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消えた幸田城-廢城散歩圖譜その十一

2015年05月06日 | ぼくのとうかつヒストリア

 前ヶ崎城址から、1級河川の富士川を挟んだ高台に幸田(こうで)城跡がある。いや、あったらしい。
 城があったであろう台地は区画整理もされてすっかり住宅街に変貌している。その中でも一段高いところに設けられている幸田第1公園が、幸田城跡らしい場所である。

 というのは、このあたりに幸田貝塚があり、発掘調査時に貝塚とともに中世城郭の遺構なども確認されたとされている場所なのだ。併せて、本土寺過去帳に幸田某などの簡単な記述があり城の存在の裏付けとなっている。

 現在では、遺構は何も残っていない。公園内に貝塚の標識と石碑及び説明板が立っているのみである。説明文は城郭のことには触れていない。貝塚があったということは、入江があって古代から人が住んでいたということだ。
 そういう条件のよい場所には人が住み続け、遺構が重層するだろう。争いも起これば城も出来よう。貝層の上に中世城郭があっても不思議ではないし、さらに住宅が建ち並んでも何ら不思議ではない。
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 公園からは、周囲の住宅しか見えないが、台地上では最も高い辺りにあり、砦、館、城の用地としては最適であることが分る。この公園から少し西側に歩くと切り立った崖になる。崖の縁、下に家が立ち並び視界は妨げられているが、ここが要害の地であったことが直感できる。


幸田城西側の崖を遠望する。当時の風景すら想像できない変わりようである。

 しかし、今となっては、それが幸田城を偲ぶ全てである。小金、中金杉、幸田、前ヶ崎、根木内、行人台と続く城のサークルは、想像によってでしか蘇らないのである。

 *トップの写真は、幸田第1公園西側。道路側に貝塚の標識と石碑がひっそりと立つ。

(幸田城データ)
城郭番号 千葉303
調査日 2015年5月6日
所在地 松戸市幸田2丁目付近と推定される。
高さ(比高)不明
築城年 不明
廃城年 不明
城主 不明
※城郭番号は『日本城郭大系』の索引地図の番号です。

(訪城ノート)
 前ヶ崎城址調査後のゴールデンウィーク最後の日、幸田城の所在を探しに出かけた。あらかじめ調べていたので期待も失望もしなかったが、城跡の標識すらないというのは淋しい。行人台城と同様、「来た、見た、何もなかった」。

■ニコン、D7100、AF-S DX NIKKOR 18-55mm f/3.5-5.6 G VR II、f5.6〜6.3、ASA100〜280、マニュアル.


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