朝起きてきて、寝起きの一番が機嫌が悪いので、第一声にヒヤヒヤ。

「ゴミ袋パンパンなんだけど。」と朝から不機嫌

別の日には、最近始めた朝ヨガ。朝ヨガは7時くらいから始めるんですが、犬の散歩に時間がかかり少し遅く始めた時は

遅くに起きてきて「なに今日は朝起きるの遅いね。」

 

なんて日常です。


ところで三密を避けてください。

と言われることが多いのですが

仏教で三密とは、身口意(しんくい)の三業のこと。

 

  • 身業(体の行い)
  • 口業(口の行い)
  • 意業(心の行い)

上記のこれのことを言います。

 

煩悩はこの身口意の全ての上に降りかかります。

 

ですから三密っていうと、我が煩悩の上にある我が身のあり方を思い出してしまうのです。

なもあみだぶつ

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いよいよ1万人の感染者を超え、全国に緊急事態宣言を発令を仏教的に考える

2020-04-16 23:52:50 | 日記

いよいよ1万人の感染者を超え、全国に緊急事態宣言を発令を仏教的に考える。

 

というタイトル。そこでご紹介したいのが、この詩です。

 

聖夜   九条 武子   

 

星の夜空の うつくしさ


たれかは知るや 天(あめ)のなぞ


無数のひとみ 輝けば

歓喜(かんぎ)になごむ わがこころ

 

ガンジス河の 真砂(まさご)より


あまたおわする ほとけたち


夜ひるつねに まもらすと


きくに和(なご)める わがこころ

 

いかがでしょうか。

この詩が 示すところの喜びを この地球の一員として感じて見たいものです。

コロナウィルスと共存できるその日まで。

西本願寺はポッドキャストを配信しています。その中のお話から抜粋してご紹介いたします。

 

(参考)仏さまにいだかれて 九條武子さまの生涯(2005年1月第4週)

冨井 都美子(とみい とみこ)≪京都府善蓮寺住職/本願寺派布教使≫

 

九条武子様のお父さまが風邪をひいて寝込んでしまわれました。それが元と
   なって持病が進み、1903(明治36)年1月18日にお亡くなりになりました。武
   子さまは生まれて初めてひとの死に出合われ、 
     死といふものが、こんな造作ないものかとも思はれた (『同』18頁)
   
   と仰っておられます。
    お住まいには百華園と名づけにれたお庭があって、その名に相応しく四季折
   々の花が咲き、1年中絶えることがないそうです。お父さまがお亡くなりにな
   ったとき、その花々を見て、 
     百華園の春はひとの死もしらず、涙もしらず、花から花につづく晩春のさ
     びしさは喩えるべくもない。とおっしゃっています。

 

親鸞聖人の詠まれたご和讃に、 
     阿無阿弥陀仏をとなふれば
      十方無量の諸仏は
      百重千重囲繞して
      よろこびまもりたまふなり (『浄土和讃』『註釈版聖典』576頁)
   
   とあります。このご和讃の前の数首には、菩薩や仏法を護る神までもが、南無
   阿弥陀仏を称える人を「よるひるつねにまもる」と詠まれています。親鸞聖人
   は、阿弥陀さまの大いなるはたらきによって恐れるものはなく、そのはたらき
   の確かなことを表してくださいました。ですからわたくしたちもお預かりしたいのちを精一杯全心全力でこのコロナ禍の中でも日々生き抜こうではありませんか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする