今日もいい日だ。

50才から僧侶を目指し、自分探しの旅を続けている凡夫の物語

「鬼滅の刃」から見た仏教の関連性

2021-01-02 23:06:14 | 鬼滅の刃と仏教

新年あけましておめでとうございます。
本年もヨロシクお願いいたします。

「鬼滅の刃」が今話題ですので、今回はそのお話をさせてください。

 

 

各シーンごとで名言が発出される素晴らしい作品。
私が好きなシーンは
主人公がコインを投げて表を出すシーン。
すんなり表が出て「どうして表が出せたの?」と聞かれ、主人公は
「偶然だよ。もし裏が出たら表が出るまでやり続けるつもりだった。」と言い放ちその場を立ち去ります。

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勧善懲悪ではない「鬼滅の刃」
多くの方が感動しています。
己の悲しみ痛みを他と共有できず耐えきれず、誘惑に負けて鬼になったその悲しみがわかる主人公が
単に鬼を斬って捨てるだけではなく、死にゆく鬼に寄り添うシーンに胸打たれます。

私たちが物語を感じる際に、主人公の視点で見ることが多いですよね。
ですから敵役の背景に想いをいたさない場合がほとんどの物語が多いようです。
ハリウッド映画の多くはそのスタイルのように感じます。

仏教的見地から物事を考えますと
善も悪もなく、その時の自分の立ち位置や状況によって自分は善にも悪にもなる危うい生き物であると
教えられます。


「鬼滅の刃」は主人公自体が人を殺す鬼の匂いに敏感で「悲しみ」の匂いから
鬼のバックボーンを読み取れる特殊能力を通して私たちに問いかけてきます。

釈迦が2500年前に私たちに問う その状況に似ています。
私たちは目の前のものしか見ていないと。しかもその見ている目は煩悩という毒で
目がかすんでおり、正しく物事を見ることができません。
釈迦は四諦八正道を提唱しましたが、その中の正見を特に強調しています。
正見は英語でRight view 正見は一番最初に説かれています。

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人間は、他者の生命を奪わずして己の命をつなぐことができません。
「鬼滅の刃」では罪のない人を食らう鬼が悪でありますが
現実世界における私たちはどうでしょうか?
地球にとって、まさしく私たちが「鬼」そのものではないでしょうか。

幸い私たちの心の中に「鬼」と「鬼殺隊」が同居しているわけですが
自分の都合のいい時にそれを使い分けています。

釈迦はそれが一番恐ろしいことだと私たちに教示してくださいました。

 

#鬼滅の刃 #仏教


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