今日もいい日だ。

50才から僧侶を目指し、自分探しの旅を続けている凡夫の物語

ご本意の願(深川和上)

2020-02-27 12:16:57 | 心に残る言葉

ご本意の願

十八願はそのまま救う。信ぜさせ、行ぜさせ(称えさせ)て救う。

十九願は色々な修行をした人を救う。

二十願はお称名(しょうみょう)を称(とな)えた者を救うとある。

さてこれをどうするか、法然上人のお弟子の間で、これをどう頂いたらいいのかと問題になった。阿弥陀さまのご本心は何だ。

そりゃ十八願だよ。そりゃわかる。

皆さんねえ、本願というものをどのような意味でお考えですか、根本の願ということでお考えですね。

それで結構ですが、もっとわかりやすいのはね、ご本意の願、親さまのご本心の願という方がわかりやすい。

なら何で阿弥陀さまは十九、二十願をお誓いになったのか。

修行をした者を救うとか、お称名をまごころ込めて称えた者を救うという、往生の因法をなぜ用意なさるのかと、法然上人の門下で理解が違いました。

宗祖(親鸞聖人)のお示しはどうかというと、この第十八願で結構だけれども、こりゃあ仲々わからんのがおる。わからん者に「どうせ愚かやから、どうせお前の心も智恵も駄目だから」と言えば、「ああ、さようでございますか」と聞けばいいのに、「何かやらにゃ。できん事はないですよ」と我を張る者がおって、もしこの十八願だけなら「こんな仏さまはつまらん」と逃げ出してしまう者がおるかもしれん。そうするとこの慈悲は全うすることができない。そんなら逃げて行くのを止(とど)めねばならん。

「お前がそれほどそのまま救うという私の意(こころ)がわからんで、『修行をする者を救うというのならわかる』というのなら、修行をする者も救うから修行をしてくれや、私は救う」と引き止めるために十九願を添えられた。

しかし「修行はできませんが、なんぼなんでもそのまま救うということがあるものか、何かしなければ、まごころ込めてお念仏くらい称えなきゃあ」という。
それも止めておかねばならんと二十願を添えられた。

それがご開山様(親鸞聖人)のお領解なんです。

ですからもし、「修行して救われる」という理屈がピッタリくると騒ぐ人間は、阿弥陀さまのご本心でない道を行っておるとしなければならん。
これを非本願という。ご本意にあらず。

よく私は言われますよ。

「お説教はテレーッと聞いて忘れて帰れ、眠ってもいいですよ」とお話しますとね。

「バカじゃなかろうか」と言う人がおるんですよ。

私は冗談で言ってるんじゃあないですよ。

説教というものは一生懸命聞くものじゃないですよ。眠っておってもいいですよ。

一生懸命聞くから間違う。

一生懸命にはなれんのが我々。

ちょっとなったような顔をしてもつまらん。

それを親さまがお見込みです。

凡夫はつまらんってね。

そりゃやっぱりまごころ込めた方がよさそうに見えますよ。

一生懸命になってやってる人がよくおりますよ。「真剣な求道」といいます。

お坊さんにもおるですよ、昔から。その人達はどこが間違うておるか、「俺の真剣が役に立つ」というところが間違うちょる。
だから彼らは遠慮会釈なく「我等真剣な求道者集団」と言いますよ。

だいたい歎異鈔を大事にするのが真剣な求道になります。格好がいいですよ「真剣な求道でなければなりません」と言うと。

お坊さんでいえば名僧、お同行でいえばちょっと姿がいいです。

しかし間違いです。これからも、生まれる以前も真剣になったことなどないんです。真剣になったとしたらどうなったか、

   「三恒河沙(さんごうがしゃ)の諸仏の
     出世のみもとにありしとき
     大菩提心おこせども
     自力かなはで流転せり」
         (親鸞聖人『正像末和讚』)


真剣な求道をやったけれども私の自力では駄目であったから、また迷ってきました。

真剣な求道はいけません。

ご開山様も真剣な求道とは、ご自分からは言われない。我々からみれば真実にご法義を求めたお方だというかも知れません。しかしそれもあまり言わない方がいい。

「このうえの称名はご恩報謝」。真剣な求道をやってると、ご恩報謝の人格にならない。

阿弥陀さまは片道の人格を期待なさってある。

また仏辺から言うと、如来さまは、ご恩報謝の人間を求めておいでになる。

おたすけではありませんよ。おたすけは「できそこないをそのまま救う」である。だが、そのうえから、この世の滞在の間、「ありがとう」と言える人間を求めておいでになる。

ところが真剣な求道やってるとそうはなりませんよ、きっと言います。「私は七十年、真剣にご法義を聞いてきた」とすぐ言いますよ。

いらん事は言いなさんな。向こうさまは兆載永劫(ちょうさいようごう)だよ。


わが身の側を重大視すると、自分のしたことを言わにゃあおられん。


あなた方もそうでしょ、家を建て替えた人がこの中にもおるかもしれんが言わんほうがいいですよ。(笑い)

「私の代に建て替えた」といっても、建て替えた木は じいさんが中刈りしとったから出来たんじゃあないか。

「私の時は生活改善で台所をやり変えた」と言うが、昔のじいちゃん家ごと建て替えたんだぞ。

自分のした事が大きく見えてきます。

百のうち五つしますと、段々それが十になり二十になり、三十になり五十になり、八十まで俺の自慢がはじまる。

だから求道はいけません。

さてそのようにして十八願、十九願、二十願を理解しとかねばなりません。

「そのまま救う」のご本願。

十九、二十願はわからん者のために用意をなさったのです。

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柿羊羹の中身は皆柿羊羹(深川倫雄和上)

2020-02-27 12:01:27 | 心に残る言葉

柿羊羹の中身は皆柿羊羹

(深川倫雄和上)

 
柿羊羹

私の子供が、「お父ちゃんバカでよ」というんですよ。

「なしてや」

「お父ちゃん、お説教の時『柿羊羹の中身は皆柿羊羹』ちゅうよね」

「おお、言うよ」

「あたりまえじゃないか」

「あたりまえじゃから、いいじゃあないか」

「そんなら柿羊羹でなくてもいいじゃあないか」

「何ならいい」

「蒲鉾でもいいじゃないか。蒲鉾の中身は皆、蒲鉾ちゅうて説教しても同じじゃあないか」

「違いますよ。蒲鉾買ったら がついてきますよ」

柿羊羹の中身は皆、柿羊羹。

阿弥陀さまの中身は皆、私。

阿弥陀さまの一部が私で、他は何かというのではない。

五劫兆載永劫(ごこうちょうさいようごう)のご苦労も、「四十八願の一々の願に言(のた)わく、若我成仏十方衆生」(善導大師『観経疏』)、阿弥陀さまは端から端まで私の事で一杯です。

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法話1 (深川倫雄和上)

2020-02-27 11:55:47 | 心に残る言葉

法話1 (深川倫雄和上)

 

阿弥陀さま、阿弥陀さま

近頃、「親鸞」、「親鸞」とご開山さまを大事にしすぎる。

親鸞と言うとけばそれがお念仏の信仰だと思っている人がある。

親鸞・親鸞あまり言わなくてもよろしい。

もっと言わなければならないのは「阿弥陀さま、阿弥陀さま」ということ。

阿弥陀さまのお慈悲に救われて西方の極楽に参って仏になる。

これが私どもの信仰なのです。

「此の御ことわり聴聞申しわけ候ふこと、御開山聖人御出世の御恩」であります。

大勢の「もの知り」達が親鸞・親鸞と呼び捨てにいたしまして、ご開山さまのことを書くけれども、一体その人達に阿弥陀さまがいるのかと聞きたい。


親鸞と書かないでもっと「弥陀」と書いてもらいたい。

勿論、ご開山さまを阿弥陀さまのお使いと頂くのがお念仏の頂き方でありますけれども、やはり親鸞聖人に救われるわけではありませんよ。

 

何故、親鸞・親鸞と言うのかといえば、結局阿弥陀さまを持たない。極楽を持たない。

そして人間であり凡夫でありましたところの親鸞聖人のことならわかりますから、だから人間親鸞を大事にする。


人間親鸞を大事にするのなら、乃木大将や東郷元帥を大事にするのと全く変わりません。あるいは「あそこの先生は立派な人だ」というのと同じです。

私どもにはいろいろな趣味があります。説教中に眠るのを趣味にしておるのもおる。


絵を画く趣味、盆栽の趣味、剣道、柔道、水泳、奇妙きてれつな趣味もある。

巾着(きんちゃく)掏摸(する)のが趣味の人もある。

株をやるのが趣味の人もある。

株ってそう儲かるものじゃないけど、毎日電話とラジオを聞いて売買をして、そう儲かるものではないが楽しい。緊張してますからね。

ところが一つもないという人もあるかも知らんが、どなたにも共通した趣味が、人間の評判であります。

面白いですよ。趣味にはまあ、書道ならそれぞれ流儀があってグループを作りまして、そして景気づけや激励のために品評会がある。

そしてあれがええ、これがええとやる。

人間の品評会がある。これだけは、どなたもするところの趣味であります。

「あの人は若いのに禿ちょるのお」
「ありゃ、おやじが禿ちょったから」
「ありゃ、禿ちゃあおらんが三十代で真っ白や」
「ありゃ、ばあちゃんがそうじゃった」

それくらいならまあええが、

「あそこのばあさんは、たいがいにゃ根性が悪い」などと、すぐ品評会がはじまる。

その一類として親鸞聖人という、人間親鸞品評会をするならば少しも信仰ではない

信仰というのは、阿弥陀さまを信じ、極楽を信じ、眼をつむったら西方のお浄土へ参るというのです。

だから私どもは阿弥陀さまを持たねばなりません。極楽がなければなりません。

「あるような気がせん」

お前さんの気がしようがすまいが、弥陀は極楽を設けて待っていて下さるちゅうたら、「はあ、そうでございますか」と聞いておけばいいんです。

 

ここまで

 

 

私は「はあ、そうですか。」と行かないのである、とほほ

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それ誤解です!シリーズ(1) 「ご冥福をお祈りしています」は使わないでください。 「死後暗い世界に生きるあなたに幸せを」と言っているのと同じであり大変失礼な言い方です。

2020-02-26 13:59:59 | それ誤解です!

それ誤解です!シリーズ(1) 

 

「ご冥福をお祈りしています」は使わないでください。

あなたが「冥福を祈る」と亡くなった方に言うことは  「死後暗い世界に生きるあなたに幸せを」と言っているのと同じであり大変失礼な言い方です。

この「冥福」と言う言葉は神道から来ており、仏教やキリスト教では

「冥福」と言う言葉は使いません。

俺は無宗教だからと言う方も上記の理由により大変失礼な言い方になります。

 

また、日本国の首相が

「ご冥福をお祈りし、ご家族の皆様にはお悔やみを申し上げます。」と言うことは

日本国憲法に違反しております。

特定の宗教の用語を使用することは「信教の自由」に反しているからです。公然と憲法違反をしています。

このような用語の使用は小さいことと思われるでしょうが、今の政府や政治家の言葉が軽くなってくる要因の一つになっていると思います。もちろん嘘もいけません。

 

さて

(続く)

 

 


よく訃報を聞いた方々が

「ご冥福をお祈りしています」などとSNSに

書き込んでいるのを見ることがあります。いやほとんどの人が書き込んでいます。

これは何の影響か?

「冥」という字のもつイメージと

「福」という意味が死者に対して敬意を表しているようなイメージがあるのでしょうか?

 

ほんといつからか知識者にまで誤用が広がっています。


「冥福」

ウィキペディアに、仏教でも使うなどと書いてありますが、大間違いです。

ウィキペディアのタブーの欄に書いてあることが一部正答、あっていると思います。

ちなみにウィキペディアでは

死者が行く先である冥界での幸福を冥福と言う。あるいは、その幸福を祈るために行う仏事も冥福という[1][2]。死者の幸福、仏事に関しては、『永平清規』・坤巻・知事清規「冥福を修むに以つて、亡者を薦す(修冥福以薦亡者)」の一文。『魏書列伝』、崔挺「八関斎を起こし、冥福を追奉す」の一文。 『孝明天皇紀』「勅して仏事を知恩院に修し彼我戦死者の冥福を薦す」の一文などが挙げられる。

しかし、異なる意味で冥福という言葉が使われる場合もあった。第1に、隠れた(例えば、前世での)徳行を起因とする幸福、隠功も冥福と呼ばれることがあった[2]。『三教指帰』・下巻の「毎に国家のために、先ず冥福を廻らす(毎為国家先廻冥福)」の一文など。

第2に、理解しがたい何かによってもたらされる幸福を冥福と呼ぶこともあった[2]。『三国伝記』 (3・12)「彼人さては如意輪観音の国土の災患を廃し、村人の冥福を示し給へるなると貫く念ひ奉り」の一文。

 

と書かれていますが引用の書籍は仏教経典ではございません。

 

 

事典によっては、仏や菩薩による加護などを、内々に受けている冥利(冥益、冥応、冥鑑、冥助)を、冥福と関連するものと位置づけている[3]

上記は冥の意は、隠れている、見えないと言う意味です。暗い世界やあの世や地獄を指す言葉ではない。

 

 

タブー[編集]

弔意を表すことばとして、「冥福を祈る」「ご冥福をお祈りします」などが一般には用いられている。しかしながら「冥」という字は、冥利のように「うかがい知れない何か」という意味であるが、日が暮れて非常に暗くなったこと、ものがはっきりと見えなくなったこと、瞑(目をつぶる)とよく似ていることから切ない死後の世界を連想させるため、避けるべきとする考えもある。

いくつかの宗教、あるいは宗派では、「冥福」の必要は無いとされている。例えば、キリスト教のうちプロテスタントの一部の教派は、死後確実に神のいる天国に行くと考えている。またこれらの教派ではカトリックでいう煉獄や、陰府、冥府、古聖所など呼ばれた死後の世界は想定していない。仏教の一宗派である浄土真宗では、阿弥陀如来の他力本願により極楽浄土へと導かれるため不要とされている。あるいは、信心不足や死者の迷いを指摘する言葉であり不適切とする考えがある。これらに対する無難な言葉として「心から哀悼の意を表します」などがあげられる。

 

仏教では「生も死も自分自身である」と考えています。「死と生」を分けて考えることはない。

あなたが「冥福を祈る」と亡くなった方に言うことは

「死後暗い世界に生きるあなたに幸せを」と言っているのと同じであり大変失礼な言い方です。

 



 

そもそも

神道、道教で使われいたのが

冥と言う死後の世界。黄泉の国。

日本書紀にも冥界(黄泉の国)に死んだ妻がいるので、会いに行ったらバケモノ髑髏と変わり果てていたと言う記述もありますね。

ウィキペディアより

イザナギは死んだ妻・イザナミを追ってこの道を通り、黄泉国に入ったという。

そこで変わり果てたイザナミの姿を目撃したイザナギが、黄泉の国から逃げ帰る場面が以下のように表現されている。

逃來猶追到黄泉比良坂之坂本時[3]
(訳)逃げ来るを、猶ほ追ひて、黄泉比良坂の坂本に至りし時  

口語訳では「(イザナギが)逃げるのを、(イザナミは)まだ追いかけて、(イザナギが)黄泉比良坂の坂本に着いたとき」となる。この時、追いすがる妻やその手下の黄泉の醜女(しこめ)達を退けるため、黄泉路をふさいだ大石を、道反の大神(ちがえしのおおかみ)といった。道反の大神は岐神として、日本各地に祀られている。今私にしてくれたように)困った人を助けておくれ」と命じられた。

 

 


 

 

ではどのように言えば良いのか?

 

心からお悔やみ申し上げます。

が正しいでしょう。

 

哀悼の意を表します。ですと普段自分の使わない言葉になりますので少しよそよそしい感じがするかもしれません。

 

あなたのそれ誤解です!

 

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いつでも心に留めておかなければならない話(2)

2020-02-23 10:13:19 | 真宗と他力

生活と仏教が重なる、そのことを親鸞聖人は、生活の中に「信心のしるし」が生まれる

 

 

信心のしるし(上) 本多靜芳(東京教区万行寺住職 アーユス仏教国際協力ネットワーク理事) 

[2015年1月1日号(第118号)]

 

 

・信楽峻麿先生との出遇い
信楽先生と初めて、お話しをする機会に恵まれたのは、1991年、日本佛教学会学術大会が開催された大正大学でした。

当日、私は、真宗教団における負の遺産である『真俗二諦論』の展開とその功罪、そして、本願寺派教団の基幹運動の展開とその問題点などの研究発表をしました。終了後、同会場におられた先生に、ご挨拶をし、また発表についてのご助言をお願いしました。先生は、「それで、結局、あなたは、どう生きようとしとるのか、ということじゃよ」というお言葉を頂いたのです。

いや、そういう言葉として私の記憶に残ってしまいました。もちろん、学会発表を済ませた安堵感や、数日来睡眠不足ぎみで朦朧としていた私の頭を、がつーんと撃たれたようで、私の「いのち」の目を覚ましてもらったのはいうまでもありません。



・素朴な疑問
私は、1957年、築地本願寺の隣の万行寺の一人息子として生まれました(現在、東京都東村山市に移転)。それなりに、親鸞聖人の浄土真宗、そして大乗仏教を学びました。大学生の頃、「南無の会・辻説法」、「築地本願寺・仏教文化講演会」、「在家仏教協会・講演会」などで仏教の話を聞くうち、親鸞聖人がいわれていることと、本願寺八代の蓮如上人のいわれていることは、言葉遣いは似ているけれど、本質的なところで違いがあるという素朴な疑問を抱きました。

そして、私がたどりついたのが、信楽峻麿先生の研究と学びの姿勢でした。先生の御近著『真宗学シリーズ①現代親鸞入門』(法蔵館)などから、この問題を次のように学んでいます。


・真俗二諦論
浄土真宗には、「真俗二諦論」という考え方があります。これは親鸞聖人の曾孫、覚如上人に始まり、蓮如上人へと続く伝統教学の系譜です。

真とは仏法のことです。俗とは世俗ということです。諦というのは原理という意味です。

 ┌真諦―仏法―心―信心(信)
 └俗諦―世俗―体―生活(行)

この論法では、私たちがこの人生を生きるにあたって、二つの原理があってよろしいといいます。それが現在も、本願寺派の伝統教学の根源になっています。

在家生活でいいかえますと、お仏壇の前に坐っているときは仏法の原理(仏の智慧)を立てろといいます。
ところが一歩仏壇の前を離れて台所に入ったら、世俗の原理(人間の理性)でよろしいというわけです。

仏壇の前に坐っているときは、お念仏を称え、世間は虚仮なものと見据える仏さまの教えに手を合わせています。しかし、一歩仏壇を離れて台所に戻ったら、仏法とはかけ離れた、世間の倫理(道徳)・論理(合理)に従えばよいというのです。

お寺にいる僧侶の立場でも同じです。本堂(儀礼空間)にいるときは、袈裟をつけ門徒さん向けの仏法中心の教えを説いているけれど、いざ、庫裏(生活空間)に帰ってきたら、仏法を離れた世俗の論理に立った生活に切り替えてよろしいということです。その場その場で使い分ければいいのですから大変、都合がよい話です。仏教の原理と世間の原理の二本立てということです。

果たしてこのような生き方は、親鸞聖人のお示しになったものでしょうか。その主著『顕浄土真実教行証文類』「総序」には、「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」といわれます。

行とは念仏の生活、信とは真実の仏法。親鸞聖人は、これ以外のところでも、この二つをセットでお使いになっています。行と信は別のものではないのです。信心を離れた念仏はなく、念仏を離れた信心はありませんというのが親鸞聖人のお示しであったわけです。

 
・二元論から一元論へ
親鸞聖人の教えは、「真俗一貫論」です。一貫ということですから、仏法の原理と世俗の原理、信心と生活には一つのものが貫いているのです。これを「行信一如」の教学と言ったりもします。

行というのは生活です。信は仏法です。台所と仏壇は別の原理ではないのだということです。

生活と仏教が重なる、そのことを親鸞聖人は、生活の中に「信心のしるし」が生まれるでしょうとおっしゃっていると信楽先生は教えて下さいました。私は、このことを次のように受けとめています。

ちょうど味噌汁のお碗の中にワカメが入っていたら、味噌汁にワカメの香りや味やコクが、出るのと同じように、普段から仏法を大切にする生活をしていたならば、どこかその生活に、仏法らしい、真宗らしい香りや味が出るのだといえないでしょうか。

「信心のしるし」は親鸞聖人のお手紙に出てくる言葉です。人によってその「しるし」の表れ方は違いますので、親鸞聖人は決して、何々せよ、何々してはならないという「掟」を一つも示さなかった聖人であったと信楽先生から教えて頂きました。

私はその「しるし」として、「念仏者・九条の会」や「浄土真宗・反靖国連帯会議」、そして、「アーユス仏教国際協力ネットワーク」という仏教NGО団体に関わるような生き方が生まれました。
「しるし」ですから、一人ひとり違う形で表れるわけです。

世界の宗教には、多くの場合、掟のようなことをいう宗教があります。あなたがこの教えに生きるのだったら、この掟を守らなければいけない、と説く訳です。しかし親鸞聖人はそうではない説き方をしていらっしゃるのだ、ということを信楽先生から繰り返し教えて頂きました。

そのような教えを「一元論」だと学びました。二つの原理を使い分けるのが「二元論」の立場であるのに対して、二つの生活の中に一つのものが一貫しているというのが、「一元論」の立場です。


・あなたの「しるし」を示せ
その後も、先生のご著作や論文を読み続けましたが、時々、京都の「聴石の会」や、広島の「甘露の会」にも参加するようになりました。また、東京で「念仏者・九条の会」の東京大会を開催する折にも、ご出講いただき、直接お目にかかる機会が増えました。すると、お念仏の信心に生きる先生のお姿を通すことで、書物だけで学んでいる以上のことを教えて頂いたと感じます。

先生は、仏法が、生活の中に貫くことは、大変、厳しい、辛い出来事であるということを、「靴の中の石粒」というたとえで、教えてくれています。
靴の中の石粒は、時々、足の裏をつついて痛いことがある。先生にとって、親鸞聖人の教えは、丁度、そのようなものである。石粒は取り除いたら、もう痛くはないが、それを取り除いてはいけないと思う、と熱い心情で語ってくれました。

今、あの時、「それで、結局、あなたは、どう生きようとしとるのか」と語りかけて下さったのは、「あなたの、信心のしるしを示せ」と仰って下さっていたのでした。ようやく、その真意に肯けるようになれました。相手を選んで方向をつけてくれたのでした。
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