この人生をどう評価したものかと考えたくなる一方、評価なんぞする必要もないと考えたりもする。相反する考えを行ったり来たりするのは結論を保留していることでもあり、これはこれでいいような気もします。何でもかんでも白黒つければいいというもんじゃない。はっきりしないからこそ考えつづけ、考えつづけることで深まる思考もあります。
ま、それはそれとしてさっさと何らかの結論がほしくもあったりします。せっかちなんですよ、あたくしは。
相反する考えならアウフヘーベンすりゃいいじゃん。止揚すればさっさと先へ進める。と思ってはみたもののアウフヘーベンしたとき、この相反する考えから何が生まれるのかが解らない。
“止観”というのが、ふと思い出される。心を静止してそれを観る。この人生について評価してみようとあれこれ考えたり思ったりする。それはそれとして一旦心の動きを止めて虚心にそれらを観じることに徹する。これでアウフヘーベンしたことになるのかどうかわかりませんが、相反する考えのどちらを否定することもなく次の段階へと駒を進めた感じがしなくもない。
いや、そもそも“止観”ってこういうことでよかったのかしら。”止観”の理解が間違ってるような気もする。何かで読みかじったことを浅薄な理解のまま運用しているのでいい加減なことこの上ない。調べてみましょう。以下Wikipediaから。
止(シャマタ:奢摩他)とは、心の動揺をとどめて本源の真理に住することである。また観(ヴィパシヤナ、毘鉢舎那)とは、不動の心が智慧のはたらきとなって、事物を真理に即して正しく観察することである。このように、止は禅定に当たり、観は智慧に相当している。ブッダは止により、人間の苦の根本原因が無明であることを自覚し、十二因縁を順逆に観想する観によって無明を脱したとされる。
やはりあたくしは理解が浅薄ですなあ。“止観”はあたくしが考えてるようななまやさしいもんじゃないね。悟りというか解脱というか、なにやらとんでもない状態へ突入するのが“止観”ってことらしい。確かに“止観”でアウフヘーベンしたことになるような気はするけれど、そこへ到達するのはあたくしには無理。そもそも“止観”は瞑想法らしく、雑念が服を着て歩いているようなあたくしには瞑想が無理なのよ。検索していて玄侑宗久が書いているものを見つけました。
https://genyu-sokyu.com/essay/20221005seishinryouhou
“瞑想智”という言葉が出てきますが、頭の中だけで捏ねくり回しているだけの考えなんて所詮知れているんでしょう。つべこべ言わずに坐ってろ。瞑想で観じる“智”こそ真理なんでしょう。
以前ヨーガをかじってみましたが結局瞑想は挫折してる。どうにもあたくしは頭の中で捏ねくりまわしてしまう。そういえばヨーガの本で馬車の例えを読んだことがあるなあ。でも内容がうろ覚え。検索してみます。
https://enyoga.jp/philosophy/4493
これはずいぶんヒントになる。身体や知性、そして心までも自分から切り離す。自分はただそういったものに乗り込んでいるだけ。どうしてそんな乗り物に乗っているんだか知りませんけど、ま、愉しむためなんでしょうねえ。愉しめばいいってンなら乗り心地が良いに越したことはありませんけど、悪いなら悪いでそれもまた一興です。「酷道」なんて揶揄される国道を走ったり、狭くて窮屈な車内で息が詰まりそうになったり、下手くそな運転に酔いそうになったりするのもおもしろい体験には違いない。そんな具合にこの人生と付き合う。どんな道をどのような手綱さばきで御者が走ろうと、乗る者としてはただそれを黙って体験するだけ。
とはいえ、“止観“の実践が難しいように、これも馬車に乗る者だけを“アートマン”として認識するのが難しい。普通は身も心も、すべてをもって自分であると認識しますからね。
あたくしが今の状況を越えて向こう側へたどり着くってのは、なかなかに難しいですね。今のところはやはり相反する考えを行ったり来たりするしかなさそうです。
ま、それはそれとしてさっさと何らかの結論がほしくもあったりします。せっかちなんですよ、あたくしは。
相反する考えならアウフヘーベンすりゃいいじゃん。止揚すればさっさと先へ進める。と思ってはみたもののアウフヘーベンしたとき、この相反する考えから何が生まれるのかが解らない。
“止観”というのが、ふと思い出される。心を静止してそれを観る。この人生について評価してみようとあれこれ考えたり思ったりする。それはそれとして一旦心の動きを止めて虚心にそれらを観じることに徹する。これでアウフヘーベンしたことになるのかどうかわかりませんが、相反する考えのどちらを否定することもなく次の段階へと駒を進めた感じがしなくもない。
いや、そもそも“止観”ってこういうことでよかったのかしら。”止観”の理解が間違ってるような気もする。何かで読みかじったことを浅薄な理解のまま運用しているのでいい加減なことこの上ない。調べてみましょう。以下Wikipediaから。
止(シャマタ:奢摩他)とは、心の動揺をとどめて本源の真理に住することである。また観(ヴィパシヤナ、毘鉢舎那)とは、不動の心が智慧のはたらきとなって、事物を真理に即して正しく観察することである。このように、止は禅定に当たり、観は智慧に相当している。ブッダは止により、人間の苦の根本原因が無明であることを自覚し、十二因縁を順逆に観想する観によって無明を脱したとされる。
やはりあたくしは理解が浅薄ですなあ。“止観”はあたくしが考えてるようななまやさしいもんじゃないね。悟りというか解脱というか、なにやらとんでもない状態へ突入するのが“止観”ってことらしい。確かに“止観”でアウフヘーベンしたことになるような気はするけれど、そこへ到達するのはあたくしには無理。そもそも“止観”は瞑想法らしく、雑念が服を着て歩いているようなあたくしには瞑想が無理なのよ。検索していて玄侑宗久が書いているものを見つけました。
https://genyu-sokyu.com/essay/20221005seishinryouhou
“瞑想智”という言葉が出てきますが、頭の中だけで捏ねくり回しているだけの考えなんて所詮知れているんでしょう。つべこべ言わずに坐ってろ。瞑想で観じる“智”こそ真理なんでしょう。
以前ヨーガをかじってみましたが結局瞑想は挫折してる。どうにもあたくしは頭の中で捏ねくりまわしてしまう。そういえばヨーガの本で馬車の例えを読んだことがあるなあ。でも内容がうろ覚え。検索してみます。
https://enyoga.jp/philosophy/4493
これはずいぶんヒントになる。身体や知性、そして心までも自分から切り離す。自分はただそういったものに乗り込んでいるだけ。どうしてそんな乗り物に乗っているんだか知りませんけど、ま、愉しむためなんでしょうねえ。愉しめばいいってンなら乗り心地が良いに越したことはありませんけど、悪いなら悪いでそれもまた一興です。「酷道」なんて揶揄される国道を走ったり、狭くて窮屈な車内で息が詰まりそうになったり、下手くそな運転に酔いそうになったりするのもおもしろい体験には違いない。そんな具合にこの人生と付き合う。どんな道をどのような手綱さばきで御者が走ろうと、乗る者としてはただそれを黙って体験するだけ。
とはいえ、“止観“の実践が難しいように、これも馬車に乗る者だけを“アートマン”として認識するのが難しい。普通は身も心も、すべてをもって自分であると認識しますからね。
あたくしが今の状況を越えて向こう側へたどり着くってのは、なかなかに難しいですね。今のところはやはり相反する考えを行ったり来たりするしかなさそうです。