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Retro-gaming and so on

プラチナエンドとは何だったのか

アニメ「プラチナエンド」が終了した。
全24話。2クールに渡って放送され、完璧に原作を映像化した。
大場つぐみ・小畑健コンビの第1作、「デスノート」とも違い、エンディングも全くと言って良い程「原作」を完全になぞっていた。
と言うことは、「意味が分からない」、非常に理解しづらい「難解な作品」として終了した、と言う事である。
人がたくさん死に、それを解決出来た、と思った途端、要するに「破滅エンド」である。
そしてそれは、名作「デビルマン」とは完全に様相が違う。
一体「プラチナエンド」と言う話はどういう話だったのだろう。

これは極めて評論がしづらい物語である。途中まではフツーのバトル漫画に見えるが、ところが物語の中盤を過ぎると途端に「神の正体とは?」と言うテーマにすり替わってるように見える。
そして、ラストは、実のトコ「神の正体」にも何も近づかないのだ。
そう、このままでは単に「難解な話」である。そして実のことを言うと「面白くない!」と批判も出来ない。なんせ一応、ヒューマニズムを語ってるような場面もあるからだ。しかしその癖、ヒューマニズムもクソも力なく人類全滅である。「なんで?」と疑問しか沸かない。
一言で言うと全く掴みどころがない話なんだ。これほど評論家泣かせの話もねぇんじゃねぇの?って気がしてる。いや、別に俺は評論家じゃねぇけどよ(笑)。
誰かこれを上手いこと解説している人っているんかね?

ところで、だぜ。
一応言っておくと、個人的には、評論をする際にやっちゃいけない、と思ってることがある。
それは作者が一体どういう人なのか、と言うバックグラウンドを考慮して作品を評価するのは絶対ダメだと言うことだ。
作品は人が生むものだが、作品が一旦生まれた以上、その作品と作者を関連付けて評する、ってのはやっちゃいけない
まぁ、個人的な意見としてはそうであって、たとえば作者がロリコンで美少女ヌードを輸入してたとしてもその人が描いた作品とは既に別モンなんだよ。それとこれとを同一視すべきじゃない、と思っている。
たとえ監督が覚醒剤打ってたとしても、その人が撮った恐竜映画に罪はないのだ。個人的には絶対そこを外しちゃならんと思っている。
作品の論評ってのはその作品の範疇でしなければならない。それが原則。
小林よしのりが以前言ってた通り、どんな極悪人でさえも名作を産む可能性は常にあるんだ、って。

ところで。プラチナ・エンドの大場つぐみ、と言う作者は全く顔が見えない覆面作家である。
いや、「バクマン。」まではそれで良かった。しかし、プラチナ・エンドはホンマ、難解過ぎる程難解な作品だ。
でも、実はプラチナ・エンドって作品は、「大場つぐみ」が何者なのか、と言う情報さえ入れればすんなり解ける作品なのでは、と思いついたのだ。
うん。
これには困ったんだ。ミッシング・ピースは「大場つぐみが何者か」なのではないか、と。評論でやっちゃいけない、って思ってることを敢えてやればこの作品が解読できるのでは、と。
う〜ん、ってかなり悩んだんだよなぁ。
皆が許してくれる、ならその話を書こうか、と思ってる。言わばここからは「禁を侵した」話だ。従って以下はマトモな評論ではない、ってことを最初に断っておく。

大場つぐみの正体が誰か、ってのは長年色々と語られてきている。一番有力な説は、かつて少年ジャンプで連載されていた「とっても! ラッキーマン」の原作者、ガモウひろし説である。
この説が正しいとすれば、だ。いや、あくまで仮定として「この説が正しいとすれば」だ。
大場つぐみと言う作家は、本性がギャグ漫画家、だと言うことになる。いや、そうならざるを得ない。
思い出してみれば確かに、デスノートでも割に作中にギャグを散りばめていたり、「バクマン。」でも同じような手法を取ってたのに納得できる。ギャグ漫画家ならどうあっても、全編シリアスには激振り出来ないだろう。いっつもギャグが湧いてきて身悶えしてる可能性さえあるのだ。
それでだ。そういう目でプラチナエンドを見てみると。いや、この作品がシリアスな作品だと思うから難解に感じるんじゃないかと気づいたのだ。逆に初めからギャグ漫画として読めばすんなりと読めるってことに気づいたんだよ。

そう、僕が気づいてマズイ、って思ったのは、大場つぐみが本性ギャグ漫画家である(仮定)、と言うミッシングピースを埋めると、プラチナエンドの構造は何も難解にはならない、と言うことなんだ。要するにプラチナエンドはギャグ漫画だったのでは?と言うことだ。画力が凄まじい小畑健を伴い、一見ギャグ漫画に見えないギャグ漫画を作ったのでは、と言うのがここでの仮説である。

そうすると、OPが自殺願望者で始まって、EDが自殺願望の何らかの超常的な生物がいた、と言うのが見事繋がるのだ。そう、最初の自殺願望者達の存在は前フリ、ってことになり、オチとしては完璧になる。ギャグ漫画の構造としてはかなりよく出来てる、ってことになるんだ。
そして主人公「架橋明日」のイキ過ぎたヒューマニズム観点。これってむしろギャグ漫画のキャラなんだよな。昨今のシリアスなストーリー漫画でもこんなキャラはいない。うん、むしろそれこそ小林よしのりが描いた短編の「ザ・ヒューマン」にカテゴライズされるキャラクタなのだ。
つまり、大場つぐみ = ガモウひろし説が正しいとすれば、これはガモウひろし状態で初めて描いたブラックユーモア溢れるギャグ漫画なのだ。言い換えると皮肉を笑いとした話であり(底谷一のキャラ設定を見てみろ)、どこにもマジメに捉えるべき話は描いてないのだ。
大体、「架橋明日」の言ってること自体が取り立てて新しい何かを語ってるわけではない。仮にこんなステロタイプなことを言っててその通り行動するヤツがいたらそれはもう狂人だろ。
実際、彼は幼い日に両親から教わった「言葉」に呪縛を受けている。そして作中にそれが「正しさである」と言った描写もない。彼はギャグ漫画の主人公として生まれて、いわゆる世間的に言われてる「ヒューマニズム」体現者としてカリカチュアライズされている。そして彼は何であれ、報われずに唐突に死ぬわけだ。
もっと言うと、この漫画ではどの登場キャラクタもカリカチュアとしてしか存在していない。この主要キャラ陣の一体誰に共感ができるのか(笑)。シリアスな漫画としては「誰1人共感できる人物がいない」って辺りで実は決定的な欠点を持ってる漫画なんだ。
一方、ギャグ漫画の登場人物は通常、単純に現実をとことんカリカチュアライズしたモノであり、我々はそれを一歩引いて見て笑ってる。
この漫画、プラチナエンドは実はそういう構造を持っている。繰り返す。大場つぐみ = ガモウひろし説が正しいとしたら、この漫画はブラックなギャグ漫画として読むのが正解なのだ。

と、僕の中では、大場つぐみ = ガモウひろし説が正しいとすれば、いきなり全部氷解しちまったんだよな。小畑健の画力のせいでミスリードが生じてるんだけど、考えてみれば「正義のヒーロー」のカッコしてる悪役とか、猫耳美少女のバトルスーツ、なんつー存在もギャグである。色々とギャグがあっちこっちに気づかれないように地雷の如く仕込まれていて、要するにギャグ作品だ、ってことすら隠蔽するような高度なメタギャグも仕込んでるという・・・・・・。
うん、僕の中では既にそういう確信になってる。でもこれは評論としては、繰り返すが禁じ手だ。やっちゃいけないことをしてる自覚はある。

皆さんはプラチナエンドを如何に考えているのだろう。誰か上手いこと筋道付けられたら是非とも発表して欲しい。
いずれにせよ、プラチナエンドは21世紀最初に現れた奇作ではある。

あー、ちなみに、アニメのOPもEDもうるさいだけで、これだけは我慢なんなかったわ(笑)。
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