何も知らん顔して孫に電話しようかなと思ったが私はまだできない。
ただ夫の寂しそうな顔を見て私のいないときに電話をかけてみたらと言って今日は大久保の仕事の現場に向かった。雨は激しく降っていた。
いきつけの喫茶店で新聞を読み終わって息子の自宅に電話すると嫁がでた。「孫からおじいちゃんに電話をしてあげて。私は外にでているから」と言って電話をきった。そして夫に電話すると私が出た後に息子に電話をして孫に話していたようだ。携帯に電話すると買物に子どもを連れてきているようだった。
これでいいと思った。
私はまだしばらく時間がかかる。まだできない。
さて今日はウトロの現場に入った。
同じ電車だったのだろうか。改札を出ると声をかけてこられた人がいた。
奈良で奈良町づくりの活動している女性である。
前にも名刺を渡して挨拶しているのに在日韓国人のことはまったく関心がないのか顔を覚えていても私が何をしているのかまったく記憶にない。
まあ人間、こんなことはよくあることなのでまあいいかと思った。
そして仕事の内容を言うと「本名で仕事をしているのですか」と聞く。私はそのまえに仕事の内容を言って在日韓国人の中で記者をしていると話しているのに「本名で仕事をしているのですか」と聞く。
私はこんな何も在日コリアンのことを分からない人が在日コリアンのことを知ったかぶりしてウトロの集会に来るのかと思うと心の中で呆れていた。奈良県の婦人たちの外国人問題について活動したふりをまた見せつけられた。
何度も何度もこんな女性を見てきたのでそうショックを受けることはない。しかし奈良県内の在日コリアンに対する認識の低さは私が月刊奈良で記者していたときとそう変わっていない。奈良県の在日コリアンに取り組む学習の足りなさそして認識の足りなさに何も進歩していないことを実感した。
「本名で仕事をしているのですか」の質問に私は「当たり前でしょう」と言って黙った。大阪だったらけっしてこんな言葉はいわない。そして彼女は言葉を続けた。
「日本は朝鮮でいっぱい悪いことしたのだから」というので私は追い討ちをかけてわざと言った。「私の家は朝鮮総督府に土地を取られました。牛の鼻輪が300あったそうです」と言ったら彼女は「私は朝鮮から引き上げてきたのです」と言ったので「そうですか。それは大変だったですね」と言った。そしたら今度は自分の活動の現況をいっぱい話した。
しかしこの人は急いでおられる。1時から始まるのに1時7・8分前だった。
私は会合の内容が分かっているので5分ぐらい遅れてもいいと思ったので「どうぞお先に」といったら急いで駆けていかれた。レンコートの裾が歩いたハネで雨でぬれていた。
会場に行くと講師が遅れていたので1時15分から始まった。
少し待つことになった。
そしてそしてある男性が話してくれた。
北に帰国した身内が脱北して今ソウルで暮らしているという。
こんな身近にこんな現実があるのか。また驚いた。
はたしてその奈良で活動する人はこんな現実を知っているのだろうか。
奈良の活性化も大事だろう。しかし奈良に多くの外国人が来ている。多文化・多民族共生とはよく言われているが日本植民地時代にわたってきた在日コリアンの人生の生き様、本名を名のって何も偉くない。名のって当たり前なのである。名のるまでのプロセスをいっぱいのりこえてきたのである。
本名なのったからと言ってえらくない。当たり前である。この当たり前のことを知らない奈良の人たちはまだまだ1980年代前半の意識のままである。
今日仕事から帰り文房具屋に寄って取材資料をFAXで送信しやすいようにコピーを取りに言った。そしたら私の後ろを通る時に「すみません」と言った白人の外国人の子どもが通っていった。お母さんと一緒のようでお母さんに話すときは母国語なのに私には日本語を話した。
そしてコピーをとる私をじっと見ていた。なかなかかわいらしい美人である。
近くにいたので「どこで日本語を覚えたの」と聞くと「日本で」という。そして言葉を続けて「佐保小学校に行っています」と話した。それで「もう日本に来て何年になるの」と聞くと「3年」と言った。私は「子どもさんのほうがお母さんより日本語が上手になったでしょう」と言ったら頷いていた。
「アメリカから来たのですか」と聞くと「ハンガリーです」と言った。
私は「そうですか」言って「もう帰国されるのが近いのですか」と聞くと「この8月に帰ります」と言った。大体海外赴任は3年で帰国する。長くても5年までだから。そして私はその子に「がんばってね。お体に気をつけてね」といったら「はい」と言ってお母さんと一緒にレジに行かれた。
そうか。ハンバリーの人も奈良にきておられるのか。
それほど外国人就労者が多いということである。
在日コリアンが歩んだ道をその子どもたちが歩いている。日本語を上手いことはうれしいがこの子たちには日本はどんな思いで見ていただろうか。
やはり外国人が住み易い奈良県にするなら在日コリアンの歩んだ道、様々な生き方をしていることを知ってもらいたい。
本名をなのったから偉いとはかぎらない。通名を名のる人、使い分けをする人、本名を名のっている人、様々な生き方が在日コリアンであってだれが偉いとかそんな言葉はいらない。通名を名のる在日もいる日本社会の現実に目を向けて何らかの形で外国人が住み易い町づくりをしてほしい。
いくら奈良の町が昔と違って活性化に向かっているといわれているが人々の心の中はちっとも変わっていない。月刊奈良で雑誌記者していた1980年代の初めと何も変わっていない。
「本名を名のって偉いね」と言う言葉がいかに時代遅れかということを認識してもらいたい。こんな人に限って韓流の俳優に夢中になっている。
まだまだ外国人意識の希薄さを発見してもの悲しくなった。
ただ夫の寂しそうな顔を見て私のいないときに電話をかけてみたらと言って今日は大久保の仕事の現場に向かった。雨は激しく降っていた。
いきつけの喫茶店で新聞を読み終わって息子の自宅に電話すると嫁がでた。「孫からおじいちゃんに電話をしてあげて。私は外にでているから」と言って電話をきった。そして夫に電話すると私が出た後に息子に電話をして孫に話していたようだ。携帯に電話すると買物に子どもを連れてきているようだった。
これでいいと思った。
私はまだしばらく時間がかかる。まだできない。
さて今日はウトロの現場に入った。
同じ電車だったのだろうか。改札を出ると声をかけてこられた人がいた。
奈良で奈良町づくりの活動している女性である。
前にも名刺を渡して挨拶しているのに在日韓国人のことはまったく関心がないのか顔を覚えていても私が何をしているのかまったく記憶にない。
まあ人間、こんなことはよくあることなのでまあいいかと思った。
そして仕事の内容を言うと「本名で仕事をしているのですか」と聞く。私はそのまえに仕事の内容を言って在日韓国人の中で記者をしていると話しているのに「本名で仕事をしているのですか」と聞く。
私はこんな何も在日コリアンのことを分からない人が在日コリアンのことを知ったかぶりしてウトロの集会に来るのかと思うと心の中で呆れていた。奈良県の婦人たちの外国人問題について活動したふりをまた見せつけられた。
何度も何度もこんな女性を見てきたのでそうショックを受けることはない。しかし奈良県内の在日コリアンに対する認識の低さは私が月刊奈良で記者していたときとそう変わっていない。奈良県の在日コリアンに取り組む学習の足りなさそして認識の足りなさに何も進歩していないことを実感した。
「本名で仕事をしているのですか」の質問に私は「当たり前でしょう」と言って黙った。大阪だったらけっしてこんな言葉はいわない。そして彼女は言葉を続けた。
「日本は朝鮮でいっぱい悪いことしたのだから」というので私は追い討ちをかけてわざと言った。「私の家は朝鮮総督府に土地を取られました。牛の鼻輪が300あったそうです」と言ったら彼女は「私は朝鮮から引き上げてきたのです」と言ったので「そうですか。それは大変だったですね」と言った。そしたら今度は自分の活動の現況をいっぱい話した。
しかしこの人は急いでおられる。1時から始まるのに1時7・8分前だった。
私は会合の内容が分かっているので5分ぐらい遅れてもいいと思ったので「どうぞお先に」といったら急いで駆けていかれた。レンコートの裾が歩いたハネで雨でぬれていた。
会場に行くと講師が遅れていたので1時15分から始まった。
少し待つことになった。
そしてそしてある男性が話してくれた。
北に帰国した身内が脱北して今ソウルで暮らしているという。
こんな身近にこんな現実があるのか。また驚いた。
はたしてその奈良で活動する人はこんな現実を知っているのだろうか。
奈良の活性化も大事だろう。しかし奈良に多くの外国人が来ている。多文化・多民族共生とはよく言われているが日本植民地時代にわたってきた在日コリアンの人生の生き様、本名を名のって何も偉くない。名のって当たり前なのである。名のるまでのプロセスをいっぱいのりこえてきたのである。
本名なのったからと言ってえらくない。当たり前である。この当たり前のことを知らない奈良の人たちはまだまだ1980年代前半の意識のままである。
今日仕事から帰り文房具屋に寄って取材資料をFAXで送信しやすいようにコピーを取りに言った。そしたら私の後ろを通る時に「すみません」と言った白人の外国人の子どもが通っていった。お母さんと一緒のようでお母さんに話すときは母国語なのに私には日本語を話した。
そしてコピーをとる私をじっと見ていた。なかなかかわいらしい美人である。
近くにいたので「どこで日本語を覚えたの」と聞くと「日本で」という。そして言葉を続けて「佐保小学校に行っています」と話した。それで「もう日本に来て何年になるの」と聞くと「3年」と言った。私は「子どもさんのほうがお母さんより日本語が上手になったでしょう」と言ったら頷いていた。
「アメリカから来たのですか」と聞くと「ハンガリーです」と言った。
私は「そうですか」言って「もう帰国されるのが近いのですか」と聞くと「この8月に帰ります」と言った。大体海外赴任は3年で帰国する。長くても5年までだから。そして私はその子に「がんばってね。お体に気をつけてね」といったら「はい」と言ってお母さんと一緒にレジに行かれた。
そうか。ハンバリーの人も奈良にきておられるのか。
それほど外国人就労者が多いということである。
在日コリアンが歩んだ道をその子どもたちが歩いている。日本語を上手いことはうれしいがこの子たちには日本はどんな思いで見ていただろうか。
やはり外国人が住み易い奈良県にするなら在日コリアンの歩んだ道、様々な生き方をしていることを知ってもらいたい。
本名をなのったから偉いとはかぎらない。通名を名のる人、使い分けをする人、本名を名のっている人、様々な生き方が在日コリアンであってだれが偉いとかそんな言葉はいらない。通名を名のる在日もいる日本社会の現実に目を向けて何らかの形で外国人が住み易い町づくりをしてほしい。
いくら奈良の町が昔と違って活性化に向かっているといわれているが人々の心の中はちっとも変わっていない。月刊奈良で雑誌記者していた1980年代の初めと何も変わっていない。
「本名を名のって偉いね」と言う言葉がいかに時代遅れかということを認識してもらいたい。こんな人に限って韓流の俳優に夢中になっている。
まだまだ外国人意識の希薄さを発見してもの悲しくなった。
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