さて、以前、今一番のオキニのマンガは福田晋一の「その着せ替え人形は恋をする」だ、と言う話をした。昔ほど、各漫画雑誌を色々と読む、って事は無くなったわけだが、恐らく、多分、今一番面白いマンガじゃないか、って思っている。
また、現時点で販売されているヤングガンガン(2021年 No.15)で、どうやら物語が一旦佳境に入ったような気がしてるので、ここでこの物語に対する個人的なマトメをしてみても良いかな、って気分になったのだ。
1. 最初は狙い過ぎじゃねぇの、って思っていた
さて、このマンガ。連載がはじまったのが2018年の2月頃だったのだが。
ぶっちゃけ、初回と二回目を読んだ時、「何だこのマンガ?」としか思わなかった。
いや、「何だこのマンガ?」ってのはいい意味も悪い意味もあったのだが、ぶっちゃけ、悪い意味の方が大きかった。
まずは悪い印象から始めよう。
主人公の男子高校生、五条新菜(ごじょうわかな)は設定的に言うと良くある青春ラノベ系の主人公である。とにかく自分に自信がないタイプ。この「良くある」にまず引っかかってた。
彼は祖父とその作品、雛人形に憧れて、雛人形の頭師(かしらし)を目指している。が、その趣向を過去、幼馴染に「気持ち悪い」と否定されて、それからずーっとメゲているのだ。そしてその趣味、と言うか、実際は頭師になる為の面相書き(平たく言うと雛人形の頭部デザインの事)の練習に人生の殆どを費やしていて、友人はいない。
この引きこもり体質、と言おうか、物語上の原因はどうあれ、割にオタク御用達の雑誌であるヤングガンガンの読者の共感を呼ぼう、ってだけの設定、ってのが最初は気に入らなかったのだ。
そしてヒロインは喜多川海夢(きたがわまりん)と言うギャルである。実はこの娘、ギャルなんだけどオタク趣味で、コスプレイヤーを目指してるのだが、不器用も不器用、コスプレ衣装を自作する事が出来ない。高校の裁縫室で縫製しようとした時に、自宅のミシンが壊れた為、そこで雛人形の服を縫製してた同級生、五条新菜と偶然かち合う事となり、彼の縫製の能力を知り、コスプレ衣装の作成を依頼する事になる。そうしてコスプレイヤーをやりたいギャルと、雛人形師見習いのコンビが結成されるのだが・・・・・・。
正直、このヒロインの設定も「え?」とか思ってしまった。これもヤンガンの読者におもねっていないか。
今の若い人の事は良く知らんが、ぶっちゃけ、今のギャルっつーのは恐らく人種的には昔のヤンキーだろ(笑)。ヤンキーがオタク趣味ってのがまぁあり得ないよな、ってのが正直な感想である。
昔のヤンキー、または不良っつーのはこんなんだったけどよ(笑)。
往年のヤツらに比べてファッションは「可愛さ」を重視するように変わったわけだが。でも本質はそんなに変わらんだろ。「オタク趣味のギャル」って設定があまりにも「あり得ない」んじゃないか、と思ったわけだ(いや、昔の「ヤンキー系」女学生を思い出しても、まぁ「あり得ない」よなぁ)。
例えば同じギャルをヒロインにしてる「はじめてのギャル」とか、あるいはラノベの「中古でも恋をしたい!」のヒロインに比べるとリアリティの欠片もねぇんじゃねぇか、と(前者はオタク趣味的な主人公に寄り添おうとする、トコがあり、後者はオタク趣味を主人公から「学ぶ」と言う設定になってる)。
みんな、ギャルが好きなのかね、とかその時は腑に落ちなかったんだよな。ヤンガンは明らかにオタク層狙いの誰得な読者を得ることばっか考えてるわけだけど、そういう読者達はギャルへの憧憬があるのかしら。良く分からん。「自分と住む世界が違う」存在が自分に近いトコにいた、とかなると喜ぶのかしらん。
いずれにせよ、ぶっちゃけ、「コスプレをしたいだけの女の子」だったらギャルって設定は必要ない。つまり、この喜多川海夢と言うキャラは「盛り過ぎだろ」ってのが当初感じた違和感だったのだ。
しかも最初に「コスプレしたい」と言うキャラがエロゲのキャラである(笑)。そもそもエロゲを嗜むギャルってあり得るのか(笑)?
確かに、ヤングガンガン読者層はエロゲをしてそうである(笑)。だからエロゲをするギャルはウケるのかもしんない。
が、上にも書いた通り、どうもこの喜多川海夢と言うキャラは読者におもねってると言うか、媚にしか見えなかったんだよな。
まぁ、このテのマンガの成功/失敗は読者にヒロインが受け入れられるか否かにかかってる、って事は分かるんで、ある意味正攻法なのかもしれんが。う〜む。
そして初回、第二回、と続いてある意味いきなりのサービス回である第三回。
「コスプレ衣装を作る為には採寸が必要」ってぇんで、主人公宅に押しかけるヒロイン。主人公の自室で服を脱ぎだし水着姿になる・・・かつてこんな杜撰な展開のマンガがあっただろうか(笑)。
まぁ、あり得ないよなぁ(苦笑)。
このケーハクさやら羞恥心のなさを表現したくてギャルって設定にしたのか?とか疑念が満々になったのだ。
挙げ句の果てにバストサイズも主人公に測らせようとする喜多川海夢。
うーん、やっぱこの「羞恥心の無さ」はギャルだからなのだろうか(笑)?
ほらな、狙い過ぎだろ(笑)?
(ちなみに、この後、喜多川海夢は、羞恥心はあるんだけど、他人と大幅にズレている、ってのが分かっていく)
と言うわけで、この時点では、「このマンガはダメだ」ってぇんで98%くらい、ダメマンガの烙印を押しかけていた。しかもそのダメマンガの原因の50%以上は、この喜多川海夢のキャラ設定が「盛りすぎ」だから、ってぇんで全く納得が行かなかったのである。
そしてこの第3回〜第4回にかけて、話としては大して深みもなかったのだ。
ある一点を除いては。
2. 80年代と言う時代について
急に余談になるが回顧に入る。
80年代は凄く自由な時代だった。とは言っても、当時既に大人な人たちにとっては、だ。
色々新しいモノが出てきた80年代。「自由を謳歌する」と言うのが当時の雰囲気。
ただし、当時のティーンにはちょっとおかしな雰囲気が蔓延してたのだ。
例えば好きなモノ、に関して。他人が好きなモノに関して詮索をかける、と言うのが禁じ手みたいな雰囲気があったのね、当時は。
なんかの趣味、ってのはプライベートなモノであって、非干渉がマナー、と言うおかしな雰囲気があった。極論、他人に関わらない、他人を拒否する、と言うのが「自由」、だと。かなりはき違えた若造ばっかだったの。
本当はね。「好きなモノ」に関して何故に好きなのか、ってのは言語化出来ないとおかしいんだ。でも当時は「何となく好き」で通るような雰囲気だったのね。そんなのは本当に「好き」とは言わないのに。しかし、あっちこっちで溢れてたのは「なぁなぁ」を通す雰囲気だったのね。
他人を折伏出来るような勢いがあるものを本当に「好き」と言うんじゃないか。僕は当時そう考えてたんだけど。ただ、「他人を拒否する」「他人に干渉しない」と言うのが是、と言うのが80年代の(少なくとも当時のティーンにとっての)雰囲気だったんで、どうしようもなかったのだ。
笑っちゃうのが、「他人を拒否しまくるのが是」と言う80年代が過ぎて90年代に入ると、今度は他人を拒否しまくったせいで個が危うくなり、結果「自分探し」なんつーバカな事が反動で流行りだしたのね(笑)。何じゃこりゃ、とか当時爆笑してた。
この辺興味がある人は小林よしのりの「新・ゴーマニズム宣言」の一巻辺りを読んでみたらいい。80年代の「他人を拒否する世代」が90年代に「個を失って」自分探し的なモノにハマる状況が良く描かれている(いわゆる薬害エイズ騒動だ)。
アニメの「新世紀エヴァンゲリオン」ってのも80年代的な少年・少女達の性質と90年代的な「自分探し」ってのを絡めないと本当は分からない話なんだよな。いや、全般的に良く分からん話だけどよ(笑)。
ただ、富野由悠季が「自己開発セミナーかよ!」ってエヴァ観て怒った、ってのはむしろ正しいんだよな。良く分かる。あの時代の「狂いっぷり」ってのがどういうものなのか、ってのがあのアニメには端的に現れてると思うんだ。
時は過ぎ。今の若造がかつての若造とどう違うのかは知らん。
しかし、このマンガに登場するヒロイン、喜多川海夢と言うギャルは「自分の好きなモノを言語化出来る」人間である。これだけは連載当初、好感を持ったのだ。
そりゃあ言語化出来ても相手を折伏出来るたぁ限らない。ただ、「他人に説明出来る」と言う事はその「好きな事」に対して圧倒的に考え続けてる時間が長い、と言う事だ。かつての「なぁなぁ」で「何となく好き」と言ってた若造と喜多川海夢は根本的に熱量が違うのだ。
そして好きな事に対して話してる人間は好ましい。その言ってる内容が理解出来ようと出来まいと好ましいのだ。この著者、福田晋一はその辺を良く分かって描いてる。
もちろん、漫画家になるくらいの人たちは「好き」の度合いは一般人が感じる「好き」以上を感じるからこそ漫画家になれたのだろう。
しかし、それでもこれだけ「好き」を強烈に表現するマンガ内のキャラ(つまりある種描いてる本人の投影)ってのはなかなかいないと思う。そしてそれを創造した福田晋一と言う作家は面白いな、とは思った。
ただ、まだ、そこ「だけ」が喜多川海夢と言うキャラの大きな取り柄であって、作品としての「その着せ替え人形は恋をする」はこの時点ではまだ僕の中では低評価だったのだ。
しかし、どっちかと言うと、喜多川海夢よりは主人公、五条新菜のキャラが徐々に立っていった事の方がこのマンガでは重要だったのだ。
3. 実は五条新菜と言うキャラはポテンシャルとしては超リア充型キャラである
連載当初、五条新菜と言うキャラはいわゆる「青春ラノベ系の」あまりにもありきたりなキャラとして描かれ始めた。
ところが、連載第4回の最後にして、早くもそのテのテンプレから逸脱しはじめる。
喜多川海夢のしたいコスプレ「雫たん」の衣装を引き受けるに当たって、新菜は海夢に資料を求める。しかし海夢はエロゲ2本そのものを新菜に渡し、結局新菜はそのエロゲをプレイする事になる。それがこのシーンなのだが。
エロゲをクソ真剣にプレイしながら細部をメモっている(笑)。
いや、実際こういうタイプの人間が存在する。二次元には全く興味がない、と言うタイプだ。どんなに扇情的だろうと、絵は絵だともうその時点で割り切ってしまうタイプ。そして絵如きではコーフンしない。ぶっちゃけ超リア充タイプの人間だ。こういうのはいわゆる「青春ラノベ」系の話には(主人公としては)ほぼ全く登場しない。
例えば漫画家で言うと桂正和なんかがこーゆータイプなんじゃないか、とか思われる。
彼はしばしば
「現実の女の子の方が可愛い」
と発言してて、あれだけ女性の絵柄では定評があるのに、本人はちっともそれに納得してない模様。多分五条新菜はそういう類の人間なのだろう。
そして主人公五条新菜は雛人形大好き人間だが、実はいわゆるオタクではないのだ。それどころか、ドラマもアニメも観ないし、マンガも殆ど読まない人間である。
ホント雛人形「だけ」に職人見習いとして打ち込んできた人間だ、と言う事だが、恐らく二次元に関して興味がない、と言うのは彼の元々の性質なのだろう。
この辺、「オタク趣味にはまり込む」ヒロイン、喜多川海夢との対比が面白い。
しかし、五条新菜の優秀なトコロは、この「二次元にはまり込まない」適度な距離感を持ってる事が福に転じて、作品とその世界観への冷静で強力な分析力に繋がってる事だ。つまり、「職人」として作品を分析し、そしてその世界を「職人として」現実で実体化させようとする。
彼は要するに、芸術的センスはあるけど、どっちかと言うとそれは芸術家のモノではなく、あくまで職人のセンスである、と言う事。そして、見てみればアニメもマンガも大丈夫だが決してその世界にははまり込まない、と言う事。
その2つの性質が幸いして、衣装作りに加えて、だんだん海夢のコスプレのディレクターと言うかプロデューサー的な感覚になっていく(いわゆるP、みてぇな浅いモノではない)。ここがこのマンガの一つのキモで面白さ、なのである。
なお、これは極めて重要なのだが、彼は性的欲求はあるのだが、それは二次元世界には向かわないし、とある条件を満たさないとそこまで刺激に感じない、と言う超リア充的体質のキャラなのだ。
そしてそう言う五条新菜のキャラ立ちがこのマンガをダントツに面白くしてきた要因だと思う。この「二次元に向かわない」部分は、彼のもう一つの重要な性質に支えられている。
4. 五条新菜と言うキャラの美的基準の高さ
要は、彼は綺麗さ、と言う事にポリシーがあるのだ。ここに関して彼はホント、一貫してると言って良い。
個人的には「すんげぇ良く分かる」話である。
僕は例えば音楽でもすぐ「良い」とはならない。僕にとっては面白い音楽と言うのは凄く敷居が高くて、何かと言えば「神曲」とか言ってるのを聞くと、正直レベルが低いな、とか感じる事が多々あるのだ。
だから、こういう「こだわり」ってのは個人的には良く分かるので、この時点で、五条新菜と言うキャラに滅茶苦茶共感しだしたのだ。
しかし、この「綺麗」を提示した福田晋一と言う作家はなかなか危ういトコに斬り込んだな、ってのも同時に感じた。彼女(※1)が「こだわり」を持たない人だったらこうは描けないし、下手に描いちゃえば業界内で敵を作るんじゃないか、と(笑)。
しかし、喜多川海夢の「好き」度合いもキチンと描写しちゃう辺り、恐らくこの作家も何かしら一家言あるタイプなのだろう(笑)。一般的にはどーだか知らんが、そういうわけで僕の中でのこの作品への好感度は、この時点でそこそこ上昇していた。
いずれにせよ、繰り返すが五条新菜と言うキャラはこの「美的基準」が物凄く高く、それが一貫してる。これは対三次元にしても実は同様の反応を見せているのだ。
コスプレ撮影スタジオを探していた喜多川海夢だが、彼女の大雑把な性格のせいで、海夢と新菜は間違えて撮影場所としてラブホテルを予約してしまう。
そこで海夢が浴室でコスチュームに着替えてる間、性的興味がフツーにある新菜はラブホテルでアダルトビデオを観てしまう。しかし反応はこんなんである。
こういうシチュエーション自体はマンガやラノベで良くある、と言えば良くある。が、彼の反応は全く違うのだ。
五条新菜は性欲もあるし、性的興味もある健全な男子高校生だ。しかし、恐らく、このAVの女優が彼の「綺麗さ」の基準に引っかからなかったか、あるいはAVそのものの「作り物」的な演出に惹かれなかったか(※2)、いずれにせよ、「感心」はするけど「コーフン」はしない、と。彼の性欲自体も徹底的に「綺麗さ」で敷居が構築されてるのがこのシーンで良く分かるのだ。
別に彼に性的興味が全くないわけではない。事実、ヒロイン喜多川海夢のパンツなんかはしっかりとガン見してたりするのだ。
まぁ、ムッツリって言えばムッツリだな(笑)。
ここでちと、ヒロイン喜多川海夢に視点を移してみよう。
主人公五条新菜が述懐してる通り、連載第一回の冒頭から、実は五条新菜は喜多川海夢に憧れを抱いていた。
と言う事は言い換えると、彼女は五条新菜の「美的基準」を軽く突破してたキャラだった、と言う事だ。
しかし、実はこの喜多川海夢。キャラ的には非常に不器用で、ヘアメイクもメイクも、ギャルのクセに失敗ばっかしてるようなカンジである。
どー見ても喜多川海夢と言うキャラはヘアメイクもメイクも自分でやるのは得意ではない。むしろ恐らく「超ド下手」の部類なのだ。
しかし、そんな「テキトーで大雑把で」「メイクが不完全な」ギャルでも五条新菜の「美的基準」を軽く突破している。
つまり、彼女は生粋の、天然の美少女なのだ。
物語の構造的には彼女の「綺麗さ」と言うのは五条新菜が保証してる。新菜あっての海夢の造形美であり、そこが物語中の「説得力」を担ってる。マンガ的には新菜ナシでは海夢は(コスプレ以外でも)どのみち立ち行かないキャラなのだ。
そして他の女性キャラは決して新菜の美的基準は突破しない。結果、この物語は良くあるハーレムものには成りえないのだ。
実際、新菜は物語中、二回程海夢をオカズにしている。彼の性的興味は、海夢程の美少女があってはじめて成り立つ。彼は生粋の面食いで、性欲が向けられるのは物語上、海夢以外存在しない。
そして、この辺はさすがに青年誌であり、凡百の青春系ラノベでは得られない「リアリティ」でもある。
5. ウンチクマンガとしての側面
さて、一旦主役・ヒロインコンビから離れてみよう。
このテの「マイナーなジャンルの趣味」(コスプレ自体は知名度があっても実際やってる人はまだまだ少ない)のマンガを描く場合、どうしてもウンチクが必要となる。その、「フツーの人が知らない知識」をどう面白く描いて伝える事が出来るのか、と言うのがそのテーマを拾ってきた漫画家の腕の見せ所である。
が。
実の事を言うと、単行本第一巻〜第二巻(第15話まで、つまりヤングガンガンの発刊ペースから言うと半年以上経ってる・・・笑)では、五条新菜によって「特に問題が起きず難なく最初のコスプレ用衣装はアッサリ作り上げられて」いる。
いや、ストーリー上では新菜の保護者である祖父が倒れ、新菜の勘違いにせよ、海夢による衣装の締切が2週間後、だと思い込み、ついでに中間テストが重なり・・・と困難が伴ってるように見えるが。
実は「裁縫」と言う意味では殆ど問題が起きてないのだ。
通常、なんか困難があって、主人公が躓き、挫折し、そこにノウハウとしての「ウンチク」が入ってきて主人公が立ち直っていく・・・と言うのがある意味王道パターンなのだが、実はこのマンガは意外ながらそういう形式には基本的には「則ってない」のだ。
と言うのも、雛人形用、とは言っても、実は主人公五条新菜は裁縫のエキスパートである。だからこそ「ど素人」の海夢にある意味スカウトされるわけだが。
彼が唯一困るのは雛人形と人間と言う対象物の違いだけであって、一方、裁縫自体は何でもござれなので、基本この範疇に於いては「躓き様がない」のである(一回だけ、バニースーツを作る時にはじめて躓いている)。
つまり、このマンガに於いて、通常コスプレで一番面倒臭いと思われる「裁縫」に関して言うと、最初っから便利なキャラっつーか最終兵器の完成形である五条新菜がいるため、それに対するウンチクはほぼゼロなのである(笑)。彼は裁縫に関して苦労しない。だから「裁縫で苦しんでる内情」を読者に見せる必要が全くないのだ。
でだ。ちょっと考えてみれば分かると思うが、コスプレにまつわる「知識」と言うのは多岐にわたる。で、実は作者の興味と言うのは「裁縫」に向かってないのだ(笑)。作者の興味は実は別にある。
と言う事は五条新菜、と言うキャラを作れば裁縫関連の話は一気に吹き飛ばせるわけだな(笑)。だからホンマ、「その着せ替え人形は恋をする」の1巻と2巻を読んだ人は「かなりアッサリした話だな〜」とか思うんじゃないだろうか。そう、ストーリー上ではある種山場があっても、裁縫って言う意味では新菜は全く苦もなくコスプレ衣装を作り上げてしまうのである(もっとも裁縫ってテーマだけでマンガを描く、ってのはさすがに画的に地味過ぎてムリゲーではある・笑)。
実はこの物語におけるウンチク役、と言うのは五条新菜・喜多川海夢コンビではない(要するに、彼らは「美味しんぼ」における山岡士郎・栗田ゆう子コンビとは立ち位置が違う)。彼らは「コスプレ」って意味では新参者であり、特に五条新菜は「裁縫のエキスパート」であってもコスプレの知識がほぼない。かつ彼はオタクではない。
つまり、構造的に言うと、このマンガは、
「コスプレ関係で出てきた新キャラが新菜・海夢コンビ(と読者)にコスプレのウンチクを語る」
と言う構図を取らざるを得ない。と言うか取ってるんだな。
これの最初の具現化が3巻〜4巻に出てくる乾姉妹。姉の方はコスプレでの「顔面作り」に関するノウハウを新菜・海夢コンビに教え、妹の方は平たく言えば「カメラ」に対するウンチクを語る役である。
この辺りから物語に厚みが出てきて俄然面白くなってきた気がしてる。もちろん、それまでの連載では薄かったウンチクの登場が一つの理由だろう。
3人目のウンチク役が6巻で登場の女装男子の姫野あまねであり、女装のノウハウ、と言うモノを教えてくれる。
基本的にはこういう「ウンチク回」の時、五条新菜と喜多川海夢はインタビュアーよろしく聞き役に回っている。恐らく、著者の対レイヤー取材での経験がそのまま活かされてるんじゃなかろうか。だから意外と、ライブ感等があって面白い(笑)。
まぁ、ヤングガンガンの発刊ペースのせいで、現時点、ウンチク役は都合3人しか出てきていないが、今後も連載が続いていくのなら、顔面作り、カメラ、女装、に続き、著者の興味の赴くままに「コスプレの"衣装作り"以外の周辺事情」が新キャラ登場と共に紹介されていくのではなかろうか。
6. 五条新菜の職人としての成長
別に五条新菜と言うキャラはコスプレの衣装作りを本業にしたい、わけではない。もう一度言うと彼は将来、雛人形職人になりたいわけであり、雛人形の服の制作は今でも出来るが、将来的には頭師、と言う雛人形の頭部を作る職人になりたいわけである(この辺、作成部所によって雛人形師同士でヒエラルキーがあるのかどうかは知らんが)。
しかし、海夢に頼まれ、コスプレ衣装作りを続ける事により彼の雛人形に関する職能が上達する、ってのは想像に難くないだろう。大方その想像通りの正のフィードバックが見られる。
基本引きこもり体質的だった新菜は頭師になるためにずーっと「面相書き」の練習に自分の人生の殆どを費やしてきたわけだが、喜多川海夢に出会って以来、その「面相書き」以外に「リアルを見る」と言う体験をはじめるわけである。
上にも書いた通り、実は彼は本質的には超リア充体質であり、そして海夢によって彼の「リアル」の生活がまさしく「充実」していく。それは彼に雛人形制作以外の様々な事柄を体験させて、それが彼の雛人形の技術にフィードバックされていくのだ。
ただ、実はこの辺は今まで、五条新菜の人生に取って極めて重要な事柄ではあるんだけど、マンガ的にはサブのサブなんだよな(笑)。何故なら、当然の事だけど、このマンガは「コスプレをテーマにした」マンガであって、雛人形のマンガではないからだ。
つまり、読者的に言うと、「雛人形の技術が上がってよかったね。頑張ったかいがあって良かったね」ではあるんだけど、それ以上でもそれ以下でもなかったのだ。
まぁ、話のベースがラブコメである事もあるが、それでも実の事言うと五条新菜が喜多川海夢に恋してるかどうかも分からんのだ。彼の「美的基準」に触れる少女である事は事実だし、「憧れ」があったのも事実。オカズにもした。
ただ、元々の自己評価の低さもあり、海夢に恋してる自覚が彼にあるのかどうかは、ちょっと良く分からんし、この辺の「モヤモヤ」は男子一般は良く分かるだろう。
このマンガの面白いトコと言うのは、「五条新菜に対する恋」を自覚してるのは完全に喜多川海夢側の方であり、まさしく題名通り、「その着せ替え人形は恋をする」のだ。
そしてこの二人の関係性。実は途中で海夢が新菜に恋しだした辺りから微妙に立場が新菜が上、海夢が下の関係になっている。いや、上下、っつーんじゃねぇな。新菜が海夢のキャラを把握していくに従って、基本、新菜がツッコミ、海夢がボケとして確定していくのだ。一見逆の立場に見えて、新菜が自覚してないにせよ、この二人の関係はそういう関係だ。
で、この辺がまた面白すぎて、余計「新菜の雛人形の技術向上の話」がサブのサブに追いやられてたような状況になってたわけだが・・・・・・。
7. 雛人形師としての五条新菜がハマった瞬間
ところが、ヤングガンガン最新号ではじめて「雛人形師」としての五条新菜がカチリとマンガにハマったのだ。コスプレマンガなのに。面相書きを武器にして。
と言うわけで、ここ10回分くらいのあらすじ。
新菜と海夢が通う高校の文化祭では各クラスが集客数を競い、順位付けが行われる。負けず嫌いが多い新菜と海夢のクラスは当然1位を目指す事にするが。文化祭ではクラス対抗でミスコンも行われ、そこで1位を取ると集客数にポイントが加算される。クラスからは海夢がミスコンに参加する事になったが、ミスコンでは女生徒は男装をしなければならない、と言う伝統があった。そんなわけで、海夢は初の男装コスプレに挑戦、新菜は「プライベート時間以外での」初の海夢のコスプレのプロデュース(まさしくプロデュース)をする事になるが・・・・・・。
海夢の選んだ男装コスプレは国民的超人気少女漫画「生ホス」の麗様。ところがあまりにも人気がある少女漫画だった為、ミスコン当日、開会2時間前、クラスメイト(当然男子まで含む)全員集合&見学と言う衆人環境の中で匠、五条新菜は海夢の面相書きをしなければならなくなったのである・・・・・・。
さて、この衆人環境の中で緊張しまくる新菜であるが。
一方、海夢は「勝てる気しかしない」と新菜の作った衣装、そしてメイク技術に全幅の信頼を置いている。
その時、新菜の職人、としての心に火が点いた。
そんな中で新菜ははじめて、心の底から一位が欲しい、と思うようになる。
しかもこれだ。
そうなんだよな〜。これこそ「職人」と言うか。
基本的にはさ。アーティストって作った作品よりも作った本人の方が珍重されたりするわけじゃん。
ところが、五条新菜が目指してる雛人形職人ってのは芸術性はあるけど、芸術家そのものじゃないんだよな。要するに新菜は家内制手工業、って中での一人の職人でしかない。広く言うと工房の工員なんだよね。部品と言おうか。
でも「製品」を売上一位にしたい、ってのはあって。完全に自分の手柄ではないけど、自分が表に出なくても自分が関わったものを最高のモノに仕上げたいと言うか。そういうトコなわけじゃん。そこがこだわりと言うか。
この瞬間が、雛人形の職人である事、そしてマンガのテーマであるコスプレ、とかが全部「カチリ」とハマった瞬間なのね。全部が完全に合わさった瞬間。だから「その着せ替え人形は恋をする」で一番盛り上がってる瞬間なわけ。
こうやって鬼気迫る表情で、つまり、彼が「面相描き」やりたい、って彼の人生殆ど費やしてきて得た雛人形の為の技術がここで炸裂してんのね。すげぇいいシーンだな、とか思って。
あまりの迫力に、クラスメートが全員言葉を失ってるわけでしょう(笑)。これで、「コスプレでのメイク」とフツーの「メイク」の違いとか、新菜の「匠の技」ってのを目の当たりにして・・・ってのが凄く良く分かるシーンなのね。
んでさ、素材としては新菜の「美的基準」から言うと、喜多川海夢ってのはサイコーの素材なんだよな。
ここで完全に海夢ってのは新菜個人の「着せ替え人形」(ビスク・ドール)になってんだよ。「一位にしてあげたい」女性なんだけど、同時にこの瞬間だけは「活かすも殺すも新菜」次第、つまり、明らかに新菜の「モノ」になっている。
ちょっと倒錯してるよね(※3)。
でもだからこそいいシーンだと思うの。新菜の職人としての誇りとか、技術とか、想いとかが全部「コスプレ」を題材にしつつ昇華している。素晴らしい。すげぇよな、と。
まぁ次回多分ぶっちぎりでミスコン一位を取っちゃうたぁ思うんだけど(笑)。でも今回がこのマンガ歴代の一番の大盛り上がりの部分。ハッキリ言って文化祭で一位取って最終回を迎えます、って言っても驚かないくらいある意味ここでは「描ききってます」(※4)。絵の迫力とか色々な想い、とかさ。
最初はじまった時、「なんじゃこのマンガ?」としか思えなかったのに、あれよあれよ、と「今一番面白いと思うマンガ」になっちゃった本作。
次回も楽しみだし、アニメも楽しみです。
※1 : こんなペンネームだが実は女流作家。要するに金田一蓮十郎や荒川弘、さとうふみや、と同じである。
3巻付録のマンガで作者がコスプレに初挑戦するわけだが、「人間のメスのコスプレなら普段してるけど」と言うのは「自分の性別は女です」と言う読者へのヒントだったらしい。
※2: この「作り物に対する冷徹な距離感」と言うのは、AVだけでなく、ホラー映画にも適用されるようで、もうこーなると五条新菜と言う人間はやっぱ、自分がする(コスプレの)演出ではリアリティは重視するけど、かと言って、作り物に対しては基本的には(職人的にディティールには)「感心はする」けど「感動はしない」人間なのではないだろうか。
もちろん、それは「綺麗さへの感動」とはまた別の話である。
※3: 実はここであらゆる意味で主体と客体が逆転してる。
元々「コスプレをしたい」というのは喜多川海夢側の動機であって、五条新菜側にはない。彼はこの時点まで常に流動的な、どっちかと言うと受け身の立場だったのだ。
喜多川海夢は巻き込む方、五条新菜は巻き込まれる方、ってぇんで、だからこそ二人の間にはボケとツッコミ、と言う役割が生じた(誤解があるかもしれないが、実は漫才でも「巻き込む側」、つまり話の取っ掛かりを作るのは常にボケ側であり、「巻き込まれる側」、言い換えると被害者的立場は常にツッコミ側にある)。
五条新菜は常に喜多川海夢の「行動力」に憧れもあったわけで、主体的に行動を起こす海夢に(彼女には常に無謀さがつきまとってるとは言え)尊敬の念を抱いていた。
つまり、ストーリー的には五条新菜が海夢に影響されながら「徐々に主体を得る話」になる筈なのだが、結局、「海夢を1位にしたい」と言う事を至上命題とし、むしろ自分と言うエゴ、つまり主体を五条新菜はここで完全に「捨て去る」事にしたわけだ。
要するに主体を捨てた五条新菜が敢えて主体を捨てた事によってむしろ主体になってしまった、と言うのがこの話と言うかこの回のミソで、コスプレをやる主体である筈の喜多川海夢は五条新菜が主体を捨てたせいで逆にマンガ上ではビスクドールとして客体化してしまう、ってのが滅茶苦茶面白いトコなんだと思う。
そう、だからまとめると、五条新菜が主体を捨てたせいで主体と客体が逆転し、マンガ上でも五条新菜はここで主人公オブ主人公と相成ったのである。
※4: もちろん、アニメ化するくらいなんで、ここで最終回、ってこたあねぇとは思うんだけど。
ただし、ヤングガンガンって雑誌だと、僕が面白い、って思うマンガはどういうわけか打ち切りになってしまう、と言う最悪の経験則になっている。
こんなに「見る目がない」状態に陥った、ってのは如何に僕個人とヤングガンガンが想定してる読者、ないしは実際の購買層が食い違ってるのか、って言う事の証明になってると思う。