11月20日
月曜日
「どうする家康」
徳川家康家臣団列伝
結城秀康
(徳川家康 次男)
(岐州 匠)
結城 秀康(ゆうき ひでやす)は、
安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。
越前国北荘藩(福井藩)初代藩主。
越前松平家の祖。
下総結城氏第18代当主。
徳川家康の次男で、
豊臣秀吉の養子となり
羽柴 秀康(はしば ひでやす)を名乗ったが、
その後、
結城晴朝の養子となり、
結城の通称で呼ばれるようになった。
通説では
関ヶ原の戦いの後に越前国を領してから
松平姓を名乗ったとされ、
松平 秀康(まつだいら ひでやす)と呼ばれるが、
一次史料でこの時期に称した名字は
明らかとなっていない。
天正2年(1574年)2月8日、
徳川家康の次男として遠江国敷知郡宇布見村
(現・浜松市西区雄踏町)で生まれた。
母は永見吉英の娘・於古茶(長勝院)。
幼名は於義伊(於義丸 / 義伊丸 / 義伊松)と名づけられた。
誕生地は、
今川氏の時代より代官や浜名湖周辺の船・兵糧の 奉行を務める源範頼の系譜である
領主・中村源左衛門正吉の屋敷であった。
現存する同屋敷(建築物は江戸初期)内には、
家康お手植えの梅の木「秀康の胞衣塚」が残る。
この縁により、
のちの歴代福井藩主は参勤交代の際、
中村家で供応を受ける慣例が続いた。
『柳営婦女伝系』によると、
秀康は双子で誕生し、
弟はすぐに亡くなったとされている。
ただし、
生母の実家である知立神社に伝来する
「知立明神古文書」では、
弟は知立神社の神職となり永見貞愛を称し
31歳まで生きたとされる。
「知立明神古文書」には
秀康から送られた手紙などが含まれており、
年二千俵の援助を行っていたという。
家康の正室・築山殿は
長勝院が家康の子供を妊娠したことについて、
承認しなかったため
浜松城内から退去させられたとされる。
それは正妻としての権限であった。
正妻は、
別妻や妾として承知するどうかの権限を
持っていたと考えられる。
築山殿は長勝院を家康の妾とすることを
承知していないにもかかわらず妊娠したために、
女房衆から追放したのである。
それが江戸時代になると、
妻の嫉妬などという、矮小化した理解になっている。
秀康を妊娠した長勝院は
重臣の本多重次の差配により出産した。
城内から追放されたということは、
生まれてくる子供を家康の子供として
承認しないことを意味していた。
秀康は、
重次や中村源左衛門のもとで育てられたという。
築山殿が承認しない子供であったため、
家康もまた認知できなかった。
そのため
家康とは満3歳になるまで対面を果たせなかった。
その対面も、
あまりの冷遇を受ける異母弟を不憫に思った
兄・松平信康による取りなしで
実現したものであったという。
ただ、
父子対面はあったかもしれないが、
それで家康の子として認知されたわけではなかった。
築山殿が死去してから
秀康は家康の子として認知されたのである。
冷遇の理由は、
築山殿をはばかったためとも、
双子で生まれてきたことにあるともされるが、
寛永11年(1634年)に書かれた
『中村家御由緒書』には
「本多作左衛門が家康に委細を言上に及んだところ、
家康には何か考えることがあり、
お取り上げが難しいということになり」とだけ
書かれている。
研究者の小楠和正は
武田勝頼との戦いに直面していたために
家康は秀康を浜松城に引き取る機会も、
対面する機会も持てなかったのではないかと
推定している。
天正7年(1579年)、
武田勝頼との内通疑惑から織田信長の命令により、
兄・信康が切腹させられる
(近年では信康が家康と対立したために
切腹させられたとされる説も有力)。
このため、
次男である秀康は
本来ならば徳川氏の次の後継者となるはずであった。
しかし、
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いの後、
家康と羽柴秀吉が和睦の条件として、
秀康は秀吉のもとへ養子
(徳川家や本願寺の認識、
秀吉側の認識は人質)として送られ、
家康の次の後継者は
異母弟の長松(後の徳川秀忠)とされた。
母親の身分は
徳川秀忠の方が上であり、
信康切腹前に生まれた秀忠が
当初から後継者だったと考えられる。
同様の先例として、
やはり三男ながら貴族の母親から生まれ、
年少時から二人の兄をさしおいて
官位を受け後継者と見なされていた源頼朝が存在する。
大坂へは、
傅役の小栗大六(小栗重国)と
小姓の石川勝千代(石川康勝)
・本多仙千代(本多成重)がつきしたがう。
家康より
「童子切」の刀と采配を餞別として授けられた。
天正12年(1584年)12月12日、
羽柴秀吉の養子として「羽柴三河守秀康」と名乗る。
河内国に1万石を与えられた。
天正3年(1585年)10月4日には侍従に任官した。
天正15年(1587年)、
14歳のとき、九州征伐で初陣を果たし、
豊前岩石城攻めで先鋒を務めた。
続く日向国平定戦でも抜群の功績を挙げた。
天正16年(1588年)、
豊臣姓を下賜された。
また4月までの時点で
左近衛権少将・三河守に任官し、
「三河少将」と呼ばれた。
天正17年(1589年)、
秀吉に実子の鶴松が誕生すると、
秀吉は鶴松を生後4ヶ月で豊臣氏の後継者として指名。
そのためほかの養子同様に、再び他家に出される。
天正18年(1590年)、
実父の家康が駿遠三甲信から、
関東一円(旧北条領)に国替えになり240万石を得た。
秀吉は、
関東平定の功労者である家康へさらなる加増として、
秀康を北関東の大名
結城氏の婿養子とすることを考えついた。
結城氏は
下野国の守護に任命されたことがある名家であった。
秀康は関東に下り、
黒田孝高の取り成しで
結城晴朝の姪(江戸重通の娘・鶴姫)と婚姻して
結城氏の家督および結城領10万1,000石を継いだ。
その後も羽柴姓を称しており、
羽柴結城少将と呼ばれた。
黒田基樹は
結城姓を称したことはなく、
「結城少将」の結城は
あくまで在所名であるとしている。
結城家を継いだ後、
大崎葛西一揆鎮圧のため、奥州に出陣した。
天正18年(1590年)の小田原平定、
天正20年(1592年)からの文禄・慶長の役にも参加した。
文禄元年(1592年)、
文禄・慶長の役では、
多賀谷三経や本多富正など1500人を率いて
肥前国唐津に滞陣した。
この時期
秀朝の諱を用いているが、
慶長3年(1598年)10月までには秀康に諱を戻している。
慶長2年(1597年)9月28日には参議に任官し、
公卿となったことで
「結城宰相」などと呼ばれるようになった。
慶長4年(1599年)から慶長5年(1600年)6月まで
伏見城を守備した。
同年6月8日、
伏見を発って関東に向かい、
関ヶ原の戦いの前哨戦である会津征伐に参戦する。
上杉景勝に呼応するかたちで石田三成が挙兵すると、
家康は小山評定を開いて諸将とともに西上を決める。
このとき家康によって、
本隊は家康自らが率いて東海道から、
そして別働隊を秀忠が率いて
中山道(東山道)を進軍することが決められ、
秀康は宇都宮に留まり上杉景勝の抑えを命じられた。
同年9月7日、
徳川家康が伊達政宗にあてた手紙には
秀康と相談して上杉に備えるよう指示していることから、
家康は秀康の武将としての器量を評価しており、
父子がそれぞれの立場をわきまえて
生涯認めあっていたことは確かである。
同年11月、
秀康は越前国北荘68万石余に加増移封された
(越前の他、信濃国、若狭国の一部)。
結城旧来の家臣の中には
越前への移転を拒否するものが少なくなく、
それゆえこの越前移封は
最終的な在地離脱の強制として機能したもので、
その結果、
秀康は自らの権力における
旧族結城氏よりの継承面をほぼ払拭することができた。
慶長6年(1601年)7月、北庄に入部した。
「越前松平家系図」などの後世の系譜類では、
慶長9年に秀康が
「本姓に復して徳川姓に改めた」という記述があるが、
秀康が越前入封後に称していた名字が
明確になる史料は存在していない。
通説では「松平」姓を称していたとされるが、
市村高男など否定する研究者もいる。
黒田基樹は家康の子である秀康は、
他の松平家の名跡を継がない限り
松平氏を称することは歴史的に考えられないとしている。
慶長10年(1605年)、
権中納言へ昇進。
慶長11年(1606年)9月21日には
伏見城の留守居を命じられる。
だが病を得て職務を全うできなくなったため、
慶長12年3月1日に越前へ帰国し、
そのまま閏4月8日に死去した。
享年34。
死因は『当代記』に
「日来唐瘡相煩、其上虚成」とあるから、
梅毒だったとされる。
また梅毒が直接の死因ではなく、
梅毒による衰弱症が死因とする指摘もある。
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月曜日
「どうする家康」
徳川家康家臣団列伝
結城秀康
(徳川家康 次男)
(岐州 匠)
結城 秀康(ゆうき ひでやす)は、
安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。
越前国北荘藩(福井藩)初代藩主。
越前松平家の祖。
下総結城氏第18代当主。
徳川家康の次男で、
豊臣秀吉の養子となり
羽柴 秀康(はしば ひでやす)を名乗ったが、
その後、
結城晴朝の養子となり、
結城の通称で呼ばれるようになった。
通説では
関ヶ原の戦いの後に越前国を領してから
松平姓を名乗ったとされ、
松平 秀康(まつだいら ひでやす)と呼ばれるが、
一次史料でこの時期に称した名字は
明らかとなっていない。
天正2年(1574年)2月8日、
徳川家康の次男として遠江国敷知郡宇布見村
(現・浜松市西区雄踏町)で生まれた。
母は永見吉英の娘・於古茶(長勝院)。
幼名は於義伊(於義丸 / 義伊丸 / 義伊松)と名づけられた。
誕生地は、
今川氏の時代より代官や浜名湖周辺の船・兵糧の 奉行を務める源範頼の系譜である
領主・中村源左衛門正吉の屋敷であった。
現存する同屋敷(建築物は江戸初期)内には、
家康お手植えの梅の木「秀康の胞衣塚」が残る。
この縁により、
のちの歴代福井藩主は参勤交代の際、
中村家で供応を受ける慣例が続いた。
『柳営婦女伝系』によると、
秀康は双子で誕生し、
弟はすぐに亡くなったとされている。
ただし、
生母の実家である知立神社に伝来する
「知立明神古文書」では、
弟は知立神社の神職となり永見貞愛を称し
31歳まで生きたとされる。
「知立明神古文書」には
秀康から送られた手紙などが含まれており、
年二千俵の援助を行っていたという。
家康の正室・築山殿は
長勝院が家康の子供を妊娠したことについて、
承認しなかったため
浜松城内から退去させられたとされる。
それは正妻としての権限であった。
正妻は、
別妻や妾として承知するどうかの権限を
持っていたと考えられる。
築山殿は長勝院を家康の妾とすることを
承知していないにもかかわらず妊娠したために、
女房衆から追放したのである。
それが江戸時代になると、
妻の嫉妬などという、矮小化した理解になっている。
秀康を妊娠した長勝院は
重臣の本多重次の差配により出産した。
城内から追放されたということは、
生まれてくる子供を家康の子供として
承認しないことを意味していた。
秀康は、
重次や中村源左衛門のもとで育てられたという。
築山殿が承認しない子供であったため、
家康もまた認知できなかった。
そのため
家康とは満3歳になるまで対面を果たせなかった。
その対面も、
あまりの冷遇を受ける異母弟を不憫に思った
兄・松平信康による取りなしで
実現したものであったという。
ただ、
父子対面はあったかもしれないが、
それで家康の子として認知されたわけではなかった。
築山殿が死去してから
秀康は家康の子として認知されたのである。
冷遇の理由は、
築山殿をはばかったためとも、
双子で生まれてきたことにあるともされるが、
寛永11年(1634年)に書かれた
『中村家御由緒書』には
「本多作左衛門が家康に委細を言上に及んだところ、
家康には何か考えることがあり、
お取り上げが難しいということになり」とだけ
書かれている。
研究者の小楠和正は
武田勝頼との戦いに直面していたために
家康は秀康を浜松城に引き取る機会も、
対面する機会も持てなかったのではないかと
推定している。
天正7年(1579年)、
武田勝頼との内通疑惑から織田信長の命令により、
兄・信康が切腹させられる
(近年では信康が家康と対立したために
切腹させられたとされる説も有力)。
このため、
次男である秀康は
本来ならば徳川氏の次の後継者となるはずであった。
しかし、
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いの後、
家康と羽柴秀吉が和睦の条件として、
秀康は秀吉のもとへ養子
(徳川家や本願寺の認識、
秀吉側の認識は人質)として送られ、
家康の次の後継者は
異母弟の長松(後の徳川秀忠)とされた。
母親の身分は
徳川秀忠の方が上であり、
信康切腹前に生まれた秀忠が
当初から後継者だったと考えられる。
同様の先例として、
やはり三男ながら貴族の母親から生まれ、
年少時から二人の兄をさしおいて
官位を受け後継者と見なされていた源頼朝が存在する。
大坂へは、
傅役の小栗大六(小栗重国)と
小姓の石川勝千代(石川康勝)
・本多仙千代(本多成重)がつきしたがう。
家康より
「童子切」の刀と采配を餞別として授けられた。
天正12年(1584年)12月12日、
羽柴秀吉の養子として「羽柴三河守秀康」と名乗る。
河内国に1万石を与えられた。
天正3年(1585年)10月4日には侍従に任官した。
天正15年(1587年)、
14歳のとき、九州征伐で初陣を果たし、
豊前岩石城攻めで先鋒を務めた。
続く日向国平定戦でも抜群の功績を挙げた。
天正16年(1588年)、
豊臣姓を下賜された。
また4月までの時点で
左近衛権少将・三河守に任官し、
「三河少将」と呼ばれた。
天正17年(1589年)、
秀吉に実子の鶴松が誕生すると、
秀吉は鶴松を生後4ヶ月で豊臣氏の後継者として指名。
そのためほかの養子同様に、再び他家に出される。
天正18年(1590年)、
実父の家康が駿遠三甲信から、
関東一円(旧北条領)に国替えになり240万石を得た。
秀吉は、
関東平定の功労者である家康へさらなる加増として、
秀康を北関東の大名
結城氏の婿養子とすることを考えついた。
結城氏は
下野国の守護に任命されたことがある名家であった。
秀康は関東に下り、
黒田孝高の取り成しで
結城晴朝の姪(江戸重通の娘・鶴姫)と婚姻して
結城氏の家督および結城領10万1,000石を継いだ。
その後も羽柴姓を称しており、
羽柴結城少将と呼ばれた。
黒田基樹は
結城姓を称したことはなく、
「結城少将」の結城は
あくまで在所名であるとしている。
結城家を継いだ後、
大崎葛西一揆鎮圧のため、奥州に出陣した。
天正18年(1590年)の小田原平定、
天正20年(1592年)からの文禄・慶長の役にも参加した。
文禄元年(1592年)、
文禄・慶長の役では、
多賀谷三経や本多富正など1500人を率いて
肥前国唐津に滞陣した。
この時期
秀朝の諱を用いているが、
慶長3年(1598年)10月までには秀康に諱を戻している。
慶長2年(1597年)9月28日には参議に任官し、
公卿となったことで
「結城宰相」などと呼ばれるようになった。
慶長4年(1599年)から慶長5年(1600年)6月まで
伏見城を守備した。
同年6月8日、
伏見を発って関東に向かい、
関ヶ原の戦いの前哨戦である会津征伐に参戦する。
上杉景勝に呼応するかたちで石田三成が挙兵すると、
家康は小山評定を開いて諸将とともに西上を決める。
このとき家康によって、
本隊は家康自らが率いて東海道から、
そして別働隊を秀忠が率いて
中山道(東山道)を進軍することが決められ、
秀康は宇都宮に留まり上杉景勝の抑えを命じられた。
同年9月7日、
徳川家康が伊達政宗にあてた手紙には
秀康と相談して上杉に備えるよう指示していることから、
家康は秀康の武将としての器量を評価しており、
父子がそれぞれの立場をわきまえて
生涯認めあっていたことは確かである。
同年11月、
秀康は越前国北荘68万石余に加増移封された
(越前の他、信濃国、若狭国の一部)。
結城旧来の家臣の中には
越前への移転を拒否するものが少なくなく、
それゆえこの越前移封は
最終的な在地離脱の強制として機能したもので、
その結果、
秀康は自らの権力における
旧族結城氏よりの継承面をほぼ払拭することができた。
慶長6年(1601年)7月、北庄に入部した。
「越前松平家系図」などの後世の系譜類では、
慶長9年に秀康が
「本姓に復して徳川姓に改めた」という記述があるが、
秀康が越前入封後に称していた名字が
明確になる史料は存在していない。
通説では「松平」姓を称していたとされるが、
市村高男など否定する研究者もいる。
黒田基樹は家康の子である秀康は、
他の松平家の名跡を継がない限り
松平氏を称することは歴史的に考えられないとしている。
慶長10年(1605年)、
権中納言へ昇進。
慶長11年(1606年)9月21日には
伏見城の留守居を命じられる。
だが病を得て職務を全うできなくなったため、
慶長12年3月1日に越前へ帰国し、
そのまま閏4月8日に死去した。
享年34。
死因は『当代記』に
「日来唐瘡相煩、其上虚成」とあるから、
梅毒だったとされる。
また梅毒が直接の死因ではなく、
梅毒による衰弱症が死因とする指摘もある。
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