よい天気に誘われて、マイクロツーリズムをしました。
今日は、少しだけ遠出して千葉県我孫子(あびこ)市に足を伸ばしました。
我孫子は、大正時代は手賀沼畔の風光明媚な土地でした。そこに加納治五郎、柳宗悦、志賀直哉、武者小路実篤、杉村楚人冠ら文化人、著名人がやって来て別荘や居宅を構えました。一種の文士村でしょうか。今日はその跡を追ってみようと思うのです。
スタートする前に、我孫子駅(南口)前で蒸気機関車をかたどった小振りの碑に遭遇しました。我孫子と馴染みのあった山下清*の記念碑かと思い碑文を読んでみると、駅開設に功労のあった飯泉喜雄氏(1868-1906)の顕彰碑と判りました。
当時の日本鉄道(後の常磐線)敷設にあたって私財を投げ打って駅の開設**に尽力されたとあります。SLは常磐線を走っていた6600(日本鉄道時代の呼称は、Bbt2/5)形蒸気機関車***。アメリカのボールドウィン社製で、いかにも西部劇に登場しそうなスタイルの機関車(軸配置は碑のとおり、2B1)でした。前述の文化人たちもこの機関車に牽かれた列車から我孫子駅に降り立ったのかも知れません。
飯泉氏は激務と心労の末に38歳の若さで亡くなりますが、駅の開設は別荘地としての我孫子をも世に知らしめることになりました。まさに、「鉄道なくして町の発展無し」(碑文から)でした。
次に駅前のアビシルベ(観光案内所、かな)に立ち寄って「我孫子まち歩きマップ」をいただき準備完了。まち歩き兼メタボ対策(笑)のスタートです。
最初に訪ねたのは、ジャーナリストだった杉村廣太郎(1872-1945)の旧邸である杉村楚人冠記念館。楚人冠とは、「楚人は沐猴にして冠するのみ」(史記)に由来する杉村のペンネームです。彼は卓越した新聞記者であり各方面で才能を発揮した人物でもあります。また、手賀沼の景観保護にも意を用いた人でした。沼を見下ろす高台に建てた別荘は関東大震災以降に一家の住居となりました。
今日はその庭を中心に見て回りました。当時は沼を望むよい立地だったと思われます。今でも高い木が茂り野鳥の声もしきりと聞こえてくる閑静な風情を感じることができました。
記念館から歩いて2,3分の距離に楚人冠公園があります。ここから辛うじて手賀沼の水面を見ることができました。楚人冠の句碑*があります。元々はここも邸の内でしたから相当の広さをもっていたことが判ります。
楚人冠公園を下った住宅街に白樺文学館があります。ここでは、我孫子に在住したことのある、志賀直哉、武者小路実篤、柳宗悦ら白樺派やその関係者の展示を見ることができます。1階では、声楽家であった柳兼子(宗悦夫人)愛用のピアノの生演奏を聴くことができました。
また、「我孫子の風景展」が開催されていて、原田京平(1895-1936)らの絵画を鑑賞することができました。
文学には縁遠い私ですが、地方史からの視点で文学を見るのもありだなあと思いました。〔「我孫子の風景展」は2021年2月28日まで〕
昼食をとった後は手賀沼公園で一休み。久しぶりに水辺に立ちました。名物の白鳥が寄って来ますが、餌をくれないと分かるとプイと泳ぎ去ってしまうのはいつものとおり。白鳥だけでなく、カモまでもが餌を求めてか人を恐れません。写真のようにオナガガモも人のいる岸に上がって普通に歩いていました。それでいいのか、カモ君たち(笑)。
そろそろ日が傾き始めようという頃に手賀沼公園を後にして駅に向かいます。「ハケ*の道」少し歩くと天神坂が現れました。落ち着いた風情のある坂道です。登り切ったところに柳宗悦邸跡(非公開)があります。建物は当時のものではありませんが庭は保存されているようです。嘉納治五郎から三樹荘と名付けられています。
当時は、このように手賀沼を見下ろすヤマの上に邸を構えたのですね。自然のままの手賀沼の水面には漁をする舟が浮かび、対岸の低いヤマの連なりが茫としている。そんな文人受けする風景があったのです。まだ人に知られていない自然豊かな土地での生活が一種のステータスだったのかも知れません。
三樹荘の隣が名付け親、嘉納治五郎の別荘跡です。柔道家であり教育者でもあった嘉納治五郎も我孫子に別荘を建てていました。建物は既に無く四阿や説明板と銅像(朝倉文夫の石膏原型)があります。ここからも、手賀沼と対岸の柏市が見えます。
沼の水面を見つめる加納治五郎先生、今のコロナ禍の世の中と延期されたオリンピックをどう思っていらっしゃるでしょうか。
短い時間でしたが、初めての我孫子市内カメラ散歩は無事に終わることができました。これも、我孫子市が先人の跡を大切に保存し整備しているお陰です。市内には他にも多くのポイントがありますので、日がもっと長くなった頃に改めて訪ねてみたいと考えています。∎
今日は、少しだけ遠出して千葉県我孫子(あびこ)市に足を伸ばしました。
我孫子は、大正時代は手賀沼畔の風光明媚な土地でした。そこに加納治五郎、柳宗悦、志賀直哉、武者小路実篤、杉村楚人冠ら文化人、著名人がやって来て別荘や居宅を構えました。一種の文士村でしょうか。今日はその跡を追ってみようと思うのです。
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スタートする前に、我孫子駅(南口)前で蒸気機関車をかたどった小振りの碑に遭遇しました。我孫子と馴染みのあった山下清*の記念碑かと思い碑文を読んでみると、駅開設に功労のあった飯泉喜雄氏(1868-1906)の顕彰碑と判りました。
当時の日本鉄道(後の常磐線)敷設にあたって私財を投げ打って駅の開設**に尽力されたとあります。SLは常磐線を走っていた6600(日本鉄道時代の呼称は、Bbt2/5)形蒸気機関車***。アメリカのボールドウィン社製で、いかにも西部劇に登場しそうなスタイルの機関車(軸配置は碑のとおり、2B1)でした。前述の文化人たちもこの機関車に牽かれた列車から我孫子駅に降り立ったのかも知れません。
飯泉氏は激務と心労の末に38歳の若さで亡くなりますが、駅の開設は別荘地としての我孫子をも世に知らしめることになりました。まさに、「鉄道なくして町の発展無し」(碑文から)でした。
*「放浪の画家」山下清氏は、戦時中、一時、我孫子駅の弁当販売店(当時)弥生軒で働いていました。
**我孫子駅開設は明治29(1896)年12月25日。同時に、柏、松戸駅が開設されました。
***同じくボールドウィン社製の9700(Bt4/6)形という大型で強力な機関車も走っていました。6600形によく似ていますが軸配置の異なる(1D1)常磐炭田の石炭輸送用でした。
**我孫子駅開設は明治29(1896)年12月25日。同時に、柏、松戸駅が開設されました。
***同じくボールドウィン社製の9700(Bt4/6)形という大型で強力な機関車も走っていました。6600形によく似ていますが軸配置の異なる(1D1)常磐炭田の石炭輸送用でした。
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次に駅前のアビシルベ(観光案内所、かな)に立ち寄って「我孫子まち歩きマップ」をいただき準備完了。まち歩き兼メタボ対策(笑)のスタートです。
最初に訪ねたのは、ジャーナリストだった杉村廣太郎(1872-1945)の旧邸である杉村楚人冠記念館。楚人冠とは、「楚人は沐猴にして冠するのみ」(史記)に由来する杉村のペンネームです。彼は卓越した新聞記者であり各方面で才能を発揮した人物でもあります。また、手賀沼の景観保護にも意を用いた人でした。沼を見下ろす高台に建てた別荘は関東大震災以降に一家の住居となりました。
今日はその庭を中心に見て回りました。当時は沼を望むよい立地だったと思われます。今でも高い木が茂り野鳥の声もしきりと聞こえてくる閑静な風情を感じることができました。
杉村楚人冠記念館(母屋)。旧玄関が入り口。奥は洋室のサロン。その奥の小さな建物は茶室。
客を招き入れたサロン内部。重厚な雰囲気が漂います。モリスが似合いそうな。〔これのみ2019年6月撮影(iPhone5s)〕
庭から修復中の「澤の家」(離れ)を望む。澤の家は楚人冠の母親が使用していました。
サンルームのある母屋の南面(手賀沼側)
記念館から歩いて2,3分の距離に楚人冠公園があります。ここから辛うじて手賀沼の水面を見ることができました。楚人冠の句碑*があります。元々はここも邸の内でしたから相当の広さをもっていたことが判ります。
*「筑波見ゆ / 冬晴れの / 洪(おお)いなる空に」(右からではなく、高い順に読みます)
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楚人冠公園を下った住宅街に白樺文学館があります。ここでは、我孫子に在住したことのある、志賀直哉、武者小路実篤、柳宗悦ら白樺派やその関係者の展示を見ることができます。1階では、声楽家であった柳兼子(宗悦夫人)愛用のピアノの生演奏を聴くことができました。
また、「我孫子の風景展」が開催されていて、原田京平(1895-1936)らの絵画を鑑賞することができました。
文学には縁遠い私ですが、地方史からの視点で文学を見るのもありだなあと思いました。〔「我孫子の風景展」は2021年2月28日まで〕
白樺文学館
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昼食をとった後は手賀沼公園で一休み。久しぶりに水辺に立ちました。名物の白鳥が寄って来ますが、餌をくれないと分かるとプイと泳ぎ去ってしまうのはいつものとおり。白鳥だけでなく、カモまでもが餌を求めてか人を恐れません。写真のようにオナガガモも人のいる岸に上がって普通に歩いていました。それでいいのか、カモ君たち(笑)。
手賀沼の風景
オナガガモ♂。脅さないようにこちらがびくびくしていたので、特徴の長い尾羽が見切れてしまいました。
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そろそろ日が傾き始めようという頃に手賀沼公園を後にして駅に向かいます。「ハケ*の道」少し歩くと天神坂が現れました。落ち着いた風情のある坂道です。登り切ったところに柳宗悦邸跡(非公開)があります。建物は当時のものではありませんが庭は保存されているようです。嘉納治五郎から三樹荘と名付けられています。
当時は、このように手賀沼を見下ろすヤマの上に邸を構えたのですね。自然のままの手賀沼の水面には漁をする舟が浮かび、対岸の低いヤマの連なりが茫としている。そんな文人受けする風景があったのです。まだ人に知られていない自然豊かな土地での生活が一種のステータスだったのかも知れません。
*崖地、丘陵、山地の片岸を指す名。
天神坂
柳宗悦邸跡(非公開)
三樹荘の隣が名付け親、嘉納治五郎の別荘跡です。柔道家であり教育者でもあった嘉納治五郎も我孫子に別荘を建てていました。建物は既に無く四阿や説明板と銅像(朝倉文夫の石膏原型)があります。ここからも、手賀沼と対岸の柏市が見えます。
沼の水面を見つめる加納治五郎先生、今のコロナ禍の世の中と延期されたオリンピックをどう思っていらっしゃるでしょうか。
*
短い時間でしたが、初めての我孫子市内カメラ散歩は無事に終わることができました。これも、我孫子市が先人の跡を大切に保存し整備しているお陰です。市内には他にも多くのポイントがありますので、日がもっと長くなった頃に改めて訪ねてみたいと考えています。∎
Nikon Z 6 / NIKKOR Z 24-70mm f/4 S