
真夏の太陽は暑くてカーテンが開けられません。
すだれをすればいいがそれも暗くなって気持ちが暗くなる。それに鳩がベランダに入りやすくなってくる。陰になって鳩の居心地のよい場所になってしまうのですだれもしないことにしている。
今日は京都の現場3時です。2時の特急にのらないといけない。
1時間ほどして京都駅に戻ってくる予定。今日は早い目に身支度をして銀行で済ませないといけない用事がある。
雨が降り出した。8時ごろから降り出した。
外を歩いている人は傘をさしている。
それで私も折りたたみの傘を鞄に入れた。
若いときは京都市の南区の現場もいつも歩いたのにこの頃はこの距離もタクシーを乗るようになった。往復歩くと夜中に足がつって痛くなる。
かかりつけの医師は「これは老いというのです」といわれた。
自分では若いと思っているのにはたと考えるともう70歳に手が届くようになってきた。人生、ここまで生きられるとは思っていなかったのにここまでよく生きた。私は20歳の終りから30歳の半ばまで心の病で苦しんだ。
治癒してこうして健康になってあちらこちらと飛び回っていることが夢みたいである。まさかこんなにこうして健康で生きられたこと。ただ感謝感謝です。
先祖さんが見守ってくれたに違いない。
本家の第1子で生まれた子どもが女の子だった。
ただこれには祖父もがっかりしただろう。分家はもう早くも男児が誕生している。これには祖父の葛藤があっただろう。
しかも私の下に3歳下の妹がいたがその後10年間、母親は体調が悪かったのか子どもが授からなかった。そのため祖父は本家の示しがつかいなと考えて他所で女を作って男児を生ませることだった。これには父親は賛成しなくて反対した。祖父が何人もいた愛人、その整理をしたのが父親だった。それはしたくないと考えて反対した。次の考えは父親のすぐ下の弟の子ども、甥っ子を貰うことにした。それが神さんは母親を助けた。やっと10年目に子どもが授かったが死産だった。この後3年目に弟がやっとできた。
そして故郷は日韓国交正常化に動き出していた。
ここでまた祖父の葛藤があった。
2家族の北朝鮮の支持に祖父の心はおだやかでなかった。
これが原因なのか----。1960年の秋、胃がんで亡くなった。
「運」は分家についていって分家は大阪府内でも有名な財閥になった。
一方、本家はただ会社員をして自営業して食べるだけの生活はしてきたが普通の生活をしてきた。分家とは足元にも及ばない経済格差になった。
これも先祖が決めたことなのだろうか。本家の第1子が女子だったことに運が分かれていったのだろうかとふと、思うときがある。
もうすんでしまったと思うが----。本家の第1子が女の子だったことにどれほど祖父母はがっかりしたのだろうか---と、今またふと思う。
その第1子は大きな経済構築はできなかったが在日同胞の中で取材して記事を書く。これは先祖さんが私に与えた仕事だったのではと思っている。なんのとりえもない私がよくここまできたものだと思っている。
男の子ができない時期が長かった。
父親は「女の子は嫌い」とよく言っていた。
そんな言葉を聞いて育った私、女も1人の人間であると大学ノートによく書いた。これが心の消化となって今日に至っている。
晋陽鄭氏(チンヤンチョンシ)。先祖は昔、栄華をきわめた家系だった。
日本植民地支配で土地を奪われ生きるために先祖は日本に働き口を求めてやってきた。しかし昔の栄華を分家と韓国政府が残してくれた。政府が建てる計画をして財政は分家が支援した。
韓国に行かれることがあれば晋州市に訪問してください。
晋州城と晋州博物館の間に晋陽鄭氏の宗家が復元されている。こんな家に住んでいたのかと偲ばれる。よかったら行く機会があれば晋州城に訪問して下さい。私は1995年4月、韓日報道記者ら15人で韓国を訪問、ソウルから全羅道、慶尚道を訪問した。晋州城は初めて訪れた。かつて先祖が住んでいた家が復元されていたことに驚いた。
けっして自分を卑下しない。またそう思った。日本の歴史が作った在日コリアン、父親の言った言葉をまた確認していた。
<写真は復元されていた先祖の家です。95年4月9日に撮影している>
1枚は晋陽鄭氏の家の門まえでの私、もう1枚は復元された家です。
すだれをすればいいがそれも暗くなって気持ちが暗くなる。それに鳩がベランダに入りやすくなってくる。陰になって鳩の居心地のよい場所になってしまうのですだれもしないことにしている。
今日は京都の現場3時です。2時の特急にのらないといけない。
1時間ほどして京都駅に戻ってくる予定。今日は早い目に身支度をして銀行で済ませないといけない用事がある。
雨が降り出した。8時ごろから降り出した。
外を歩いている人は傘をさしている。
それで私も折りたたみの傘を鞄に入れた。
若いときは京都市の南区の現場もいつも歩いたのにこの頃はこの距離もタクシーを乗るようになった。往復歩くと夜中に足がつって痛くなる。
かかりつけの医師は「これは老いというのです」といわれた。
自分では若いと思っているのにはたと考えるともう70歳に手が届くようになってきた。人生、ここまで生きられるとは思っていなかったのにここまでよく生きた。私は20歳の終りから30歳の半ばまで心の病で苦しんだ。
治癒してこうして健康になってあちらこちらと飛び回っていることが夢みたいである。まさかこんなにこうして健康で生きられたこと。ただ感謝感謝です。
先祖さんが見守ってくれたに違いない。
本家の第1子で生まれた子どもが女の子だった。
ただこれには祖父もがっかりしただろう。分家はもう早くも男児が誕生している。これには祖父の葛藤があっただろう。
しかも私の下に3歳下の妹がいたがその後10年間、母親は体調が悪かったのか子どもが授からなかった。そのため祖父は本家の示しがつかいなと考えて他所で女を作って男児を生ませることだった。これには父親は賛成しなくて反対した。祖父が何人もいた愛人、その整理をしたのが父親だった。それはしたくないと考えて反対した。次の考えは父親のすぐ下の弟の子ども、甥っ子を貰うことにした。それが神さんは母親を助けた。やっと10年目に子どもが授かったが死産だった。この後3年目に弟がやっとできた。
そして故郷は日韓国交正常化に動き出していた。
ここでまた祖父の葛藤があった。
2家族の北朝鮮の支持に祖父の心はおだやかでなかった。
これが原因なのか----。1960年の秋、胃がんで亡くなった。
「運」は分家についていって分家は大阪府内でも有名な財閥になった。
一方、本家はただ会社員をして自営業して食べるだけの生活はしてきたが普通の生活をしてきた。分家とは足元にも及ばない経済格差になった。
これも先祖が決めたことなのだろうか。本家の第1子が女子だったことに運が分かれていったのだろうかとふと、思うときがある。
もうすんでしまったと思うが----。本家の第1子が女の子だったことにどれほど祖父母はがっかりしたのだろうか---と、今またふと思う。
その第1子は大きな経済構築はできなかったが在日同胞の中で取材して記事を書く。これは先祖さんが私に与えた仕事だったのではと思っている。なんのとりえもない私がよくここまできたものだと思っている。
男の子ができない時期が長かった。
父親は「女の子は嫌い」とよく言っていた。
そんな言葉を聞いて育った私、女も1人の人間であると大学ノートによく書いた。これが心の消化となって今日に至っている。
晋陽鄭氏(チンヤンチョンシ)。先祖は昔、栄華をきわめた家系だった。
日本植民地支配で土地を奪われ生きるために先祖は日本に働き口を求めてやってきた。しかし昔の栄華を分家と韓国政府が残してくれた。政府が建てる計画をして財政は分家が支援した。
韓国に行かれることがあれば晋州市に訪問してください。
晋州城と晋州博物館の間に晋陽鄭氏の宗家が復元されている。こんな家に住んでいたのかと偲ばれる。よかったら行く機会があれば晋州城に訪問して下さい。私は1995年4月、韓日報道記者ら15人で韓国を訪問、ソウルから全羅道、慶尚道を訪問した。晋州城は初めて訪れた。かつて先祖が住んでいた家が復元されていたことに驚いた。
けっして自分を卑下しない。またそう思った。日本の歴史が作った在日コリアン、父親の言った言葉をまた確認していた。
<写真は復元されていた先祖の家です。95年4月9日に撮影している>
1枚は晋陽鄭氏の家の門まえでの私、もう1枚は復元された家です。

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