朝6時におきるとひんやりしている。外気に秋が少しずつ近づいている気配である。朝は冷房を入れないでいたが7時半頃になると太陽が昇りだしてきた。
暑い日差しである。
冷房を入れた。
そして夏休みも終盤に入って子どもたちが宿題にあわてている様子が浮かんでくる。私は子どもの頃の親父を思い出してしまう。
算数がなかなか理解できない。父親はとうとう怒って私には教えてくれなくなった。しかし妹は難題でも出来たのでできのいい妹には教えていた。
近眼で黒板が見えなかったので未だに算数の授業は損をしたと思っている。
漢字の書き取りのテストも端っこは黒板が光って見えなくて書けるのに書けなかった。これも未だに損をしたと思っている。
妹は私より近眼が強かったのに何故勉強ができたのか。
大人になって聞くと授業中、先生の話されることを全部ノートに取ったという。
なるほど。耳で聞いた授業だったのか。
やっぱり私は妹よりアホやったのかと思ったことがあった。そんな小学生の頭の知恵で先生の言っていることを全部ノートに書き取るという知恵さえなかった。やっぱり頭は使いようかと悟った。
夏休みも終盤になると父親は夏休みの宿題のワークブックをもってこさせて宿題ができていないことに怒っていた。そして分からないところの算数はしていなかった。私に教えようとするが何度聞いてものみ込めない私に父親は怒って匙を投げた。
夏休みが終盤になると毎年父親の顔が浮かんでくる。
そして妹は出来のいい子どもで私は出来の悪い子どもになった。大人になってもずっとそうだった。
そこに輪をかけて「女は嫌い。女の子は嫌い」と言っていたので父親が大嫌いだった。そのはけ口を大学ノートに書いているうちに書くことが好きになって書くことが生業になった。
あの時、父親が優しくて根負けしないで私に算数を優しく教えてくれていたらおそらく大学ノートに父親の悪口を書かなかっただろう。
それが出来が悪くて父親から見放されことで父親に対する不満をノートに書いては心の消化をしていた。まさかこれが仕事につながるとは子どものころは思っていなかった。人生とはわからない。
出来の良かった妹は勉強、勉強ばかりで世の中のことをそう対して知らなかった。親は妹を溺愛した。溺愛は自分で生きていく力、はいあがるツボを知らずに育った。勉強ができたので上ばかりのレベルに目がいく。しかし結婚は学歴だけでは生活ができない。
そんなことが長年続いた。
たまには妹のことを思い出してやらないといけないと思って少し書いたがやっぱり辛い。妹が亡くなってもう5年の年月が経とうとしている。
妹が家族の不幸を全部とっていったのかと思うとたまには妹のことを思い出してやらないといけないがやっぱり辛すぎる。
出来の悪い子と出来のいい子との比較、私は子どものころから体験したので人間、勉強ばかりではない。生きていく知恵が大切ということはいつのまにか私に身についた。また結婚してずいぶん学んだ。父親は子どもを籠の鳥みたいにして表に出さなかった。これは私の反面教師になった。
それで息子が沖縄の大学に行くと言ったときにもとめなかった。
これが私の大きな誤算だったということは父親が亡くなってから気がついた。父親は生前「息子は大学を卒業したら奈良に戻すように」と何度も言っていた。
私は父親に縛られて括られて育ったので子どもは自由に泳がせた。
それが父親は私のこと、女の子は嫌いと言いながらやっぱりわが子、出来の悪い子どもでもわが子、私の老後を考えてくれていたことは父親が亡くなってやっと気がついた。これも後のまつりである。
夏休みが終盤になってきて在りし日の子どもの頃を思い出した。
孫は今頃あわてて宿題をしているのだろうか。
それとも計画的にきちんと毎日してきたので今は快適に過ごしているのだろうか。先日、電話をすると嫁の実家、福岡に帰省していると言っていた。
もう沖縄に戻っているだろう。
暑い沖縄に戻っているだろう。
もう1つ夏になると朝顔が屋根近くまで伸びていた向かいの家のおばちゃんが毎日何回か家の前の道を打ち水していたことを思い出す。
あの水は洗濯をした残り水、または風呂の残り湯だったのか。
私もバケツに水を入れて打ち水をよくしていた。
そのうちにホースで水撒きしていた。お向かいのおばちゃん。なんともったいない贅沢なことをしているのだろうと思っていただろう。
昔の人だったからけっして贅沢をしない。そして無駄もしない生活をしていたのだろうと大人になって分かってきた。夏休みも終盤になってこんなことを思い出した。今日は大阪に2時過ぎに入らないといけない。
少し休憩して身支度をしよう。
暑い日差しである。
冷房を入れた。
そして夏休みも終盤に入って子どもたちが宿題にあわてている様子が浮かんでくる。私は子どもの頃の親父を思い出してしまう。
算数がなかなか理解できない。父親はとうとう怒って私には教えてくれなくなった。しかし妹は難題でも出来たのでできのいい妹には教えていた。
近眼で黒板が見えなかったので未だに算数の授業は損をしたと思っている。
漢字の書き取りのテストも端っこは黒板が光って見えなくて書けるのに書けなかった。これも未だに損をしたと思っている。
妹は私より近眼が強かったのに何故勉強ができたのか。
大人になって聞くと授業中、先生の話されることを全部ノートに取ったという。
なるほど。耳で聞いた授業だったのか。
やっぱり私は妹よりアホやったのかと思ったことがあった。そんな小学生の頭の知恵で先生の言っていることを全部ノートに書き取るという知恵さえなかった。やっぱり頭は使いようかと悟った。
夏休みも終盤になると父親は夏休みの宿題のワークブックをもってこさせて宿題ができていないことに怒っていた。そして分からないところの算数はしていなかった。私に教えようとするが何度聞いてものみ込めない私に父親は怒って匙を投げた。
夏休みが終盤になると毎年父親の顔が浮かんでくる。
そして妹は出来のいい子どもで私は出来の悪い子どもになった。大人になってもずっとそうだった。
そこに輪をかけて「女は嫌い。女の子は嫌い」と言っていたので父親が大嫌いだった。そのはけ口を大学ノートに書いているうちに書くことが好きになって書くことが生業になった。
あの時、父親が優しくて根負けしないで私に算数を優しく教えてくれていたらおそらく大学ノートに父親の悪口を書かなかっただろう。
それが出来が悪くて父親から見放されことで父親に対する不満をノートに書いては心の消化をしていた。まさかこれが仕事につながるとは子どものころは思っていなかった。人生とはわからない。
出来の良かった妹は勉強、勉強ばかりで世の中のことをそう対して知らなかった。親は妹を溺愛した。溺愛は自分で生きていく力、はいあがるツボを知らずに育った。勉強ができたので上ばかりのレベルに目がいく。しかし結婚は学歴だけでは生活ができない。
そんなことが長年続いた。
たまには妹のことを思い出してやらないといけないと思って少し書いたがやっぱり辛い。妹が亡くなってもう5年の年月が経とうとしている。
妹が家族の不幸を全部とっていったのかと思うとたまには妹のことを思い出してやらないといけないがやっぱり辛すぎる。
出来の悪い子と出来のいい子との比較、私は子どものころから体験したので人間、勉強ばかりではない。生きていく知恵が大切ということはいつのまにか私に身についた。また結婚してずいぶん学んだ。父親は子どもを籠の鳥みたいにして表に出さなかった。これは私の反面教師になった。
それで息子が沖縄の大学に行くと言ったときにもとめなかった。
これが私の大きな誤算だったということは父親が亡くなってから気がついた。父親は生前「息子は大学を卒業したら奈良に戻すように」と何度も言っていた。
私は父親に縛られて括られて育ったので子どもは自由に泳がせた。
それが父親は私のこと、女の子は嫌いと言いながらやっぱりわが子、出来の悪い子どもでもわが子、私の老後を考えてくれていたことは父親が亡くなってやっと気がついた。これも後のまつりである。
夏休みが終盤になってきて在りし日の子どもの頃を思い出した。
孫は今頃あわてて宿題をしているのだろうか。
それとも計画的にきちんと毎日してきたので今は快適に過ごしているのだろうか。先日、電話をすると嫁の実家、福岡に帰省していると言っていた。
もう沖縄に戻っているだろう。
暑い沖縄に戻っているだろう。
もう1つ夏になると朝顔が屋根近くまで伸びていた向かいの家のおばちゃんが毎日何回か家の前の道を打ち水していたことを思い出す。
あの水は洗濯をした残り水、または風呂の残り湯だったのか。
私もバケツに水を入れて打ち水をよくしていた。
そのうちにホースで水撒きしていた。お向かいのおばちゃん。なんともったいない贅沢なことをしているのだろうと思っていただろう。
昔の人だったからけっして贅沢をしない。そして無駄もしない生活をしていたのだろうと大人になって分かってきた。夏休みも終盤になってこんなことを思い出した。今日は大阪に2時過ぎに入らないといけない。
少し休憩して身支度をしよう。
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