メメント・モリって言葉がありますね。死を想えってラテン語。で、セットのような言葉でカルペ・ディエム、今日を精一杯生きろ、と。
どっちも難しいなあ。
死を想えっていわれても死ってどういうことかよう分からん。死んだことないし。経験したことでもそれをちゃんと理解できているかどうかも怪しいのに経験したこともないことなんてさっぱり解らない。
今日を精一杯生きるのがいいのは頭では分かるけれど実行するのは難しい。たまになら出来なくもないだろうけど、毎日となるとね。怠け者なんですわ、あたくしは。
メメント・モリやカルペ・ディエムはしんどいので言葉を換えて、今日が人生最後の日という設定にしてみる。こう言い換えると死であるとか精一杯なんてニュアンスを含みつつ、それだけでなく最後の日であれば後悔しないようにって要素のほうがあたくしにとっては強くなる。後悔しない一日。でもこれはこれで重いな。毎日毎日、後悔しないようになんて一日を生きていたら草臥(くたび)れる。とことんぐーたらべーに出来てますわ。
とはいえ、今回いきなり入院生活に突入してやはり上記のようなことは考えるわけです。ぐーたらべーに生きてちゃいかんなあ、と。運悪く骨折したと今まで書いてきましたが、見方を変えれば運良く死なずに済んだ、とも言えるんですね。最大限に運が悪ければ死んでた。ま、生きることが運の良いことで死ぬことが運が悪いことであるというのは議論の余地はありそうですけどね。
そうしてその死というものを生よりは楽なものだとばかり信じている。ある時はそれを人間として達し得る最上至高の状態だと思う事もある。
「死は生よりも尊とい」
こういう言葉が近頃では絶えず私の胸を往来するようになった。
と漱石は「硝子戸の中」で書いてます。死が何なのか解らないあたくしにとっては死が生よりも尊いのかどうか判るはずもありません。当然、死ぬことが悪運なのか幸運のなのかも判らない。けれど、ま、ここは一般論として死なずに済んだことは運が良かったということにしておきましょう。
で、命拾いをしたと思えば「今日」という日の認識をあらたにする。メメント・モリだのカルペ・ディエムなんて言葉をあらためて思い出す。が、そういう想いで毎日を過ごせるような人間でもないわけでして。
あたくしに出来そうなのは「明日は永遠にやって来ない」って設定ですかね。それは「今日が人生最後の日」と同じじゃんって思われそうですが、あたくしにとっては少々ニュアンスが違うんですね。明日が来ないなら今日やっておこうと、その程度の軽いことです。そんなあたりまえのことがあたくしには難しくて、何でも先延ばしにしてギリギリにならないとやらないんですよ。今日じゃなくて明日でいいよってのがあたくしなんです。「精一杯生きる」とはほど遠い人なんですよ。
今回いきなり入院して日常生活という「明日」は本当に来ませんでした。先延ばしにしてたことは何も出来なくなりました。ま、正直なところそれで困るってこともないんですけどね。困るわけじゃないけど変に中途半端で気持ち悪いって程度ですが、立つ鳥跡を濁さずって言うでしょ。さっぱりして「今日」を終わっておけばよかったとつくづく思いましたよ。部屋は読みかけの本が乱雑に散らばって汚ねえし。「明日」があると思ってるからあれもこれもやりっぱなし。
ま、人生はやりっぱなしで終わるもんでしょうけど、それでも一区切りつけられるものはつけておきたい。「今日」出来ることは「今日」やっておきたい。そんなあたり前のことが「明日」は来ないと設定すれば、あたくしにも出来るんじゃないのか。
今日を精一杯生きるなんて大げさなもんじゃなくて、今日をきちんと生活するというささやかな目標。怠け者のあたくしが人並みになれるよう努めるために「明日は来ない」という設定をしてみる。
死に方は選べないけれど(病気だったり事故だったり災害だったり。病気だってどんな病気になるか分かんないし)、生き方なら選べますからね。今さらながら、ですけど「今日」を生きよう、と。それが充実した「今日」である日も、ぐーたらべーな「今日」になってしまう日もあるでしょうけど、ともかくも「明日」じゃなくて「今日」を生きる。「明日」は来ないので「今日」を生きる。
少しでもまっとうに生活できるようになりたいものです。
どっちも難しいなあ。
死を想えっていわれても死ってどういうことかよう分からん。死んだことないし。経験したことでもそれをちゃんと理解できているかどうかも怪しいのに経験したこともないことなんてさっぱり解らない。
今日を精一杯生きるのがいいのは頭では分かるけれど実行するのは難しい。たまになら出来なくもないだろうけど、毎日となるとね。怠け者なんですわ、あたくしは。
メメント・モリやカルペ・ディエムはしんどいので言葉を換えて、今日が人生最後の日という設定にしてみる。こう言い換えると死であるとか精一杯なんてニュアンスを含みつつ、それだけでなく最後の日であれば後悔しないようにって要素のほうがあたくしにとっては強くなる。後悔しない一日。でもこれはこれで重いな。毎日毎日、後悔しないようになんて一日を生きていたら草臥(くたび)れる。とことんぐーたらべーに出来てますわ。
とはいえ、今回いきなり入院生活に突入してやはり上記のようなことは考えるわけです。ぐーたらべーに生きてちゃいかんなあ、と。運悪く骨折したと今まで書いてきましたが、見方を変えれば運良く死なずに済んだ、とも言えるんですね。最大限に運が悪ければ死んでた。ま、生きることが運の良いことで死ぬことが運が悪いことであるというのは議論の余地はありそうですけどね。
そうしてその死というものを生よりは楽なものだとばかり信じている。ある時はそれを人間として達し得る最上至高の状態だと思う事もある。
「死は生よりも尊とい」
こういう言葉が近頃では絶えず私の胸を往来するようになった。
と漱石は「硝子戸の中」で書いてます。死が何なのか解らないあたくしにとっては死が生よりも尊いのかどうか判るはずもありません。当然、死ぬことが悪運なのか幸運のなのかも判らない。けれど、ま、ここは一般論として死なずに済んだことは運が良かったということにしておきましょう。
で、命拾いをしたと思えば「今日」という日の認識をあらたにする。メメント・モリだのカルペ・ディエムなんて言葉をあらためて思い出す。が、そういう想いで毎日を過ごせるような人間でもないわけでして。
あたくしに出来そうなのは「明日は永遠にやって来ない」って設定ですかね。それは「今日が人生最後の日」と同じじゃんって思われそうですが、あたくしにとっては少々ニュアンスが違うんですね。明日が来ないなら今日やっておこうと、その程度の軽いことです。そんなあたりまえのことがあたくしには難しくて、何でも先延ばしにしてギリギリにならないとやらないんですよ。今日じゃなくて明日でいいよってのがあたくしなんです。「精一杯生きる」とはほど遠い人なんですよ。
今回いきなり入院して日常生活という「明日」は本当に来ませんでした。先延ばしにしてたことは何も出来なくなりました。ま、正直なところそれで困るってこともないんですけどね。困るわけじゃないけど変に中途半端で気持ち悪いって程度ですが、立つ鳥跡を濁さずって言うでしょ。さっぱりして「今日」を終わっておけばよかったとつくづく思いましたよ。部屋は読みかけの本が乱雑に散らばって汚ねえし。「明日」があると思ってるからあれもこれもやりっぱなし。
ま、人生はやりっぱなしで終わるもんでしょうけど、それでも一区切りつけられるものはつけておきたい。「今日」出来ることは「今日」やっておきたい。そんなあたり前のことが「明日」は来ないと設定すれば、あたくしにも出来るんじゃないのか。
今日を精一杯生きるなんて大げさなもんじゃなくて、今日をきちんと生活するというささやかな目標。怠け者のあたくしが人並みになれるよう努めるために「明日は来ない」という設定をしてみる。
死に方は選べないけれど(病気だったり事故だったり災害だったり。病気だってどんな病気になるか分かんないし)、生き方なら選べますからね。今さらながら、ですけど「今日」を生きよう、と。それが充実した「今日」である日も、ぐーたらべーな「今日」になってしまう日もあるでしょうけど、ともかくも「明日」じゃなくて「今日」を生きる。「明日」は来ないので「今日」を生きる。
少しでもまっとうに生活できるようになりたいものです。