1910年(明治43年)1月23日
114年前の今日、七里ヶ浜沖で逗子開成中学(旧制)のボートが転覆し、生徒12名が亡くなるいう海難事故が起きました。「真白き富士の嶺」という歌でご存知の方も多いと思います。
当時の逗子開成中学(旧制)は、校長が海軍将官だったため、海軍軍人の子弟が多く通っていた学校でした。
この日、少年たちは、軍艦「松島」から払い下げられたカッターで、自分達だけで葉山から江の島までの航海に出るが、その帰路、七里ヶ浜沖で転覆事故を起こしてしまうのです。
遭難事故は、江の島や七里ヶ浜の漁村で目撃され、漁師たちが悪天候の中、漁船を繰り出したが、海に投げ出された少年たちを発見することはできません。
この日、少年たちは、軍艦「松島」から払い下げられたカッターで、自分達だけで葉山から江の島までの航海に出るが、その帰路、七里ヶ浜沖で転覆事故を起こしてしまうのです。
遭難事故は、江の島や七里ヶ浜の漁村で目撃され、漁師たちが悪天候の中、漁船を繰り出したが、海に投げ出された少年たちを発見することはできません。
翌日、横須賀軍港から掃海艇が派遣され、12名の遺体が発見されたということです。
この時期の湘南の海は、午前中は穏やかなのに、午後になると急に西風が強くなることがあります。この海難事故が起きた日もそんな海況だったのだと思います。冬の相模湾で"富士山がクッキリ見える日は午後から吹く"という観天望気として昔から伝えられています。
地元江の島の漁師も止めたということですから、"無謀な出航"だった、と今となっては言わざるをえません。
多分、学校には内緒の出航ということと、海軍士官の子息というプライドが、中止の判断を誤らせたのではないでしょうか?
それから、江の島から葉山に向かって進んでいるときの西風ですから、追い波になります。サーフィンのメッカの七里ヶ浜の沖であれば大波が立ったことでしょう。ボートは、追い波での操作が難しいのは経験者なら容易に分かるかと思います。
話はちょっと飛びますが、1902年1月24日に起きた八甲田山での遭難事故(陸軍第8師団の歩兵第5連隊が八甲田山への雪中行軍の途中で遭難した事件で、210名中199名が死亡した)は、未曾有の悪天候での事故だと言われていたが、実は八甲田山ではごく普通程度の吹雪だったのではないか?遭難の原因はむしろ道に迷ったことと綿の下着のような装備不十分にあったのではないかとの推理があるそうです。
だから、ボート部海難事故も八甲田山遭難事故も、今ならマスコミが「原因は無謀な無断出航。管理者責任はどうなる。捜索費用は少なくとも○千万が公費から。」と大仰に騒ぎ立てることでしょうが、明治の時代においてはバンカラ少年達の未熟な冒険の結末を、「不幸が重なった末の悲劇」として後世に語り継ぐことになったのでしょう。
(拝借画像)
少年たちの鎮魂の歌である「真白き富士の嶺(七里ヶ浜の哀歌)」を歌で掲載されていただくことで、このような悲劇が二度と起こらぬことを祈念することにします。
ちなみに、歌詞の成り立ちについてはウィキペディアに詳しいのでそちらを参照ください。色々ややこしい事情があるようです。→リンク先