何日かまえから26日がくればブログを初めて1年になると気がついた。
それから忙しくて忘れていることもあったが今、昨日の現場の記事を作り終えて気がついた。1年になる。
最初、ブログの書き込みに「えらいこになった」と思った。うれしい反面、責任を感じて書き込みをしなければならないと自分で律することをしなければと思った。「えらいことになった」と思ったとき、なるべくなら1日1つは書き込みをしていこう。続けていけるかどうかわからないができるだけ努力をしてみようと思った。
私の書き込みのネタはただありのままの生活雑感にすることにした。
私は家に帰ると主婦だが家で原稿を作成したりするのでいつも仕事が頭にあって24時間エンドレスに仕事と付き合っている。切れることがないのでこれもありのままの生活と受け止めて雑感にしていこうと思った。
そしてジャーナリスト・ネットの連載もあるができるところまでしてみようと思った。
私はそんな難しい学識はもちあわせていないのでただ日々の雑感にした。
最初のアクセスは10何件だったがやがて20何件になり40数件のアクセスで多くの人が見ていると実感した。
そして昨年半ばから50数件になり近頃は多いときは70件を越えることもしばしばである。ありがたいと思っている。みんな多用なのに見て下さっていることはうれしいです。
時にはコメントも寄せて下さって感謝。感激。雨。あられである。
日々の雑感、これといった特徴もない文章だが書き込みしているとあれこれと私の日々のストレスが書き込みになっている。反省しているもののこれも私の日常と考えて日々のことを綴っている。
専業主婦をした15年、そしてそれから仕事を持つ女性になった。
1980年代は「飛びたい」「飛ぶ女性」と言うキャッチフレーズが流行したが私は「大地に足をつけて歩む」というコツコツタイプの人生の方が似合っていると思ってけっして飛躍もせずただひたすらコツコツと書くことを続けてきた。
地方紙の先輩、今は亡きSさんによく言われた。
「新聞記者は7年してやっと1人前になる。2・3年そこらで記者面するな」と言われた。なるほどこの言葉が肝に銘じた。
私は雑誌記者になりたてのころまず3年を目処にがんばろうと考えた。そして5年、そして7年、さらに10年という年月でまわりから記者の実績という言葉を言われるようになった。でもまだまだ未熟なところがいっぱいだった。
現在の職場で関西を現場に人権問題も民族問題も日韓問題などあらゆる現場をとおして少しずつ先輩たちが苦労して現場の足場を築いてこられたことがわかった。
さらに人生の「縁」の大切さも感じた。
地方紙で編集局次長をしておられたKさん。職場を去っていかれた。まだ私は雑誌記者の駆け出しだった。どこかで会うことはあうのだろうかと思い、もう会うことはないかもしれないと思っていた。
それが在日韓国人の新聞記者になって年に何回かお会いすることになって「人生の縁」の不思議さを見るようだった。
他にいろいろ「人生の縁」の不思議さを見ることも多々あったがk氏との30年ほどの前の出会い、専業主婦をしていて投稿魔だった私の下手な原稿を整理しておられた。それからまた30年近く経てジャーナリスト・ネットの仲間に誘ってもらえるとは夢にも思っていなかった。下手な投稿魔だったのに最初は原稿書くことに躊躇したが慣れてくると自分の連載の発表の場にまたコツコツと1つ1つと進めていった。これも本当に不思議な縁でつながれている。
またジャーナリスト・ネットで仲間になったK氏、同じ年齢も驚いたが私が高校時代片思いをして一言も口を聞いてもらえなかったKさんと同じ中学だったことに人生の縁を感じた。
何年も何年も経てまたもとのところに帰っててきての巡り合わせに人間がしようとしてもできない自然の摂理に驚かされる。
これも年を重ねただけ自分の「縁」がついてくる。
私はもともと子どものころから友人を作るのは苦手だったので浅く広くになった。深い付き合いになると私の面白くない人種にときどき不愉快になることもあった。とことん不愉快になると私の心はいつのまにか閉ざしたままになってくらお世辞をいわれても開かない。
ただ普通につかずはなれずに付き合うこと、これが友人として長く続けられることも長い年月の中でわかった。
なんの特徴もない私がブログの書き込みが毎日1回は書き込みできるのだろうかと懸念もしたが雑感、日常生活にたぶん「ふんふん」と理解して下さる人もいるのでしょう。どのときにアクセスが多かったといえば夕食の献立を書いたときにけっこうアクセスが多い。私の家の質素な家庭料理を1品でも参考にして自分流にアレンジしていてくれているのかもしれないと思って我が家の冷蔵庫の中身がわかる書き込みになった。
1年間、夫は黙ってみていたわけではない。
寂しがりやの夫はプロ野球の阪神戦が始まると「こっちで一緒にテレビみよう。もうパソコンから離れて」と子供みたいなことも平気で言っていた。
私はそのたびに「うるさいな。もう」と言っていた。
息子にはこんな言葉、一言もいったことがないのに夫にはよく言った。
そんな夫を横目でみながらのプログの書き込みだったが1年間、なんとかおよそ毎日書き込みをできた。スタッフの皆さんそして見て下さった多くのみなさんに感謝を申し上げます。
書き込みができなかったときはパソコンが壊れたときだった。そして8月、熱中症で体調を壊した時だった。およそ毎日の書き込みを続けた。これといった特徴はないが主婦であり働く女性としての日々の雑感からなにか感じることがあれば幸いです。
スタッフそして多くの皆さん、心から感謝申し上げます。
「ありがとうございます。カムサハムニダ(感謝します)、コマワヨ(ありがとう)」
ト、インニョンガン、センファル、スッシッシミンダ、チャルブタカミンダ(また1年間生活をかいていきます。よろしくおねがいします)」
1年間書きこんだ今日は晴れている。冬の小春日和である。
私の心のようである。春は遠からじ、もうそこまできています。
桜の季節になれば今度はまた違うところの写真をとりたいものです。
今後ともよろしくお願いします。
とりあえず今日で1年のブログの感謝をお知らせしました。
それから忙しくて忘れていることもあったが今、昨日の現場の記事を作り終えて気がついた。1年になる。
最初、ブログの書き込みに「えらいこになった」と思った。うれしい反面、責任を感じて書き込みをしなければならないと自分で律することをしなければと思った。「えらいことになった」と思ったとき、なるべくなら1日1つは書き込みをしていこう。続けていけるかどうかわからないができるだけ努力をしてみようと思った。
私の書き込みのネタはただありのままの生活雑感にすることにした。
私は家に帰ると主婦だが家で原稿を作成したりするのでいつも仕事が頭にあって24時間エンドレスに仕事と付き合っている。切れることがないのでこれもありのままの生活と受け止めて雑感にしていこうと思った。
そしてジャーナリスト・ネットの連載もあるができるところまでしてみようと思った。
私はそんな難しい学識はもちあわせていないのでただ日々の雑感にした。
最初のアクセスは10何件だったがやがて20何件になり40数件のアクセスで多くの人が見ていると実感した。
そして昨年半ばから50数件になり近頃は多いときは70件を越えることもしばしばである。ありがたいと思っている。みんな多用なのに見て下さっていることはうれしいです。
時にはコメントも寄せて下さって感謝。感激。雨。あられである。
日々の雑感、これといった特徴もない文章だが書き込みしているとあれこれと私の日々のストレスが書き込みになっている。反省しているもののこれも私の日常と考えて日々のことを綴っている。
専業主婦をした15年、そしてそれから仕事を持つ女性になった。
1980年代は「飛びたい」「飛ぶ女性」と言うキャッチフレーズが流行したが私は「大地に足をつけて歩む」というコツコツタイプの人生の方が似合っていると思ってけっして飛躍もせずただひたすらコツコツと書くことを続けてきた。
地方紙の先輩、今は亡きSさんによく言われた。
「新聞記者は7年してやっと1人前になる。2・3年そこらで記者面するな」と言われた。なるほどこの言葉が肝に銘じた。
私は雑誌記者になりたてのころまず3年を目処にがんばろうと考えた。そして5年、そして7年、さらに10年という年月でまわりから記者の実績という言葉を言われるようになった。でもまだまだ未熟なところがいっぱいだった。
現在の職場で関西を現場に人権問題も民族問題も日韓問題などあらゆる現場をとおして少しずつ先輩たちが苦労して現場の足場を築いてこられたことがわかった。
さらに人生の「縁」の大切さも感じた。
地方紙で編集局次長をしておられたKさん。職場を去っていかれた。まだ私は雑誌記者の駆け出しだった。どこかで会うことはあうのだろうかと思い、もう会うことはないかもしれないと思っていた。
それが在日韓国人の新聞記者になって年に何回かお会いすることになって「人生の縁」の不思議さを見るようだった。
他にいろいろ「人生の縁」の不思議さを見ることも多々あったがk氏との30年ほどの前の出会い、専業主婦をしていて投稿魔だった私の下手な原稿を整理しておられた。それからまた30年近く経てジャーナリスト・ネットの仲間に誘ってもらえるとは夢にも思っていなかった。下手な投稿魔だったのに最初は原稿書くことに躊躇したが慣れてくると自分の連載の発表の場にまたコツコツと1つ1つと進めていった。これも本当に不思議な縁でつながれている。
またジャーナリスト・ネットで仲間になったK氏、同じ年齢も驚いたが私が高校時代片思いをして一言も口を聞いてもらえなかったKさんと同じ中学だったことに人生の縁を感じた。
何年も何年も経てまたもとのところに帰っててきての巡り合わせに人間がしようとしてもできない自然の摂理に驚かされる。
これも年を重ねただけ自分の「縁」がついてくる。
私はもともと子どものころから友人を作るのは苦手だったので浅く広くになった。深い付き合いになると私の面白くない人種にときどき不愉快になることもあった。とことん不愉快になると私の心はいつのまにか閉ざしたままになってくらお世辞をいわれても開かない。
ただ普通につかずはなれずに付き合うこと、これが友人として長く続けられることも長い年月の中でわかった。
なんの特徴もない私がブログの書き込みが毎日1回は書き込みできるのだろうかと懸念もしたが雑感、日常生活にたぶん「ふんふん」と理解して下さる人もいるのでしょう。どのときにアクセスが多かったといえば夕食の献立を書いたときにけっこうアクセスが多い。私の家の質素な家庭料理を1品でも参考にして自分流にアレンジしていてくれているのかもしれないと思って我が家の冷蔵庫の中身がわかる書き込みになった。
1年間、夫は黙ってみていたわけではない。
寂しがりやの夫はプロ野球の阪神戦が始まると「こっちで一緒にテレビみよう。もうパソコンから離れて」と子供みたいなことも平気で言っていた。
私はそのたびに「うるさいな。もう」と言っていた。
息子にはこんな言葉、一言もいったことがないのに夫にはよく言った。
そんな夫を横目でみながらのプログの書き込みだったが1年間、なんとかおよそ毎日書き込みをできた。スタッフの皆さんそして見て下さった多くのみなさんに感謝を申し上げます。
書き込みができなかったときはパソコンが壊れたときだった。そして8月、熱中症で体調を壊した時だった。およそ毎日の書き込みを続けた。これといった特徴はないが主婦であり働く女性としての日々の雑感からなにか感じることがあれば幸いです。
スタッフそして多くの皆さん、心から感謝申し上げます。
「ありがとうございます。カムサハムニダ(感謝します)、コマワヨ(ありがとう)」
ト、インニョンガン、センファル、スッシッシミンダ、チャルブタカミンダ(また1年間生活をかいていきます。よろしくおねがいします)」
1年間書きこんだ今日は晴れている。冬の小春日和である。
私の心のようである。春は遠からじ、もうそこまできています。
桜の季節になれば今度はまた違うところの写真をとりたいものです。
今後ともよろしくお願いします。
とりあえず今日で1年のブログの感謝をお知らせしました。
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