同窓会でもないのに、同級生たちが集った。
同級生の悲報に懐かしい顔ぶれが揃う。
ちょっと話をしただけで、みなそれぞれに人生の苦悩を抱えながら生きているのがわかる。
こういう設定のシーンって、映画や小説でよくあるよなあ。
みな黒服に白いマスク。
マスクで顔半分が隠れていても、誰かはすぐにわかる。
姿勢や歩き方、しゃべり方も、10代の頃とあまりかわっていない。
三つ子の魂百までというのは本当だと思う。
ある意味、子供の頃のまま大人になったっていうことは、幸せに生きてきた証拠なのでは、と思う。
お通夜は、親族以外は御焼香だけ。
昨年はドライブスルー方式だったというから、友だちと立ち話ができるだけ、With Coronaが進歩している。
両親が住まなくなった実家に一晩泊まって、翌日の葬儀にも出ることにした。
実家は弟夫婦によってすっかり断捨離されていて、ガラーンとしたリビングには、弟が仕事の合間に使っているのか、ウォーキングマシーンが置いてある。
誰もいない実家に一人で居るのはいやだなあとつぶやいたら、リモート会議の場所を貸してくれるなら、ということで、友達が来てくれた。
会議が終わってから、一緒にコンビニお握りの夕飯を食べながらしばし話をし、帰らずに葬儀も出ることにした彼女を近くのビジネスホテルへ送っていった。
おかげで、夜はよく眠れた。
翌日の告別式は、お通夜よりも多くの同級生が集まった。
お棺を乗せたワゴン車の運転手も同級生。
彼が鳴らした出棺を知らせるクラクションの音は、胸に突き刺さって痛かった。
いや、胸と言うのはうそだ。
クラクションの鋭い音を全身の皮膚細胞が受け止め、その100分の1秒後に脳が反応して悲しみや痛みといったものを全身にあふれさせた感じ。
車のクラクションをあんなふうに鳴らしたことはない。
楽器を使うならトランペットか・・・
けれど、私達が手を合わせて見送るなか、冬の青空に響き渡ったクラクションは、痛々しく、悲しく、美しくさえあり、偉大な作曲家の喪失の悲しみを表現した交響曲よりも、記憶に残ると思う。
ちょっと迷ったけれど、帰り道、喪服のまま親に会いに行った。
あの時会っておけばよかったと、後悔しないために。
面会したあと帰路についた。
途中休憩したPAから見た夕空は、暖かくて優しい色だったなあ。
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