第八代 蓮如上人がお書きになられた有名な手紙を「御文章(御文)」と言うのですが
その中でも親しまれている重要な御文章が
この白骨章です。
大変長いお手紙ですが要約しますと
白骨章の現代語訳
人の世のはかないようすをよくよく考えてみますと、この世の移り変わりは無常であり、まぼろしのような一生です。
いまだかつて1万年も生きた人がいるなどと聞いたことはありません。一生はすぐに過ぎてしまいます。
今まで、だれが百年の命を保つことができたでしょうか。
人生最後の日を迎えるのが、私が先か、人が先か、それは今日かもしれませんし、明日かもしれません。
人の命は草木の葉先の露や根元にかかっている雫(しずく)のように遅い早いの違いはあっても、いずれは落ちてなくなります。
私たちは朝には元気な顔であっても、夕方には白骨となってしまう身なのです。
無常の風が吹けば、二つの眼(まなこ)は閉じ、息絶えて、元気だった顔も美しさを失ってからでは、家族が集まって嘆き悲しんでも、どうすることもできません。
野辺におくり、荼毘にふして煙となってしまえば、ただ白骨だけが残るのです。人生の意味も知らず白骨になるために生まれてきたのでは、哀れではないでしょうか、愚かなことではないでしょうか。
ですから、人の世のはかなさは、老いも若きも分け隔てないのですから、だれもみな「後生の一大事」(死後どうなるかという大問題。み仏の国、お浄土に生まれさせていただくこと、後世の浄土往生というもっとも大事なこと)を心にとどめ、阿弥陀如来にすべてをまかせ、お念仏の生活をお送りください。あなかしこあなかしこ(あー勿体無い、勿体無い)
685字でした。もっと要約できるのですが、大切な教えに会えないのであれば意味がありません。
とても大切な「後生の一大事」と「ただ白骨のみぞ残れり。あわれというも中々おろかなり。」は略さず訳しました。
ここを適当にぼかして訳しているものが多いのは非常に残念です。悲しいだけではない世界があると思います。
原文
白骨章
それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、凡そはかなきものは、この世の始中終、幻の如くなる一期なり。
されば未だ万歳の人身を受けたりという事を聞かず。一生過ぎ易し。
今に至りて、誰か百年の形体を保つべきや。
我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、おくれ先だつ人は、本の雫・末の露よりも繁しといえり。
されば、朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。
既に無常の風来りぬれば、すなわち二の眼たちまちに閉じ、一の息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて桃李の装を失いぬるときは、六親・眷属集りて歎き悲しめども、更にその甲斐あるべからず。
さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半の煙と為し果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。
あわれというも中々おろかなり。
されば、人間のはかなき事は老少不定のさかいなれば、誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり。
あなかしこ あなかしこ
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