なにかで読んだか聞いたかしたのだろうが、信長があと一歩のところまでいけたのは地の利があったからだというのをふと思い出した。たしかに京都から遠ければ、上洛するまでに多くの戦国大名をなぎ倒さなきゃならない。通り道の障害を取り除くだけで一苦労だ。いくら優秀な武将でも東北や九州から京都をめざすのは、距離的にも時間がかかるのは当然だし、領国を留守にするとなると後顧の憂いをなくしておかねばならず、ま、いろいろとやっておくべきことも多かろう。その点、尾張にいた信長は有利に違いない。
で、思うのである。京都から遠くて条件的に不利だったら、その条件をないものにしてしまえばいい。つまり京都をめざすのをやめたらいいということ。なにも不利な条件で争うことはなく、そんな条件ご破算にすればいいのである。
京都をめざすのは、ようするに天皇をおさえるためで、なんで天皇をおさえる必要があるかといえば、日本の秩序は天皇を頂点にしてつくられているからである。その秩序の中でのし上がろうとすれば天皇をおさえなければならないが、その秩序を無視すればその必要はなくなる。京都をめざすのをやめればいいとは、つまり別の秩序をつくってしまえばいいということである。
と私は考えるのだけれど、私でも思いつくのだからこういうことを考えた戦国武将だっていただろう。なにも全国統一する必要もなく、ある程度の領地を確保して天皇の統べる日本国から独立するような形にもっていければ充分成功なはずである。でも歴史はそのようにはならなかった。別の秩序をつくってしまえばいいという考え方は却下されたのだ(仮にそのように考えた武将がいての話だけど)。
私のように寝っころがって呑気に考えているのとは違って、戦国武将は生死がかかっているのである。その人たちが生き死にのぎりぎりのところで考えて却下したのだから、私の思いつきは空理空論ということなんだろう。私の云っていることは所詮あとだしじゃんけんのようなものだし、ずるくて無責任な考え方といっていいしね。
しかし私のような考え方をしなかった可能性もなくはない。私程度でも思いつくとはいうものの、それは私が後世の人間で、歴史を寝っころがって呑気に俯瞰しているからこそ思いつくともいえる。だったら当時を生死のぎりぎりのなかで生きていたがゆえにかえって別の秩序を打ち立てるという考え方は思考の死角に入っていたかもしれない。岡目八目というではないか。
もし戦国時代にそのように考え実行し、成功させた武将がいたらと空想するのもおもしろい。関東以北と中部・近畿・中国・四国と九州の三つくらいに分裂したかも。中国の三国時代みたいだ。
ま、私は学校で習った以上のことは知らないので(というか、学校で習ったこと以下のことしか知らないかもしれないが)、こんな馬鹿げた空想をするのだろうが、それならそれで戦国武将が別の秩序をつくろうと発想しなかったという思考の枠組みの堅固さに興味がでてくる。何に縛られていたのか。
と過去のことを考えると、現在だって同じなんだろうと思う。ある種の思考の枠組みに縛られ動けないでいるのが現在の社会状況の閉塞感ではないのか。ある種の考え方、固定観念という呪縛から逃れ、いままでの思考の枠組みを組み換え別の秩序をつくれば、空高く広々とした世界が拓けるのではないか。
では、我々はどんな考えに縛られ、この先にどんな秩序を打ち立てればいいのか。さあ、私には思いつかないね。私に考えられるのはここまで。私は行き止まりでのたうちまわっている人間だと、再三云っているでしょ。私は先へ行けないでいるのよ。この先は誰か考えてちょうだい。現状分析に長けた人、柔軟な発想で別の枠組みを生み出せる人。そういう人たちにあとはお任せします。
今はきっと思考の革命が必要なんだろうから、革命家が現れないとどうにもならんのよ。血を流す革命家ではなく、覚醒させる革命家とでもいうか。目覚めよ、なんてことになると、なんだか革命家というより宗教家で、救世主みたいな話になってきたね。メシア待望なんてことになるのは、よくないのだがな。他(ひと)頼みは自分でなにも考えないし、なにもしないということで、そんなことでは社会は悪くなりこそすれ良くなりっこないもの。思考停止が一番マズイ。あっちと言われればホイホイついていくのが思考停止の状態だものね。あっちがどっちかも考えないで言われるままに行けばとんでもないことになるに決まっている。
どうにも、話がまたしてもあらぬ方向に向かいだしている。とりあえず今回はここまで。
で、思うのである。京都から遠くて条件的に不利だったら、その条件をないものにしてしまえばいい。つまり京都をめざすのをやめたらいいということ。なにも不利な条件で争うことはなく、そんな条件ご破算にすればいいのである。
京都をめざすのは、ようするに天皇をおさえるためで、なんで天皇をおさえる必要があるかといえば、日本の秩序は天皇を頂点にしてつくられているからである。その秩序の中でのし上がろうとすれば天皇をおさえなければならないが、その秩序を無視すればその必要はなくなる。京都をめざすのをやめればいいとは、つまり別の秩序をつくってしまえばいいということである。
と私は考えるのだけれど、私でも思いつくのだからこういうことを考えた戦国武将だっていただろう。なにも全国統一する必要もなく、ある程度の領地を確保して天皇の統べる日本国から独立するような形にもっていければ充分成功なはずである。でも歴史はそのようにはならなかった。別の秩序をつくってしまえばいいという考え方は却下されたのだ(仮にそのように考えた武将がいての話だけど)。
私のように寝っころがって呑気に考えているのとは違って、戦国武将は生死がかかっているのである。その人たちが生き死にのぎりぎりのところで考えて却下したのだから、私の思いつきは空理空論ということなんだろう。私の云っていることは所詮あとだしじゃんけんのようなものだし、ずるくて無責任な考え方といっていいしね。
しかし私のような考え方をしなかった可能性もなくはない。私程度でも思いつくとはいうものの、それは私が後世の人間で、歴史を寝っころがって呑気に俯瞰しているからこそ思いつくともいえる。だったら当時を生死のぎりぎりのなかで生きていたがゆえにかえって別の秩序を打ち立てるという考え方は思考の死角に入っていたかもしれない。岡目八目というではないか。
もし戦国時代にそのように考え実行し、成功させた武将がいたらと空想するのもおもしろい。関東以北と中部・近畿・中国・四国と九州の三つくらいに分裂したかも。中国の三国時代みたいだ。
ま、私は学校で習った以上のことは知らないので(というか、学校で習ったこと以下のことしか知らないかもしれないが)、こんな馬鹿げた空想をするのだろうが、それならそれで戦国武将が別の秩序をつくろうと発想しなかったという思考の枠組みの堅固さに興味がでてくる。何に縛られていたのか。
と過去のことを考えると、現在だって同じなんだろうと思う。ある種の思考の枠組みに縛られ動けないでいるのが現在の社会状況の閉塞感ではないのか。ある種の考え方、固定観念という呪縛から逃れ、いままでの思考の枠組みを組み換え別の秩序をつくれば、空高く広々とした世界が拓けるのではないか。
では、我々はどんな考えに縛られ、この先にどんな秩序を打ち立てればいいのか。さあ、私には思いつかないね。私に考えられるのはここまで。私は行き止まりでのたうちまわっている人間だと、再三云っているでしょ。私は先へ行けないでいるのよ。この先は誰か考えてちょうだい。現状分析に長けた人、柔軟な発想で別の枠組みを生み出せる人。そういう人たちにあとはお任せします。
今はきっと思考の革命が必要なんだろうから、革命家が現れないとどうにもならんのよ。血を流す革命家ではなく、覚醒させる革命家とでもいうか。目覚めよ、なんてことになると、なんだか革命家というより宗教家で、救世主みたいな話になってきたね。メシア待望なんてことになるのは、よくないのだがな。他(ひと)頼みは自分でなにも考えないし、なにもしないということで、そんなことでは社会は悪くなりこそすれ良くなりっこないもの。思考停止が一番マズイ。あっちと言われればホイホイついていくのが思考停止の状態だものね。あっちがどっちかも考えないで言われるままに行けばとんでもないことになるに決まっている。
どうにも、話がまたしてもあらぬ方向に向かいだしている。とりあえず今回はここまで。