鄭容順の直言!

日頃気が付いたこと徒然に。

今日は27日日曜日、朝から雪がちらついている。

2008-01-27 15:24:42 | 直言!
そして知事選である。なにがなんだわからない。混沌とした中の選挙のように思う。
雪混じりなのに朝は太陽が出ていた。不思議な天気だなとおもっていたら11時過ぎてから細かい雪がちらついた。まさか積るとは思わないが冬の景色である。
昨日の新聞記事に書いてあった。
春の選抜高校野球、慶応高校が選抜された。そして力道山の孫さん、田村圭投手が出場する。このニュースでテレビはニュースで取りあげていた。
夕食の支度をしていたので見ようとしたら次のニュースに変っていた。そして1月26日(金)に産経新聞で掲載されていた。
力道山が亡くなって何年になるのだろうか。
私が高校卒業してOL生活していた1963年にはまだ街頭テレビで力道山の試合に人だかりになっていた。力道山の資料を検索するとやはり高校を卒業した1963年12月に不慮の事故で亡くなっている。
今もし力道山が生きていれば朝鮮半島の南北統一に寄与しただろうかと思ってしまう。
没後44年過ぎて孫さんが高校野球に出てこられる。力道山が天から見守ってきていよいよ出番だということで引っ張り出してきたのだろうか。没後約半世紀、力道山の血はつながれていた。力道山が1世なら3世になるのだろうか。時代はすぎても連綿とその子孫はこの日本で生きてきた。
力道山の故郷は現在の北朝鮮の威鏡南道である。本名は金信洛という。ずっと朝鮮半島出身をまわりに隠していた。
相撲界では差別の壁に阻まれて1950年、相撲をやめてプロレスラーに転向するとき台所で自分で髷を切ったということをどこかの書物で読んだ。長崎県の百田家の養子になって日本人として生きたが韓国が連れてきたプロレスラーもいた。ずっと日本語を使っていたが大木林太郎に一回だけ韓国語を話したという。その時大木林太郎は驚いたという。これもどこかの書物に書いていた。
自分の出自を隠し通して生きることはつらかっただろうな。
それよりも差別されるほうが怖かったのだろうか。
資料には事故の顛末は女性と話していた力道山の横を通り接触してことでもめたと書いてある。私が人づてに聞いたのは力道山と同じクラブに居合わせた暴力団関係者の人が大きい声で話す力道山グループに面白くなくて「騒がしい」と言ったことが事件になった。そして後ほどお手合わせをしてそれで終わったという。さてその「お手合わせ」と言う言葉が私は知らなかった。知らないでその話を聞いていてしばらくしてから「お手合わせてなんですか」と聞くと仲直りしたというがそのお手合わせの話を聞いて耳をふさぎたくなった。掟をきいて聞くに絶えられなかった。現実にこんなことがあるのかと寒気がした話だった。
それから力道山というとそのイメージがつきまとっていた。
プロレスも興行事業、いろんな人のしがらみの中で事業がなりたっている。平凡に普通に生きてきた私は理解できないことばかりである。

しかしここで頭を切り替えて高校野球の選抜に出てくる孫さん。
孫さんのルーツは在日コリアンと同じである。
こんなことも在日コリアン子弟の励みの一助になればと思っている。
大方、半世紀、力道山からつがれた命がまた日本の春を沸かしてくれる。楽しみにしている。
天から見ている力道山、日本社会は変化を遂げているが日本に住んでいる在日コリアンの社会はまだまだ問題が山積みをしているので苦笑しているだろう。
新聞記事を見て力道山の子孫に1世で渡日した親たちの生き様を重ねてい
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