朝から、ネット用の原稿を作った。しかし確認作業が必要と思って原稿の確認メールが送ったが今日は土曜日ひょっとしたら会社は休みかもしれない。
もうすぐ待ってみよう。
月曜日の連載を作ってそれからブログを書いて12時半に置いた。それから昼食の前に夕食を作った。
アスパラガスと豚肉の炒め物、油揚げとワケギのぬた和え、そして白菜とてんぷらで炊いた。納豆は葱のみじん切りを入れて出し醤油で混ぜた。
1時半に出来たので夕食の食材を少しずつ皿に盛り付けて保存食を出して昼ごはんにした。
風呂の湯も入れてある。2時15前に風呂にはいった。
風呂から上がると阪神対ヤクルト戦が始まった。
野球のテレビをつけながら新聞2紙を読んだ。
野球は4時半になるまでに終わった。
4時半からは韓国テレピ(KNテレビ)に切り替えて「明成皇后」のドラマを見た。2時間ドラマ、朝鮮王朝末期で日本やアメリカが国を解放しろと責めてくる手前の時代である。国が滅びていくかもしれない。その中で宮中の内部紛争が描かれている人間関係のドラマである。
景福宮を舞台に繰り広げられる朝鮮王朝末期のドラマである。
景福宮に行くと許可がないと見学できない明成皇后が暗殺された建物を1度見学している。もう何年も前になる。
1995年の夏だった。
京都市中学校外国人教育研究会の教師ら一行との同行取材だったときにこの場所まで見学することができた。明成皇后が暗殺された場所に石碑が立っている。
そしてその場面が絵画で描かれていた。
教師たちはこのあと独立運動の宣言文を読まれたバゴダ公園に行った。独立運動の一様の彫刻レリーフが設置されていた。
日本から来ている教師にここで過ごしているハラボジ(おじいさん)が教師の所に来て「日本の植民地支配を知っているのか」と絡んできてその人から離れるのに大変だったことを覚えている。
そして韓国に入る前に教師たちの入国検査は時間がかかった。私は入国審査を済ませて外で待っているのに1時間ほど待たされた。
韓国は分断国家である。
1人、髭を生やして人相の悪い教師は入国審査のところで長いことそこに留まらせて似顔絵まで書かれたという。
当時はまだ盧泰愚大統領の時代だった。韓国と北朝鮮の軍事境界線の分断国家であることを嫌でも認識しなければならなかった。
あれから数年して一緒に韓国に言った中学教師は体を壊して亡くなられた。
韓国に一所懸命、在日コリアンの人権問題などに日夜取り組まれるのかストレスなのか体調を崩していかれた。
長い間記者生活をしていて多くの人たちに助けられてきたことをまたしみじみと思い出した。
「明成皇后」のドラマを見ていて在りし日を思い出した。
この時私は皆と一緒に関西に戻らずにソウルに留まった。
そして長い間、音信普通だった母親の家族を私は探しあて妹が釜山で健在であったことが分かったので釜山に行き母親の妹、叔母を訪ねていった。母親の様子を知らせて日本にきてぜひ会って欲しいと言った旅だった(叔母はこの後日本に来て54年ぶりに母親と対面した)またソウルに戻ってソウルで行われた在日韓国人教育者大会に参加した。このときは韓国の国会議事堂も見学した。
そして夜は何人かで蚕室の居酒屋に行っていろんな話をしたが今は懐かしい思い出になった。まだ私はまだ50歳だった。もうこのまま仕事が終えてもいいと思っていたが1年間休んだだけでまたもとの職場に戻った。1年間休んでいる時に韓国に旅した時の記憶がよみがえってきた。
あのとき韓国政府機関にいたときに軍事訓練でゴウーとうなりを立てて頭上低く飛行機が飛んでいく。またここで韓半島が分断国家であることを改めて認識していた。日本にいると分からないが韓国に来ると何かの時に分断国家であることを認識してしまう。
そして日本植民地時代の悲劇はまだ終わっていないとことを実感する。
こうしたことを思い出すドラマ「明成皇后」である。
今日も1日が暮れて行く。明日は早起きである。もう休むことにしよう。
もうすぐ待ってみよう。
月曜日の連載を作ってそれからブログを書いて12時半に置いた。それから昼食の前に夕食を作った。
アスパラガスと豚肉の炒め物、油揚げとワケギのぬた和え、そして白菜とてんぷらで炊いた。納豆は葱のみじん切りを入れて出し醤油で混ぜた。
1時半に出来たので夕食の食材を少しずつ皿に盛り付けて保存食を出して昼ごはんにした。
風呂の湯も入れてある。2時15前に風呂にはいった。
風呂から上がると阪神対ヤクルト戦が始まった。
野球のテレビをつけながら新聞2紙を読んだ。
野球は4時半になるまでに終わった。
4時半からは韓国テレピ(KNテレビ)に切り替えて「明成皇后」のドラマを見た。2時間ドラマ、朝鮮王朝末期で日本やアメリカが国を解放しろと責めてくる手前の時代である。国が滅びていくかもしれない。その中で宮中の内部紛争が描かれている人間関係のドラマである。
景福宮を舞台に繰り広げられる朝鮮王朝末期のドラマである。
景福宮に行くと許可がないと見学できない明成皇后が暗殺された建物を1度見学している。もう何年も前になる。
1995年の夏だった。
京都市中学校外国人教育研究会の教師ら一行との同行取材だったときにこの場所まで見学することができた。明成皇后が暗殺された場所に石碑が立っている。
そしてその場面が絵画で描かれていた。
教師たちはこのあと独立運動の宣言文を読まれたバゴダ公園に行った。独立運動の一様の彫刻レリーフが設置されていた。
日本から来ている教師にここで過ごしているハラボジ(おじいさん)が教師の所に来て「日本の植民地支配を知っているのか」と絡んできてその人から離れるのに大変だったことを覚えている。
そして韓国に入る前に教師たちの入国検査は時間がかかった。私は入国審査を済ませて外で待っているのに1時間ほど待たされた。
韓国は分断国家である。
1人、髭を生やして人相の悪い教師は入国審査のところで長いことそこに留まらせて似顔絵まで書かれたという。
当時はまだ盧泰愚大統領の時代だった。韓国と北朝鮮の軍事境界線の分断国家であることを嫌でも認識しなければならなかった。
あれから数年して一緒に韓国に言った中学教師は体を壊して亡くなられた。
韓国に一所懸命、在日コリアンの人権問題などに日夜取り組まれるのかストレスなのか体調を崩していかれた。
長い間記者生活をしていて多くの人たちに助けられてきたことをまたしみじみと思い出した。
「明成皇后」のドラマを見ていて在りし日を思い出した。
この時私は皆と一緒に関西に戻らずにソウルに留まった。
そして長い間、音信普通だった母親の家族を私は探しあて妹が釜山で健在であったことが分かったので釜山に行き母親の妹、叔母を訪ねていった。母親の様子を知らせて日本にきてぜひ会って欲しいと言った旅だった(叔母はこの後日本に来て54年ぶりに母親と対面した)またソウルに戻ってソウルで行われた在日韓国人教育者大会に参加した。このときは韓国の国会議事堂も見学した。
そして夜は何人かで蚕室の居酒屋に行っていろんな話をしたが今は懐かしい思い出になった。まだ私はまだ50歳だった。もうこのまま仕事が終えてもいいと思っていたが1年間休んだだけでまたもとの職場に戻った。1年間休んでいる時に韓国に旅した時の記憶がよみがえってきた。
あのとき韓国政府機関にいたときに軍事訓練でゴウーとうなりを立てて頭上低く飛行機が飛んでいく。またここで韓半島が分断国家であることを改めて認識していた。日本にいると分からないが韓国に来ると何かの時に分断国家であることを認識してしまう。
そして日本植民地時代の悲劇はまだ終わっていないとことを実感する。
こうしたことを思い出すドラマ「明成皇后」である。
今日も1日が暮れて行く。明日は早起きである。もう休むことにしよう。
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