私の40代のころは猛烈に働いたので自分が受けた傷を人にしてきたのだろうか。
そんなことを考えて夕べは眠れなかった。
1982年から専業主婦から仕事をする人になった。
雑誌記者時代も人を押しのけていかないと自分が生き残れなかった。
どんなところにも取材現場にはいると誰でも名刺交換をして人脈を作ってきた。いろんなことがあった。
この時代のことは奈良県内のことなので迷惑をかける人もいるのであまり書くことができない。
しかし在日韓国人系統の日刊紙の記者になったときはさらにもっとひどかった。
「在日」が心底嫌いになった。韓国も嫌いになった。同胞のいじめで私の心はずたずたに傷ついていた。
私がこの会社で記者をしはじめたころ同僚たちはたかだか地方の雑誌記者、そんなに仕事ができるはずがない。すぐにやめていくと甘く見ていた。
それが雑誌記者時代に上司に叩き込まれたものがあった。「誰でも名刺交換をして取材ネタを3つとって来い」だった。ネタをとるといことは誰とでも話しをして情報収集することだった。この体験は在日韓国人の新聞社、日刊紙に転職してからもフル回転した。
在日韓国人の同性記者から「鄭さんみたいにだれかれと名刺交換、私はしないわ」とどこでもあてつけに言われていじめられた。
しかしここでも生き残るのに自己主張をしなければ生き残れなかった。
すこしずつ記者魂がフル回転しだした。
どこにでも入っていける性格に生んでくれた親にこのときは感謝した。
そしたら同僚たちのいじめがもっと強く始まった。
「会社に来るな。奈良の自宅で待機してろ」と言われた。それでも私はあつかましく会社に出社していた。
3度目に言われたときは私はどうしょうと迷った。
そして自宅から当時の編集局の上司に電話をして事情を話した。
上司は言った。「どこにでも行くのが鄭さんのとりえだ。どこにでも入って記事を拾って来い」とアドバイスをしてくれた。
それから私の猛烈な仕事が展開した。
同僚の男性に負けておれなかった。
こんなとき元いた地方紙の新聞社に何度も戻ろうとも思った。
「辛かったら戻って来い」という暗黙の了解があった。
しかし戻りたいとも思うと「日本人のふりをして日本人の記事を書きたく」気持ちに頭をもたげた。
当時、京都市外国人教育指針が10年も放置したままで方針の策定で京都市に入るように言ってくれたのが当時の編集局の上司だった。
これまで在日韓国人の新聞記者が入っていない京都の行政機関に入っていった。
失敗もたくさんあったが京都市の教師たちから取材資料をたくさん頂き私は京都を管轄にして5年間、この会社で生き延びることができた。
私は周りの多くの人に助けられてきた。
こんなことは私の心の中にある。
ただこの新聞社を解雇された理由はささいなこと。同僚のいじめで仕事に猛進する女性記者が男性の目の上のたんこぶになっていた。世間よくある話である。
理不尽な解雇に上司に抗議したが駄目だった。
あきらめて息子のアドバイスで天理大学の聴講生になろうと準備をしはじめたら駐大阪韓国総領事館の職員から電話があった。
これが縁で民団新聞の仕事をするようになった。
地方通信員で控えめにしかし一生懸命に仕事をこなしてきた。
これもすべて上司たちの尽力で15年間仕事をさせてもらっている。時代の変遷で元いた日刊紙の会社は週刊紙になった。
環境が悪くなって同僚たちは退職したり解雇されたりしていった。
いろんなことがあった。自分の半生を振り返ると記者生活25年、38歳から記者になって62歳になった。若くて燃えていたころからだんだん遠くになっていく。しかし気持ちは燃えているが体力が衰えてきている。
私の回りにたちはだかる老いと若い世代、今後、どうきりかえて後継者にジレンマがなく託すことができるのだろうか。
私が今後、のりこえなければならない。
そんなことを考えて夕べは眠れなかった。
1982年から専業主婦から仕事をする人になった。
雑誌記者時代も人を押しのけていかないと自分が生き残れなかった。
どんなところにも取材現場にはいると誰でも名刺交換をして人脈を作ってきた。いろんなことがあった。
この時代のことは奈良県内のことなので迷惑をかける人もいるのであまり書くことができない。
しかし在日韓国人系統の日刊紙の記者になったときはさらにもっとひどかった。
「在日」が心底嫌いになった。韓国も嫌いになった。同胞のいじめで私の心はずたずたに傷ついていた。
私がこの会社で記者をしはじめたころ同僚たちはたかだか地方の雑誌記者、そんなに仕事ができるはずがない。すぐにやめていくと甘く見ていた。
それが雑誌記者時代に上司に叩き込まれたものがあった。「誰でも名刺交換をして取材ネタを3つとって来い」だった。ネタをとるといことは誰とでも話しをして情報収集することだった。この体験は在日韓国人の新聞社、日刊紙に転職してからもフル回転した。
在日韓国人の同性記者から「鄭さんみたいにだれかれと名刺交換、私はしないわ」とどこでもあてつけに言われていじめられた。
しかしここでも生き残るのに自己主張をしなければ生き残れなかった。
すこしずつ記者魂がフル回転しだした。
どこにでも入っていける性格に生んでくれた親にこのときは感謝した。
そしたら同僚たちのいじめがもっと強く始まった。
「会社に来るな。奈良の自宅で待機してろ」と言われた。それでも私はあつかましく会社に出社していた。
3度目に言われたときは私はどうしょうと迷った。
そして自宅から当時の編集局の上司に電話をして事情を話した。
上司は言った。「どこにでも行くのが鄭さんのとりえだ。どこにでも入って記事を拾って来い」とアドバイスをしてくれた。
それから私の猛烈な仕事が展開した。
同僚の男性に負けておれなかった。
こんなとき元いた地方紙の新聞社に何度も戻ろうとも思った。
「辛かったら戻って来い」という暗黙の了解があった。
しかし戻りたいとも思うと「日本人のふりをして日本人の記事を書きたく」気持ちに頭をもたげた。
当時、京都市外国人教育指針が10年も放置したままで方針の策定で京都市に入るように言ってくれたのが当時の編集局の上司だった。
これまで在日韓国人の新聞記者が入っていない京都の行政機関に入っていった。
失敗もたくさんあったが京都市の教師たちから取材資料をたくさん頂き私は京都を管轄にして5年間、この会社で生き延びることができた。
私は周りの多くの人に助けられてきた。
こんなことは私の心の中にある。
ただこの新聞社を解雇された理由はささいなこと。同僚のいじめで仕事に猛進する女性記者が男性の目の上のたんこぶになっていた。世間よくある話である。
理不尽な解雇に上司に抗議したが駄目だった。
あきらめて息子のアドバイスで天理大学の聴講生になろうと準備をしはじめたら駐大阪韓国総領事館の職員から電話があった。
これが縁で民団新聞の仕事をするようになった。
地方通信員で控えめにしかし一生懸命に仕事をこなしてきた。
これもすべて上司たちの尽力で15年間仕事をさせてもらっている。時代の変遷で元いた日刊紙の会社は週刊紙になった。
環境が悪くなって同僚たちは退職したり解雇されたりしていった。
いろんなことがあった。自分の半生を振り返ると記者生活25年、38歳から記者になって62歳になった。若くて燃えていたころからだんだん遠くになっていく。しかし気持ちは燃えているが体力が衰えてきている。
私の回りにたちはだかる老いと若い世代、今後、どうきりかえて後継者にジレンマがなく託すことができるのだろうか。
私が今後、のりこえなければならない。
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