からの続きです
《本題の前に、少しだけ エピソードを》
息子が高校を卒業して「浪人」を始めた年
おそらく・・・、
私の「子育て」の考えの中には
わが子とはいうものの、
将来は 社会に出て 自立して
素敵な人と人生を共にし、
いずれ 夫として
さらには 親となり
家長として 妻子を支える時が来る
社会の情勢は
変遷するものであり、
絶対的な 安穏&安泰 など 親は保証できない。。
親は 先に逝く者だし、
残された時に
自分の家族を護れる 心丈夫な人間に成ってほしい
という思いが 何よりも強くあった・・のです
それはおそらく、
結婚=子供を授かる ということがスムーズではなかったから。。
子育て 後日談;その1(覚悟する)
近年では
私以上の高齢出産の方も多いですけれど、
当時の私としては、
授かるまでの十年余りのブランクは、
子どもの将来を 慮る(おもんぱかる)気持ち・・・というのが
若くしてお母さんになられた方々よりも 深かった・・と。。
(覚めていた・・のかな)
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《本題に入ります》
これは、
あまりにも 理想の高い人間像です
けれども、
「子育て」というのは、
子ども自身が育つ環境を
親として提供すること だと考えると
その環境 というものも、
偏差値的な優劣に囚われてしまうと
本当の意味での 子どもにとっての良い環境 というものを
見誤ってしまうのではないか・・・と。。
「学力」と「人間力(社会人基礎力)」を
この図に当てはめて考えるならば、
双方は 作用しあって バランスをとっている
それが わが子の「人間性」に通じる・・・
と イメージするとき
「子育て」は
学力(偏差値)だけであってはならない・・
ということが腑に落ちます
そして、
「社会人基礎力」として掲げられている一つ一つは
あくまでも 指針であり、
しかし!
わが子の性質や 言動の中に
少しばかり バランスの悪いものを感じるならば、
親として、
その言葉通りに示唆するのではなく、
上手に誘導する 知恵 が必要かな・・と。。。
知っているのと
知らないのとでは
これから 子育てをされていく時に
「自分流(わが家流)」の 誘導=意思疎通 が
違ってくると 思うのです
子育て わが家流(親にも誘導責任がある)
《私の願うこと》
産まれた時から
幼児期~学童期~思春期
子どもの成長の歳月は 全部繋がっています
(病理的な疾患を除いては 突然変異はあり得ない・・)
青年期(高校~大学~社会人)に 至った時
子ども自身が自分に満足できるよう
その人間性を育むのは
家庭(=主として母親)だ と 私は思います
子どもが
反抗期と言われる頃になって荒れるのは
何かしら
自分に不満足感がある ということが
大きな要因かな・・と
どうか
子どもの所為にしないで
子どもが 自分自身に満足できるように
自分の家庭流に
育むという心で寄り添ってください
自分の子どもが生まれた時もそうですが、初孫の小さな手や無垢な顔を見ていると
「とにかく、元気で・・・・」
しか無いかなぁ
なんて思います
高望みはしないけれど、人として「普通」であって欲しいです
route305さんは
「普通」の感覚を持ち合わせていらっしゃるから
穏やかな子育て感でいらっしゃる
私もね!
「社会人基礎力」云々、
掲げている側が大げさであって、
そんなの
「普通」に
「無意識」に
親の目配りの中で できることだと思っています。
でも、
いろいろな情報(ニュースなど)が入るにつけ、
現代は「普通」という当たり前の感覚が
壊れてきているような気がします
だから・・・、
事細かく、「親教育」ともいえるような論調も出てしまうのかな・・と思うところはあります
「普通」って なかなか難しい。。
※長々と返信してしまってごめんなさい
ちょっとキッカケがあって
熱い記事になってしまいました