ご本意の願
十八願はそのまま救う。信ぜさせ、行ぜさせ(称えさせ)て救う。
十九願は色々な修行をした人を救う。
二十願はお称名(しょうみょう)を称(とな)えた者を救うとある。
さてこれをどうするか、法然上人のお弟子の間で、これをどう頂いたらいいのかと問題になった。阿弥陀さまのご本心は何だ。
そりゃ十八願だよ。そりゃわかる。
皆さんねえ、本願というものをどのような意味でお考えですか、根本の願ということでお考えですね。
それで結構ですが、もっとわかりやすいのはね、ご本意の願、親さまのご本心の願という方がわかりやすい。
なら何で阿弥陀さまは十九、二十願をお誓いになったのか。
修行をした者を救うとか、お称名をまごころ込めて称えた者を救うという、往生の因法をなぜ用意なさるのかと、法然上人の門下で理解が違いました。
宗祖(親鸞聖人)のお示しはどうかというと、この第十八願で結構だけれども、こりゃあ仲々わからんのがおる。わからん者に「どうせ愚かやから、どうせお前の心も智恵も駄目だから」と言えば、「ああ、さようでございますか」と聞けばいいのに、「何かやらにゃ。できん事はないですよ」と我を張る者がおって、もしこの十八願だけなら「こんな仏さまはつまらん」と逃げ出してしまう者がおるかもしれん。そうするとこの慈悲は全うすることができない。そんなら逃げて行くのを止(とど)めねばならん。
「お前がそれほどそのまま救うという私の意(こころ)がわからんで、『修行をする者を救うというのならわかる』というのなら、修行をする者も救うから修行をしてくれや、私は救う」と引き止めるために十九願を添えられた。
しかし「修行はできませんが、なんぼなんでもそのまま救うということがあるものか、何かしなければ、まごころ込めてお念仏くらい称えなきゃあ」という。
それも止めておかねばならんと二十願を添えられた。
それがご開山様(親鸞聖人)のお領解なんです。
ですからもし、「修行して救われる」という理屈がピッタリくると騒ぐ人間は、阿弥陀さまのご本心でない道を行っておるとしなければならん。
これを非本願という。ご本意にあらず。
よく私は言われますよ。
「お説教はテレーッと聞いて忘れて帰れ、眠ってもいいですよ」とお話しますとね。
「バカじゃなかろうか」と言う人がおるんですよ。
私は冗談で言ってるんじゃあないですよ。
説教というものは一生懸命聞くものじゃないですよ。眠っておってもいいですよ。
一生懸命聞くから間違う。
一生懸命にはなれんのが我々。
ちょっとなったような顔をしてもつまらん。
それを親さまがお見込みです。
凡夫はつまらんってね。
そりゃやっぱりまごころ込めた方がよさそうに見えますよ。
一生懸命になってやってる人がよくおりますよ。「真剣な求道」といいます。
お坊さんにもおるですよ、昔から。その人達はどこが間違うておるか、「俺の真剣が役に立つ」というところが間違うちょる。
だから彼らは遠慮会釈なく「我等真剣な求道者集団」と言いますよ。
だいたい歎異鈔を大事にするのが真剣な求道になります。格好がいいですよ「真剣な求道でなければなりません」と言うと。
お坊さんでいえば名僧、お同行でいえばちょっと姿がいいです。
しかし間違いです。これからも、生まれる以前も真剣になったことなどないんです。真剣になったとしたらどうなったか、
「三恒河沙(さんごうがしゃ)の諸仏の
出世のみもとにありしとき
大菩提心おこせども
自力かなはで流転せり」
(親鸞聖人『正像末和讚』)
真剣な求道をやったけれども私の自力では駄目であったから、また迷ってきました。
真剣な求道はいけません。
ご開山様も真剣な求道とは、ご自分からは言われない。我々からみれば真実にご法義を求めたお方だというかも知れません。しかしそれもあまり言わない方がいい。
「このうえの称名はご恩報謝」。真剣な求道をやってると、ご恩報謝の人格にならない。
阿弥陀さまは片道の人格を期待なさってある。
また仏辺から言うと、如来さまは、ご恩報謝の人間を求めておいでになる。
おたすけではありませんよ。おたすけは「できそこないをそのまま救う」である。だが、そのうえから、この世の滞在の間、「ありがとう」と言える人間を求めておいでになる。
ところが真剣な求道やってるとそうはなりませんよ、きっと言います。「私は七十年、真剣にご法義を聞いてきた」とすぐ言いますよ。
いらん事は言いなさんな。向こうさまは兆載永劫(ちょうさいようごう)だよ。
わが身の側を重大視すると、自分のしたことを言わにゃあおられん。
あなた方もそうでしょ、家を建て替えた人がこの中にもおるかもしれんが言わんほうがいいですよ。(笑い)
「私の代に建て替えた」といっても、建て替えた木は じいさんが中刈りしとったから出来たんじゃあないか。
「私の時は生活改善で台所をやり変えた」と言うが、昔のじいちゃん家ごと建て替えたんだぞ。
自分のした事が大きく見えてきます。
百のうち五つしますと、段々それが十になり二十になり、三十になり五十になり、八十まで俺の自慢がはじまる。
だから求道はいけません。
さてそのようにして十八願、十九願、二十願を理解しとかねばなりません。
「そのまま救う」のご本願。
十九、二十願はわからん者のために用意をなさったのです。