外国人に日本語を教える仕事を長くし、最近では留学生のキャリア形成にとても興味を持っています。
留学生の就職、進路についていろいろ検討しているうちに、明治以降日本に来た外国人たちは
どのような働き方をしていたのかに、興味を持ちました。
というわけで、幕末から明治初期に日本に来た『お雇い外国人』にハマっている最近です。
さて、
先日は神戸旅行に出かけましたが、そこで明治34年河合浩蔵設計の『旧小寺家厩舎』を見学しました。
河合浩蔵は
安政3年、東京の下町(本所)生まれ(一部の資料では武州東葛飾郡=埼玉県の生まれ、とあります)です。
工部大学校造家学科で日本の近代建築の父と呼ばれているジョサイア・コンドルに建築を学びました。
コンドル先生の弟子のひとりということになります。
ところで、明治時代、工部大学校とか、工部省とか、よく出てくる名前ですが、どんなところなのでしょうか?
調べてみました。
明治になって西洋の科学技術を導入するための官庁として置かれたのが工部省です。
工部大学校は虎ノ門にあり、世界でも珍しい実学重視の高等教育機関として設立され、
日本の近代化の礎を築く数多くの技術者を育てました。
伊藤博文の命を受けて、カリキュラムを組んだのはイギリス人の技術者のヘンリー・ダイアーで、
校長就任当時はわずかに24歳だったそうです。
お雇い外国人が数多く出入りし、全国から俊才が集まってくる工部大学校は、
新たな時代を象徴する新名所でしたが、明治21年に本郷に移され、東京帝国大学工科大学になりました。
さて、話を元に戻して、
河合浩蔵は1882年(明治15年)工部大学校を卒業(4期生)、工部省に入りました。
この頃の日本は、首都に国会議事堂や諸中央官庁を集中して整備し、その偉容を内外に示し、
不平等条約の改正につなげようとする壮大な官庁集中計画を立てていたそうです。
河合はその計画に参画することになります。
その実施計画を担当したのは、ベルリンのエンデ&ベックマン建築事務所です。
ベックマンはこの大事業の実現には、日本の建築技術者を養成が不可欠であると考え、
建築家、そして建築を担うレンガ、セメント、装飾などの職人のドイツ留学を建議しました。
河合をはじめ妻木頼黄、渡辺譲ら14名はベックマンの口添えで、
のちにドイツに留学することになります。
2年間のドイツ留学は河合にどのような変化を与えたのでしょうか?
帰国した河合は、エンデ&ベックマン建築事務所で作成された原設計を元に
司法省(現法務省赤レンガ棟)の実施設計と工事監理を行います。
河合はその際に外国人技術者の手を借りず、細部の納まりまでも自らの力でこれを完成させます。
「気骨の建築家」であり、
ベックマンの『日本の建築技術者の育成』が不可欠、と考えたその意思をしっかりと受け継いだ
のではないでしょうか。
河合の設計したビルは東京よりも大阪、神戸に多く残っています。
河合はドイツ・ルネッサンス風の大阪控訴院(明治33年)、神戸地方裁判所(明治37年)を完成させたあと、
そのまま神戸に定住、栄町通に建築事務所を開業しました。
旧居留地の海岸ビルヂング(旧日濠館、明治44年)、海岸ビル(旧三井物産神戸支店、大正7年)、
旧小寺家厩舎(明治40年代、国重要文化財)、水の科学博物館(奥平野浄水場、大正6年)、
毎日新聞神戸ビル(旧横浜火災海上保険神戸支店、大正14年)等、
神戸らしさを演出している代表的な建築が、河合の手によるものです。
今回の神戸街歩きでは、旧居留地、相楽園を訪ね、河合浩蔵の代表的な建築をみることができました。
そして、河合浩蔵も『御雇い外国人の弟子のひとり』だったということが確認でき、
かなり満足のいく旅行となりました。
写真は重要文化財 旧小寺家厩舎
参考文献など
ウィキベディア http://ja.wikipedia.org/wiki/河合浩蔵
偉人館 http://www2s.biglobe.ne.jp/~stakers/arch/arch.html
関西今昔建築散歩 http://kenchiqoo.net/archives/000380.html